第3章 抗力──カウンター・フォース
──雑音。
剣で貫いた胸から、痛みが爆ぜる。
痛みに比例して、目前のウインドウ上、HPの数字が吹っ飛ぶように減ってゆく。
五四○○、五三〇〇──加速する。
まずい。やりすぎただろうか。なるべく細い刃で、うまく肋骨の間を通したはずなのに。
歯を食いしばる。根こそぎ持ってかれそうになる意識を死に物狂いで繋ぎ止める。これじゃあなんのためのチートかわからない。女王に会う前に終わっちまったら本末転倒だ。
睨みつけるようにジェスチャ。激減した分のHPをまるごとCFというパラメータへと変換する。
カウンター・フォース──仕様書には〝抗力〟とも記されている、おそらくは実装する予定だったであろう隠しパラメータ。
PCのHPと引き換えにオーバーレベルの力を引き出す裏技であり、顕現の仕方はそれぞれのキャラクターやパラメータによって異なるのだという。
腕が一回り大きくなり、掌はさらにふた周り巨大に変貌する。
両手の爪は待ちきれないように一気に黒く太く伸び、両肩と胸の強化が間に合わない。
小太郎は耐え切れず右足を前に踏み出した。前傾姿勢、肥大化した両腕が振り子のように地面すれすれを揺れる。
痛みは時が経つごとに激しさを増し、全身を蹂躙する。奥歯を噛みしめようとして、いつのまにか鋭く伸びた牙が唇を刺し貫いてしまうことに気づく。
唇から、胸から、だばだばと滝のように流れる自らの血が見える。そのにおいをかぎつけたのか、あるいはCFのパラメータに反応するのか、無限の円環の中にいる敵の眼が、こちらを捉えるのがわかった。
やはり遠近感がおかしい。ゆったりと、こちらへと舵を切ったと思った時にはもう、大きく開かれたヤツのアギトが目の前にあった。
普通にこわい。これがフルセンスの威力。通常ならばあまりの恐怖に声さえ出ない状況だったのではないかと思う。
そう、通常ならば。
無造作に、右の腕を振るった。凶悪な黒き爪はサメの横っ面を直撃、いとも簡単に頭部を切断すると、吹き飛ばした頭部が跳ね返ることなく地面に鼻面を突っ込んだ時には、小太郎はすでに地を蹴っていた。
頭部を失いながらも直進してきたサメの巨体を足場にさらに跳躍、突っ込んできた二体目のアギトを両腕で受け止めた。
と、思いきや、次の瞬間には紙でも裂くように上下にその巨体を引き裂いていた。スパンコールのように迸る鮮血の中、小太郎の意志とは関係なく、口許が笑みで歪む。
抗力が生み出す現象は、PCによって様々だ。が、どんなに多種多様な結果となろうと、ある一点において共通する事象が存在する。
自分以外の他者を、徹底的に排除する、という一点において。
跳躍による運動エネルギーは底をついた。重力に囚われ落下する他ない中、頭上には迫り来る三体目のアギト。が、負ける気はしなかった。胸の一点から痛みと共に湧き上がるものがある。衝動が滾る。破壊に飢える。もてあます。みなギル。
掻き消える。
空中でありながら、あろうことか小太郎は跳躍する。空を蹴る。加速する。
三体目に身体ごとぶち当たり、自分の頭よりも巨大な眼球に容赦なく振り上げた爪を突き入れる。鼻面にかぶりつく。かすれゆく意識で、味覚と嗅覚のモジュールをカットしておけばよかったと若干後悔した。かまぼこは、正直苦手だ。
雑音、
気がついたら、三体のサメはきれいさっぱり消えていた。
ついでに相棒の姿もなかった。視線ジェスチャで確認。名前が赤い。強制ログオフ。またやってしまったかもしれない。このPK野郎という罵声が今にも聞こえてきそうだ。ごめん。おざなりに謝っておく。
胸に突き刺さったままの剣に手をかける。正直抜くのはこわいがこのまま置いておくわけにもいかない。大きく息を吸って、止めて、
一気に引き抜いた。
滝のように噴出した。一瞬自分の血だとはにわかに信じがたかった。それほど激しい血柱だった。まずい。CFによって失ったHPは再度ログインするまで回復しない。視線ジェスチャで確認。さっきほどの勢いではないが、HPが減り続けている。せめてこいつをせき止めなくてはいけない。
アイテム・ウインドウを召喚。フッフールのひげ、グモルグのため息、ありったけの回復アイテムをかっこんで、ようやく痛みは消えた。が、全身が重い。にじみ出る血がいつまでも止まらなかったが、かまわない。ズボンを破って乱暴に胸に巻きつける。とりあえず女王に会えるまでもてばいい。
改めて周囲を見渡した。塔の麓に三つの宝箱。先刻のサメが残したアイテムだった。プレイヤーならば喉から手が出るほど欲しいレアアイテムばかりだったが、興味が湧かなかった。
足を踏み出す度に、胸に鈍痛が走る。そんなとこまでリアルにしなくてもいいのに、脂汗が止まらない。
血にまみれ、痛みに耐え、赤の女王そっちのけで日常生活を謳歌する他プレイヤーには目もくれずひたすらにモブたちとバトってきた。だけど、
手にしたのは、経験値や金、無機質な数値データとわずかばかりの賞賛とうっとおしいまでの妬み。
なにやってんだろうな、偽物の痛みに頬を歪めながら、小太郎は思う。
ことさらゲームが好きだったわけじゃない。流行に敏感というわけでもないし、もともとはでぼちんからインターフェイスごとこのゲームをもらったからで、義理半分、暇つぶし半分のようなものだった。
確かに赤の女王がでぼちんをモデルにデザインされたという話を聞いてからは俄然燃えてはいたけれど、それだけが理由というわけじゃない。ようはこれは八つ当たりのようなもので、根底にあるのは、たぶん、おそらく、
雑音、
目をしばたいた。頭を強く振って、ノイズを振り払った。
珍しくあっけなく引き下がったノイズに拍子抜けしたのも束の間、
そこに、〝それ〟がいることに気づいた。