第26章 ドラゴン・ヴァリエーション
尋常でない量の光と熱と波が体内に注ぎ込まれる。
どれだけ歯を食いしばっても足りない。どれだけ拳を握りしめても抑えきれない。でぼちんから聞いて、覚悟はしていたつもりだったのに、話を聞くのと、実際に体験するのとでは大違いだった。
抗力を用いた、人為的な爆発。勝手にウィンドウが起動される。気が狂ったようなエラーメッセージの嵐。その合間を縫って、CFゲージが吹っ飛ぶように上昇する。爆発が至近すぎた。貪欲に取り込みすぎた。CFゲージは瞬く間に真っ赤に明滅して抗議の声を上げ、
左腕が爆発したのかと思った。二の腕が二まわりほど膨れ上がったかと思うと、次の瞬間にはなにかのタガが外れたかのようにのたうち伸びていた。思わず目の前にかざしたそれが、自分の掌であることを、一瞬理解できなかった。もともと自分にはこんな巨大な鉤爪はついていなかったし、普通、掌は人間ふたりをすっぽりと包めるくらい大きくはならない。
──アブゾプション。あらゆる運動エネルギーを取り込み、抗力起動のための礎とする。
起動フェイズの応用だと、でぼちんは言った。
抗力とは、なにかを犠牲にして初めて起動する力だ。が、だからといってそれが傷や痛みと直結するのは明らかに思考の停止だと、でぼちんは言う。なにも心や肉体を引き換えにしなければならないルールなどない。抗力とは、あくまでひとが持つ進化という力の現れのひとつなのだから。
「だいじょうぶ?」
でぼちんが、首筋にしがみつく手にきゅっと力を込める。正直力を取り込んだ反動とは違う意味でくらくらしていた。頬にあたるでぼちんの吐息、腰に回した手の感触は凶悪といってもよく、さっきから鼻腔をもてあそぶいいにおいに自分はこのまま殺されてしまうのではないかと思うというかまあいいか別に死んでも。
──いやいやいや、
逆巻く風に翻るセーラー服を、引っかけないように腕を下ろすと、
「と、とりあえずは」
掌が、自分の足元のさらに下方にあった。胸の奥で逆巻く圧力の塊を依然感じる。だけど、なんとかメタモルフォーゼの暴走をくい止めることはできたようだった。
「ってか、なんでいきなりこんなとこに出てきてんだ? 普通にイソウヘンカンとやらやってくれりゃよかったんじゃないの?」
今の今まで自分たちは例の白騎士の屋敷にあたる場所にいたわけだし。
だけどでぼちんは、ズレた眼鏡を押し上げると、こともなげに言う。
「こっちのがいいと思って。戦況的に」
「戦況的に?」
「後で〝抜け〟ばいいでしょ、ここから」
「抜くって」
ぶち抜けってことですか、ここから──あの地下の最下層まで?
「うん」
「マジですか」
「とりあえず今は、目の前のことね」
「へ」
つい、と頭上を見上げ、でぼちんは言う。
「くるわよ」
計ったように、頭上の尖塔が爆発していた。再び現れる黒き卵に、
「考えたわね」
「え」
「近接信管に切り替えたか」
「キンセツシンカンて、な」
これが答えだとばかりにそれは、小太郎にも、足元の障壁にも触れることなく、目の前で爆発していた。
「第三波直撃!」
押し潰されそうな衝撃の中、舌を噛むのも恐れずにオペレータが叫ぶ。
かろうじて瞬いていた予備電源の灯火が激しく明滅し、ただでさえ風前の灯火だったメインスクリーンの緑が断末魔の輝きを一瞬放って、直後沈黙する。
初撃の比ではなかった。が、第二波の時は完全に衝撃も振動も打ち消していた。その時と今と、いったいなにがどう違うのか、ここからは判断がつかない。すべてはくその役にも立たなくなったモニタの向こうの出来事。
この世界は、希望も絶望もすべて呑み込む。師団長はこの年になってそれを改めて思い知った。だからなにも期待しない。なにも落胆しない。努めてただ目の前にある状況のみに注力する。自分に言い聞かせる。
「メインモニタ、回復します!」
永遠にも似た数秒が経ち──数分だったのかもしれないが──頭上の宙空に、再び満身創痍のメインスクリーンが浮かび上がる。
映し出されるのは──
「上空に大規模な抗力反応!」
この世界は、希望も絶望もすべて呑み込む。だからただ、目の前の状況に注力し、自分が今できることに邁進する。そう決めた。そう言い聞かせた、つもりだった。
が、言い聞かせるだけでどうにかなるものであれば、誰も苦労はしない。
「パターンはγ! ウィザードです! 生きてます!」
オペレータの絶叫に、結局心の底から期待していた自分に、今さらながらに気づく。
雲が晴れるように消え行く爆煙の向こう、確かに〝それ〟は変わらず空に立っていた。
「ウィザード以外の抗力反応は」
「ありません」
「敵機甲部隊は」
「完全に沈黙しています」
こちらには抗化障壁がある。頼みの綱の抗化爆弾もウィザードに無効化されているとあって、攻めあぐねているということか。
師団長の口元に、悪魔のような笑みが浮かぶ。この機を逃すわけにはいかない。積年の恨み、今こそ晴らす時だった。
指令席から立ち上がり、師団長はここぞとばかりに命令を下す。
「定跡変更、クィーンズ・ギャンビット・アクセプテッド! 高射大隊に伝達! 目標、敵機甲部隊! 弾尽き果てるまで、撃って撃って撃ちまくれ!」
抗化爆弾が抉り出した身を切るような沈黙を、無数の砲撃音が瞬く間に埋め尽くす。
足元から放たれた火線が放物線を描き、塔を取り巻く鉄の装甲をやすやすと貫いてゆく。
しばし考えあぐねるように躊躇していた敵軍も、やがて反撃を開始。障壁に阻まれようがどうしようが、すべて尽き果てるまでの徹底抗戦の様相を呈していた。
──どいつもこいつも、
小太郎が唇を噛みしめるのは、体内を蹂躙するさらなる力のせいばかりではない。
でぼちんの腰に回した手に、力を込める、
「……でぼちん、耳ふさいで」
返事も聞かずに、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「女王ォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
それは、一瞬火線さえ途切れるほどの大音声。
「俺! これから偉そうなこと言います! 先にあやまっときます! すんませ──ぃたたたたたた痛い! でぼちん痛い!」
「……なんで女王にはそんな腰低いのよ」
耳を押さえながら、でぼちんが容赦なく尻をひねり上げていた。
「イタイいたいケツ痛いつねるな痛い落ちる落ちるでぼちん落ちるやばいって!」
相変わらずでぼちんはとんでもない。小太郎は思う。
だけど、これでいいと思う。これが、いいと思う。
言いたいことがあれば、面と向かって言ってくれればいい。いくらでもつねってくれればいい。言葉だけでは、伝わらないことがあるのだから。
涙が浮かんだ瞳で、視線ジェスチャ。呼び出したウインドウ、起動フェイズでホールド。ぶっ壊れてもかまわない。躊躇せずに、コマンドをかっさらった。
「そんなとこに閉じこもってるから! ドンパチするしかなくなるんだ!」
一本だったCFゲージが、瞬く間に増殖、ウインドウを埋め尽くす。
まず、高射大隊との通信が成り立たなくなった。
スクリーンを切り裂いていた火線が半分になり、窓に映る小雨の様相を呈し、ついには完全に消えていた。
それは、敵もまた砲撃を中断したことを意味していた。
「敵機甲部隊、完全に沈黙!」
「車両を捨て、後退していきます!」
いったいなにが起こった。高射大隊からの返答はない。だがおそらくは敵と同じ状況に陥っている可能性は極めて大といえた。
「機関室より入電! 抗力炉出力低下! このままでは!」
報告を聞くまでもない。抗化障壁もまたすでにその体を為していなかった。
「……なにが起こっている」
口に出してみても詮無きことだった。答えはきっと、師団長の中にすでにあった。
彼だけではない。この場にいる誰もがそれに行き当たって、だけどどうしても納得できずに口に出せずにいた。
手元のコンソール。塔の抗力炉に反比例するように、天を衝く一本のグラフがある。
答えは、宙空に浮かぶメインスクリーンにあった。どうして彼が、そんなことをするのか。それがその場にいる全員の総意であり、でもだけど、だからこそなのか、と師団長は思う。
今、空に立つウィザードは、明らかに自分たちの知るウィザードではなかったからだ。
「……ドラゴン・ヴァリエーション」
どこからともなく漏れた呟きどおり、宙空のスクリーンには、一体の竜が映し出されていた。
炎を連想する赤色の瞳が、まっすぐにこちらを射ている。ゆらりと伸ばした長大な首は、頭上の尖塔に今にも届きそうで、ずらりと並んだ凶悪な牙は見る者に死と恐怖しか想起させえない。ただでさえ大きかった掌は巨大なアギトのさらに数倍のスケールを誇っており、背に広げた深紅の翼とあいまって、偽りの空全体を覆いつくさんとしているかのようだった。
巨大。とにかくその一語に尽きた。胴体と尾がひとつながりとなった下半身は象牙の塔を二周りしてもまだ足りない。これがあの、異国の衣装を纏った少年と同一の存在だとは、変貌の過程を目の当たりにした今となっても到底信じがたい現実だった。
──これが、ウィザードの本当の姿か。
絶対的な異形を前にして、完全に思考停止した師団長を、かろうじて呼び戻したのはやはり、オペレータよりの絶叫だった。
「ウィザード内部にて大規模な抗力反応! すさまじい勢いで増大していきます!」
今度はなんだ、問い返す間もなく、
「八○○○、九○○○──一二○○○、さらに上昇、止まりません!」
メインスクリーンの中で、深紅の翼がこれ以上ないほど押し広げられる。周囲がかすかに揺らめいて見えるのは、決して気のせいではない。それは、肉眼でも確認できるほどの力場の奔流だった。それが土台であり、これから起こる衝撃を打ち消すための反作用の発生だということに気づいたのは、なぜだろう。
巨大なアギトが開かれる。ぞろりとそろった凶悪な牙の狭間に、ちろちろときらめく光が見えた。
炎の瞳は、まっすぐに塔の根元──女王のいる地下を射抜いていた。
──まさか。
考えるまでもなかった。
「状況を破棄! 総員退避! 急げ!」
爆発とは──力とは、こういうものだといわんばかりのそれは、光だった。
かつてこの世界が世界というカタチをとる前にあった原初のエネルギー。力の中の力。異なる信号に変換され、スクリーンに映し出されているだけのものにも関わらず、目にしただけで無条件で屈してしまうような、圧倒的なまでの赤光。
それが、塔の根元を抉った。
ひとたまりもないはずだった。地は裂け蒸発し、この星の裏側まで突き貫かんだけの力を当たり前のように持っていたはずだった。なのに。
予備電源さえ死んでいなかった。宙空には未だかすかに明滅しながらもメインスクリーンが健在であり、自分もオペレータたちも座席から投げ出されていることもない。まるでない。
自分は、夢をみていたのだろうか。師団長は思う。だとしたら、どこから? どこから自分はこんな身もふたもない、毒にも薬にもならない夢をみていたのだろうか。
宙空に浮かんだスクリーン。今にも消えそうに明滅する緑のモニタに映し出されている彼の姿を目の当たりにして、だけど師団長は思い知らされる。
夢じゃ、ない。
メタモルフォーゼを解除する。だけど未だくすぶる力の奔流に邪魔されて、完全に元に戻ることができなかった。左腕がやっぱり通常の五倍の大きさだった。爪が消えず、気がついたらしっぽが生えていた。学生服のケツ、〝向こう〟に帰ったらふさがるかな、ちらりと考えながら、小太郎は足元を見下ろす。
未だ紅い視界に移るのは、巨大なクレーター。たった今、自分が穿った女王への路。
でぼちんの言うとおりぶち抜いたはいいが、照準がズレた。根元を三分の二ほど抉られた塔はだけど、そんな危ういバランスと物理法則をまるっきり無視して、変わらず偽りの空へ向けて屹立している。
首許のでぼちんへと、おそるおそる問う。
「……これ、いつまでもつ?」
さらりと、でぼちんは答える。
「いつまでもたせたい?」
それはつまり──まあ、そういうことなのか。でぼちんの力を信じようと思う。ただ、
「これ、まさか向こう側までぶち抜いてないよね……?」
「だいじょうぶ。ハンプティ・ダンプティの暗号壁は尋常じゃない。健在よ。赤の女王も、彼女も、ね」
「……彼女?」
「百聞は一見にしかずね」
どこかで聞いたような言葉と共に、でぼちんは視線をジェスチャする。直後、宙空に現れたのはエメラルドグリーンのウィンドウ。そうだよな、小太郎は思う。できるよな、こんなことくらい。
「てゆか、それならそれで最初からやってよ」
大声出して損した。だけどでぼちんは、しれっと答える。
「だって、そうしたいのかと思って」
……でぼちんにはかなわないと、やっぱり思う。
改めて小太郎は、宙空のモニタへと向き直る。緑がかった画面に映し出されているのは、もはやいいかげん見慣れた百畳は越える広大な広間。そして──
正直、まだ頭の中を整理できていなかった。こんなに早く対面することになるとは思っていなかったから。だけど、ここまできた。でぼちんの反対を押し切ってまでここまできたのだ。今さらもう、後には退けなかった。
「──五分です、女王」
真正面に映る、そのひとをまっすぐに見つめる。
「今すぐそっちに行きます。五分だけ、俺にください」
『やってどうする』
刃物のような言葉で、女王が切り返す。
『その力で、この戦を終わらせるとでもいうつもりか』
「……!」
『無駄なことだ。其方も見てきたろう、この戦いを。この短い期間で。縮図だ、この戦いは。拳には剣を。剣には鉛弾を。鉛弾には砲弾を。砲弾にはバリアを、バリアには爆弾を。たとえ今、其方の力でこの世を席捲できたとして、いずれその力の及ばぬ力が開発される。無慈悲に投入される。ひととは、そういう生き物だからだ。その繰り返しだ。なにも変わらない。なにも、変わらないのだ』
『いいえ、変えますよ、彼は』
突然の、声。
不覚にもそれが誰なのか、すぐには判断できなかった。いつもの白い兜と甲冑を脱ぎ捨て、彼女は女王とそっくりな、それでいてすべてを白に染めたワンピースを身に纏っていたから。
──健在よ。女王も、〝彼女〟も、ね。
ここにきて、ようやく小太郎はさっきのでぼちんの言葉の意味を理解する。
「……白騎士?」
腰まで届く黒髪をかすかに揺らして、白騎士は首を振る。
『白騎士ではありません』
頼りなげに震える唇を、きゅっと引き結んで、彼女は深々と頭を垂れた。
『申し遅れました。私は、白の女王。此の国より空を奪った、彼の国の、長です』