第2章 でぼちん
自分以外のなにかにその原因を求めるとするならば、そもそもの発端は、この世界の在り様にあったのかもしれないと、小太郎は思う。
世界は、健康だった。抜本的な少子化対策の博打的成功、高度な医療技術の確立、自給自足率の記録的な増加。世界は過渡期の絶頂であり、しかし、どこまでも健康であるがゆえに、やがて誰にもどうしようもない不治の病を患うこととなった。
爆発的な人口増加。それにともなう住まうべき場所の欠如。世界は、擦り切れる絹糸のようであり、その先にあるのは、無限の焦燥と先細りへの恐怖のみだった。
だから人々は夢を見た。現実がどうしようもないのであれば、夢をみるしかない。それが人間という種に与えられた唯一無二の武器であり、弱さであるからだ。
発想は極めて単純だった。
なければ、探せばいい。
足元に居場所がないのであれば、空へと手を伸ばせばいい。それはこの国だけではない、世界中を巻き込んだ、一大宇宙開発時代の幕開けだった。
が、夢は、所詮夢だ。
今まで絶対だと信じてきた物理法則は突き詰めれば突き詰めるほど机上の空論へと変貌していった。
絶対的なエネルギー枯渇問題、そして、もはや恐怖と同義の、根本的な疑問。
本当に、この先に求めるものがあるのか。
それはそもそも、夢でさえなかったのかもしれない。幻想とも違う。現実逃避とも違う。ただの、集団心理が見せる一時の熱病。
夢が終わったその先には、現実がある。
だけど人々がみたのは、これ以上ない、さらなる突拍子もない夢に他ならなかった。
居場所がなければ、探せばいい。それが今までみていた夢であり、破れた幻であった。ならどうすればいいのか。そもそも、世界に囚われるから立ち行かなくなるのではないか。
ひとつの大きな声があった。それは大きな声であるがゆえに増えすぎた人々の夢を刺激した。世界に囚われるから悪い。世界などいらない。肉体など捨ててしまえばいい。
精神を、無限の野へ解き放て。
白羽の矢は、一企業に立てられた。ナガモリ・ネットワーク。ルーティング装置に関して世界トップシェアを争う企業のひとつであり、世界を電子的にマッピングするプロジェクトを進めている第一人者でもあった。夢が、即座に夢のままで終わらなかったのは、ひとえにかのプロジェクトのせいであり、幹部を勤めていた小太郎の両親の仕業だったと言われている。
プロジェクトの名は、『赤の女王』
開発責任者は、でぼちんの両親だった。
世界をマッピング、デジタル化し、誰もが血湧き肉踊る仮想現実を造り出す。でぼちんの両親はこのプロジェクトがそういうものだと信じて疑わなかった。が、現実は違った。真実は歪んでいった。ふたりは反対したという。そんなことができるわけがない。自分たちはそんなことのために今までこの計画を進めてきたわけじゃない。
が、小太郎の両親は聞き入れなかった。実験体に選ばれたのは、でぼちんの両親だった。
結果は、言わずもがなだった。
月も出なかったあの、透明な夜。あの時のでぼちんの声、でぼちんの言葉、でぼちんの顔、でぼちんの瞳、でぼちんのすべてを、一生忘れることはないだろうと、小太郎は思う。
彼女の両親亡き後もなお、計画は中断されることなく続行された。ふたりの死に、赤の女王プロジェクトは一切関与していない──それがナガモリ・ネットワークの一貫した主張だったからだ。
幼いながらも、小太郎は強く、鮮烈に覚えている。でぼちんの両親亡き後、なにかにとり憑かれたように自らを実験体として試行し続ける両親の姿を。今思えばそれは、緩やかな自殺であり、事実ふたりはまるででぼちんの両親の後を追うようにその三ヵ月後、帰らぬひととなった。
小さかった小太郎は、その意味がわからないまま孤児院へと預けられ、そこで、でぼちんと再会することとなったのだ。
ごめんなさい。四つも離れた小さな自分に、開口一番、でぼちんは深々と頭を下げた。拳を振り上げて、どうしても振り上げるしかなくて、振り下ろす先が欲しかった──がけっぷちで涙を堪えながらもまっすぐにそう告白する彼女の瞳が印象的だった。小太郎にはやっぱり意味がわからなくて、ただただ、目の前の彼女のおでこを見つめながら、また、あの時のおつきさまに会えたと、ばかみたいに喜んでいたように思う。
以来、小太郎はでぼちんと共にあった。いつだってでぼちんに守られていた。親なしと罵られ、いじめられたときも、いつだってたすけてくれた。両親の死の意味を知り、一晩泣き明かしたときも、ずっとそばにいてくれた。でぼちんは小太郎にとって、姉であり、母であり、親友であり、父であり、初恋のひとでもあった。
おれ、おおきくなったら、でぼちんのおよめさんになる。
それが、小太郎の口癖だった。
うちより、大きくなったらね。
小太郎の頭をガシガシ撫でて、およめさんは無理やけどと、決まってでぼちんはツッコんだ。
大きくなるのは簡単だったんだけどな──ことあるごとに、小太郎はそのことを思い出す。
でぼちんの身長を超えるなんて、朝飯前どころの話ではなかった。なんたってでぼちんは、高校生にもなって一三九センチしかなかったから。
「一四○センチ」
「あれ、俺、声に出してた?」
そう、二日前のあの時も、つい不用意に口走っていたような気がする。
小太郎の中学と、でぼちんの高校、その通学路が交わる土手の遊歩道。どこかすねたように、憮然とでぼちんは繰り返した。
「一四○センチ」
でぼちんはよく嘘をつく。だけど、人を騙すのはそんなに巧くない。そのへんがでぼちんだな、と小太郎は思う。どちらにしても、小太郎がでぼちんより大きくなった事実に変わりはないのだけれど。
無論、でぼちんのあの時の言葉がそういう意味ではないことはわかってる。本当の意味ででぼちんを超えるのはきっと、考えるより尋常でなく大変だ。
神童。とはまた違う。天才を形作るものが、九九パーセントの努力と、1パーセントの才能だというならば、少なくともでぼちんの場合、一○○パーセントが努力の賜物だと思うからだ。孤児院で再会した時にはもう、彼女はそれを始めていた。その延長上にある今。彼女の肩書きは邦月高校三年三組出席番号三番兼、ナガモリ・ネットワーク第三開発部開発主任。それはかつて、でぼちんと小太郎の両親が所属していた開発チームの名前だった。
大股でずんずん歩きながら、でぼちんは言う。
「一三九と一四○じゃ大きく違う」
余裕ででぼちんの歩幅に合わせながら、小太郎。
「あんまかわらんじゃん」
「印象の問題。二割九分九厘打ってたバッターが三割打つのと、三割打ってたバッターが三割一厘打つのと、どっちがより喜ぶと思う?」
「あー、なるほど、それもそうね」
「ばか」
「え、なんでそこでばか?」
でぼちんは答えない。わけがわからないが、まあいいか、小太郎は思う。でぼちんだし。
「もしかしてでぼちん、おなかすいてる?」
「なんで」
「いや、だって、でぼちんのでぼちんとこ、皺寄ってる」
「でぼちんゆうな。でぼちんのでぼちんてわけわかんないし。あとおなかなんてすいてないし皺も寄ってないしそもそも見えるわけないし」
それよりいったいなんの用だ、とばかりに本日初めて前髪と眼鏡の向こうの視線がこちらを射る。
「言っちゃってもいいかどうか迷うんだけども」
「なら言うな」
「わかった」
しばらくでぼちんはやっぱり前方をじっと見据えながらずんずん大股で歩いていたけれど、
「……やっぱり言え。ばか。気持ち悪い。気になる。キモい。あんたキモい」
「え、何? キモいの俺? 俺がキモくなるの? 今の流れで?」
「うるさいばか。いいから言え。キモい」
相変わらずの傍若無人ぷりに、思わず小太郎は苦笑する。まあいいか、でぼちんだし。いつものため息とともに、気を取り直す。なんでもないふうを装いながら、小太郎は問うた。
「今度の日曜、誕生日だろ」
それは、再会して初めて知った事実。でぼちんと初めて出会った日。
そして、彼女の両親が、亡くなった日。
「今年も、あそこか?」
ぴたりと、でぼちんが足を止めた。
わざとでぼちんを追い越して、小太郎もまた、ゆっくりと立ち止まる。踵を返す自分を待っていたかのように、でぼちんは静かに切り捨てるように言った。
「あんたには関係ない」
そうであれば、どれだけ楽か。噛みしめた奥歯の向こうで、小太郎は思う。
それは、毎年の儀式。定められた通過儀礼。
でぼちんの向こうには何かに急かされるように天を目指したまま、時を凍りつかせた様々な尖塔の姿がある。大気圏内に、ステーションを建設するための足場となるべく先を競うように造られた巨大なビル群。かつて皆が熱病のようにうなされた開発計画の成れの果て。どうすることもできなくて、ただただがむしゃらに踊るしかなかった人々の残骸。
「来んでええよ」
こういう時だけ京都弁になるのは、勘弁してほしいと思う。
でぼちんもそれに気づいたのか、
「みんな気を遣うし、あんたもいい気分じゃないでしょ。いいよ来なくて。無理しなくていい。こたろーが気にすることはなにもない」
毎年のこと。通過儀礼。再会したあの時から、でぼちんは同じことを繰り返す。繰り返してくれる。あんたのせいじゃない。あんたは関係ない。なにも気にすることはない。でぼちんだから。でぼちんの言うことだから。信じたい。信じたいと思う。だけどでぼちんはよく嘘をつく。ほんとによく嘘をつく。その上、他人を騙すことが、非常にへたくそだから、でぼちんなのだ。
出会ってからはや六年。一度たりとて小太郎は見たことがない。自分に笑いかけてくれる、でぼちんの姿を。
「偉いひとが言ってる」
それは、でぼちんの口癖。
「ひとは、なにかを犠牲にしなければなにも得ることができない」
生きるということは、戦いだから。
「その力がなかったってことなのよ」
ふたりの両親は。
「これは、そういうことなのよ」
自分に言い聞かせるように、でぼちんは毎年その言葉を繰り返す。
そうだろうかと、小太郎は思う。所詮それが、この世界の在り様なのだろうか。
だったら俺は、誰を犠牲にすればいいのだろう。
誰を殺せば、手に入れられるのだろう。