第4章 鏡の国のパラダイム・シフト
金色の巻き毛、精白のエプロンドレス、少女のそれに似つかわしくない、薄いアルカイック・スマイル。
明らかに、アリスを模した少女から、チャンネルが開かれた。
「こんにちわ」
いつのまにそこにいたのか。いや、ここではそんなことはなんら不思議なことじゃない。そうじゃない。そういうことでなく、頭の中に引っかかるものがある。それは、
雑音、
そういえば、相棒から聞いたことがある。
〝それ〟はノイズと共に現れ、ほんの瞬きする間、視界の隅のその向こうの果てをかすめてゆく。
ログにも残らず、誰かのチート行為でもない。運営側も把握していないという公式発表があったということで、ネットでは電子の海が生み出した幻か、ということでちょっとした騒ぎにもなっているという。
ばかくさい。小太郎は思う。隠しキャラのことを運営側が公表しないのは当たり前のことだし、夢とか幻とか、そんな形而上的なものが介入する余地なんてあるわけがない。それがなんであれ、ここで見えるものはすべて0と1でできているのだから。
「あー、」
これもどうせ女王へと至るためのイベントのひとつだろう。とにかく無理矢理こじ開けられたチャンネルに便乗する。
「君も、赤の女王に?」
少女は、澱みなく答えた。
「〝あの丘のてっぺんに行こうかなと思いまして〟」
なるほど、正しくアリスだ。
妙に感心してしまったその隙に、エプロンドレスが翻った。あっと思った時には、少女の背中は塔の中へと消えていた。
反射的に後を追った。外見に反して、塔の中は雑然としていた。あちらこちらに基礎となる鉄骨がはみ出し、内装? なにそれ食べれるの? とでも言いたげに階上へと続く巨大な螺旋階段の邪魔をしている。ろくな照明もなく、申し訳程度に点された非常灯が余計に周囲の闇を濃く深くしているようだった。
エプロンドレスの裾が、階上へと吸い込まれるのが見えた。ここはやはり追うべきなのだろう、螺旋階段を駆け上り、小太郎が階上へと辿りつくと、ちょうどまたエプロンドレスの裾がさらにその上へと吸い込まれたところだった。小太郎が階段を登ると、はかったように階上へと消えるエプロンドレスの裾だけが見える。その繰り返し。どれだけ駆けても追いつかない。胸の痛みがぶり返す。まるで同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。
理不尽だな、と小太郎は思う。
普通、追いかけるのはアリスの役目だろうが。
雑音、
まるっきりエンカウントしないことに気づいたのは、その部屋の前に来てからだった。
おそらくは塔の最上階。煩雑な基礎も鉄骨も錆びたにおいもしない。塔自体への皮肉か意地か、ここだけは主の名を体現するかのように、壁も天井もカーペットも燃えるような赤で統一されていた。ネットで見た画像通りだった。
てっきりあのアリスとのバトルがあるのかと思ったのに、いつのまにか少女の姿は消えていた。曲がりなりにもラストダンジョンがこんなに難易度低くていいのかと思いながらも、とりあえず考えるのは後回しにする。胸の痛みがどんどんぶり返している。回復アイテムも底をついた。脂汗が止まらない。HPの低下が小康状態になっているのだけが救いだ。とにかく、ここまで来たらひと目女王を見ないことには締まらない。
見上げても足りない巨大な赤い扉に手をかける。
殺気は、ドアを開けると同時に感じた。
とっさにかがみこみ、そいつへ向かって身体ごとつかみかかった。
思いがけず華奢な感触にびっくりしながら、そのままなにかやわらかいところへ押し倒すかたちになった。
そこが、豪奢なベッドの上だと知ったのは、馬乗りとなった彼女の細い首に反射的に手をかけてしまった後だった。
腰から引き抜いたコンバットナイフを振り上げて、だけど小太郎は、そのまま石になった。
においがした。
香水とかシャンプーとかそういうのじゃなく、小さかった頃から、いつだってそばにあったあのにおい。
懐かしいにおいに頭がくらくらした。似ているなんてもんじゃなかった。眼鏡なんかしていない。前髪だって目が隠れるくらい伸ばしてもいない。
めったに見せてくれないでぼちんの素顔そのものが、そこにはあったのだ。
ただひとつ違ったのは、鴉の濡れ羽色だった長い髪が、眼の覚めるような金色になっているそのただ一点のみ。
思わず見惚れていた。視線を釘付けたまま、このまま一生動けないのではないかと思った。思ったその途端、目の前のでぼちんの唇が、
「やはり舞い戻ってきたか。痴れ者め」
突然の衝撃。横からの。
壁に叩きつけられた小太郎は、為す術もなく赤いカーペットへとくず折れた。
身体が動かない。胸が痛い。死に物狂いでぐらつく視界に捉えたのは──女? でぼち──女王ではない。身にまとうのは、エプロンドレス? でも、アリスじゃない。
やはり一筋縄じゃいかないのか。
「……まあいいや」
目的は達した。経験値が減るのも癪だ。ここは尻尾巻いて逃げるに限る。さっさと強制終了しようと視線ジェスチャーで終了オプションを呼び出そうとして、
「……?!」
反応がない。ミスったか。それともまた誤作動か、慎重に視線を動かすが──同様だった。
慌てて運営へのチャンネルを開こうとするが、ばかか、だからジェスチャが効かないんだっつの。
袖のジッパーを開き、備えつけのキーボードを引き出す。システムサーバにアクセスし、強制的にアカウントを排除する。ダメなら仕方ない、電源自体を切断すれば、
「……なんなんだよ」
反応がない。
いや、そもそも、キーボード自体に火が入らない。
「なんで、これ──どうなってんだよ」
答えたのは、ベッドの上の彼女だった。
「戻れぬよ、もう。ここまで来てはな」
レザーに艶めく、チューブトップのワンピース。前の大きく開いたシースルーのオーバースカート。そのすべてを名前どおりの色に染めて、彼女が歩み寄る。
小太郎は、問うしかなかった。
「……どういうことだ」
でぼちんと同じ顔で、きっぱりと赤の女王が言い放つ。
「ここが、其方の現実だからだ」