第8章 赤の女王Ⅱ
駆け寄ろうとするトゥイードゥルディーを視線で制して、女王は自らドアを引き開けた。
「陛下」
そこに立っていたのは三名の男。
この国の大臣かなにかだろうか。きらびやかに装飾しすぎて、ぱっと見、何色をしているのかわからない、統一感のまるでない礼服を身にまとっていた。
男たちの機先を制して、女王が言い放つ。
「マイナス四十六時間だ。貴殿らには、時間をもらってもなお足りぬ」
ぐっと、なにかを堪えるように眉根を寄せながら、中央の男が辛抱強く口を開いた。
「どちらへ参られるおつもりか」
「それを妾に問うか」
「〝ハンプティ・ダンプティ〟の凍結は、議会で可決されたはずです」
「暗号壁を突破するとは言っておらん」
「解析を続けていれば同じことです」
「…………」
「先日の第六階層での会戦もそうです。よりにもよって女王自ら出撃するなど。正気の沙汰とは思えません」
「ウィザードの力を測るためだ。赴いたのはディーだ」
「なお悪いです。いたずらに戦火を広げるだけでしょう、あの人形の力は……!」
「……今、なんと申した」
すっと、女王の目が冷たく細められる。
「人形と申したか、今」
「へ、陛下」
「妾の無二の同胞に対し、人形と申したか、貴殿」
「陛下、私は、」
「二度と申してみよ! そのなまっちろい喉笛、即刻かっ切ってくれる!」
落雷のような女王の一喝に、もはや大臣たちはひとたまりもなく言葉を奪われてしまう。
「よいか、そのカーボナイトよりも硬い頭でよく考えよ。節穴よりも眩んだ眼でよく見よ。彼奴らは我々の直上にきている。理解しているか、一日一時間一分一秒、時計が針を刻むごとに我らは奪われているのだ彼奴らに。居場所を。空を。それぞれの世界を。それをされるがままに頭を抱えて震えて耐えろというのか貴殿らは」
「そ、それは何度も議論しましたとおり、」
「議論? なにを議論した。貴殿らの意見はなにも生まぬ。壊さぬ。ただ鸚鵡のように嫌なことを嫌と繰り返すだけであろうが。もはや飽いた。話にならん。どけ」
「陛下……!」
「ディー。この役立たずどもを即刻つまみ出せ」
「かしこまりました」
言うが早いか、トゥイードゥルディーは忠実に任務を遂行する。
懲りずに進言する大臣たちを、問答無用で廊下へと排除する。
女王の名を呼び、抗議する大臣たちの声が、分厚いドアによって容赦なく断ち切られると、喧騒は現れたその時と同じように唐突に消え失せていた。
話の半分も小太郎には理解できなかったけれど、少なくとも女王は、あの敵との徹底抗戦を唱えている。そしてそれを、大臣たちが必死で阻止しようとしている。
ドアを睨みつける女王はこちらへと背を向けており、いったいどんな表情をしているのか、まるで窺い知ることができない。薄闇に絹のようにぼんやりと輝く髪の金色を眺めながら、小太郎は思う。
なにがそこまで、彼女を戦いへと駆り立てているのだろう。
いったい彼女は、なにと戦っているのだろう。
それを問おうかどうか迷っているうちに、女王に沈黙を破られてしまっていた。
「すまぬウィザード、予定変更だ。立てるか」
「え、あ、や、」
戸惑う小太郎を待てずに、女王は傍らに控えるメイドを呼ばわる。
「ディー」
「本日の処置は完了しています。問題ありません」
確かに──胸に手をあててみた。さっきまでの痛みが嘘のように消えていた。
深く大きく頷くと、女王は再度傲然とこちらを見下ろして、言った。
「十五分だ、ウィザード。其方の時間を、妾にくれ」
鉄の街が、眼下に広がっていた。
吹き上げてくるわずかな風に混じるのは、つんと鼻をつく錆のにおい。
灰以外の色彩を忘れた街は、放っておけばこのまま地の底深くへと沈みこんでいってしまうのではないかと思わせる。
以前もこんなふうに感じていただろうか。小太郎は思う。光景は、あの頃とまったく変わっていないはずなのに。まだこの世界が仮想現実で、ゲームという名の偽りの世界だと思っていたあの頃と。
なんとなく見ていられなくて、小太郎は頭上を見上げていた。
女王につれてこられたのは、塔のてっぺんだった。
アリスの世界を踏襲しているくせに、象牙の名を冠した赤の女王の塔。今思えばそれは妥当なネーミングだったのかな、と小太郎は自嘲気味に思う。あの物語の主人公は、この後どうなったんだっけ。
見上げた視界いっぱいに映るのは黒々とした尖塔。今にもこちらへ墜ちてきて、この国のあらゆるものを刺し貫こうと虎視眈々と狙っている。これだけ巨大なものだ。遠近感が狂っていないかと問われれば否定できない。それを考慮に入れても、そいつは目の前にあるように見えた。こちらを常に標的に収めた黒き尖塔。手を伸ばせばたぶん、きっと、届くのではないかというような。
「我々は、ここまでなのだ」
錆色の風に髪を煽られながら、女王がぽつりと呟く。
「ここまでなのだよ、今は」
塔のてっぺんなのだから当たり前だ。とは、言わない。これ以上上の階層へ行けないというわけでもないことも、小太郎にはわかっている。現に自分は数日前、ここよりさらに上の階層へと放り込まれ、散々な目に合っているのだから。
「あっちの空は、美しかったか」
とっさには答えられなかった。
「なんだ、覚えておらんのか。苦労したのだぞ、あれを表現するのに」
どこか自嘲気味に微笑んで、女王が続ける。
「この国の民にとって、空とは、この尖塔のことだ。今にも墜ちてきそうな、古ぼけた黒い天井のことだ」
空の意味が置き換わってしまったのは、今より二十年前だと、女王は言う。
「それでも妾は何度か見たことがある。本当の空を。妾が物心ついた頃にはまだ、この塔は第二階層にあったからな。地上へと抜け出す回廊が、いくつも秘密裏に用意されていた」
美しかったと、蒼い目を細めて、女王は遠くを見やる。
「決して豊かな国ではなかった。特産物もない。他に秀でた技術もない。一歩国の外へ出れば、草木一本生えない無限の荒野だ。だが、そこに父がいて、母がいて、大好きなひとたちの笑顔がある。それだけで皆満足だった」
だが──女王は視線を伏せる。
「ここにはなにもない。冷たく、暗く、見渡しても民の顔も見えない。あるのは鉄と錆と、処刑台のようなこの空だけだ」
どきりとした。この空だけだ。そうこぼす女王は、今にも泣きだしそうな顔をしていたから。
二十年前。奪われた空。ディーにも聞いた。数日前、阿鼻叫喚のあの戦いに放り込まれた時から何度も自問していた。いったいそれは、どうしてそんなことになっているのか。
「なんなんですか、アレは」
言葉も通じない、顔も見えない、ただひたすらに女王たちのいる地下を目指す無頼の〝敵〟。
「貴女たちは、いったいなにと戦ってるんですか」
いつものごとく、女王は即答する。
「人だ」
「人?」
「そうだ。我々と同じ、人だ」
「ヤツらの狙いはなんです? どうしてヤツらは攻めてくるんですか?」
「人だからだ」
「え?」
「我々と同じ、人だからだ」
禅問答をしているようだった。女王の言葉はまったく的を射ていないようで、それでいてそれ以外に表現しようがないとでも言いたげだった。
それは、何の前触れもなくやってきたのだという。
いったい彼らがどこからやってきて、どこへ行くのか、誰も知らないし、知ろうともしなかった。ただ、彼らは、人だった。生物学的にも、倫理的にも、紛れもない女王たちと同じヒトという名の種だった。操る言葉、ただその一点をのぞいては。
言葉が通じないということがこんなにおそろしいことだとは思わなかったと、女王は言う。
いったい何のために戦い、何を守り、何を奪おうとしているのか、それすらわからない。不明は困惑を呼び、困惑は敵意を呼び、世界中が悪意に包まれるのにさして時間はかからなかった。
知る必要があった。敵のことを。
彼らがなにを考え、何を求め、どこへ行こうとしているのか、理解する必要があった。
壁となったのは言葉だった。だが、それ故に突破口となるのもまた、言葉だと思った。言葉さえわかれば、なんとかなると思った。戦い以外の解決法が、見つかると思っていた。だけど、
「無駄だった」
「……どうしてですか」
「言ったろう、彼奴らもまた、我々と同じ人なのだと」
──我々にはもう、還る場所がないのだ。
最初に理解した彼らの言葉が、それだった。
泥沼の内戦の末の、結論だったのだという。政府は国を見捨てて行方をくらまし、それさえ知らない反政府側の臆病な指先が、すべてを終わらせるボタンを押してしまった。生き残った人々は故郷をなくし、居場所をなくし、荒野を彷徨い歩いて、ようやくたどり着いたのが、アリス・リデルだったのだ。
無論、最初は共存の道を模索しようとしていた。言葉の違いを超えて、両者ともにできる限りの力を尽くしたのだと思う。
が、アリス・リデルは決して裕福な国ではない。十万人弱の民をかろうじて養っていた国に、どうしてその倍の人口を賄う力があるというのか。
貧困は不満を呼び、不満は、衝突を生んだ。一歩外は無限の荒野というこの大陸にあって、新天地を求める選択肢もない今、結末は、たったひとつだった。
「同じ言葉を使えば、わかりあえると思った」
女王は、苦々しげに繰り返す。
「が、結果はこの有様だ。空を奪われ、地へ追いやられ、なんとか確保した鉱脈を糧に、逃げるように生きてきたが、それも限界だ。空は無限だが、地へと下る限り、いずれ行き詰る。だから取り戻す、あの空を」
きっぱりと言い切って、女王は小太郎を見上げた。
「そのためには、其方の力が必要だ」
「……俺の?」
「其方ほどのポテンシャルを持ったウィザードを、妾は知らない。ディーさえ足元に及ばぬ。其方さえいれば、彼奴らをこの国から──いや、この世から一掃できるだろう」
小太郎は思わずのけぞる。
「か、買いかぶりすぎです。なにを根拠に、」
「見た。この目で」
この前の戦いのことを言っているのだろうか、
「けどあの時は俺、途中で、」
「起動フェイズだけで充分だ。むしろあのまま放っておけば、彼奴らはもちろんのこと、自軍もろとも藻屑と消えているところであった。だから止めた」
目を瞬く。息を呑んで、女王を見つめる。
にわかには信じられなかった。自分の抗力といえば、せいぜい化け物に変身し、空飛ぶサメを引き裂くくらいが関の山だ。それを、トゥイードゥルディーが足元に及ばない? 一個大隊の敵を一瞬で消滅させたあのメイドが?
「検証地にいた頃と同じと思わないことだ。あちらとこちらとでは違う。あらゆる意味でな」
あくまで女王は持論を覆さない。
「なぜ其方がウィザードと呼ばわれるかわかるか」
またも突然の問い。小太郎は、トゥイードゥルディーに聞いた答えをそのまま返す。
「……生まれながらに、抗力を起動できるからでしょう」
「違うな。魔法を扱うから、其方はウィザードなのだ」
「……?」
「自身の考えの及ばぬもの、この世の理では計り知れないものを、ひとは魔法と呼ぶのだ」
──つまり、それが自分にはあるというのか。
もの問いたげな小太郎の視線を正確に理解して、女王は大きく頷く。
「妾の剣となれ、ウィザード」
絶望という名の、尖塔の空を背に、女王は言い放つ。この偽りの空を、真の空へと変えるために。
でもそれは──小太郎は思う。
だけどそれは、人を殺すということじゃないのか。この前のような戦いを、どちらかがいなくなるまで続けるということじゃないのか。
その問いを口にできぬまま、女王の言葉に答えることもできぬままに、ただ小太郎は立ち尽くすことしかできなかった。