第25章 チェス・ゲーム
アリス・リデルは、ガラクタの街だ。
黒と白と灰色さえあれば、目に届くあらゆる風景を写実し尽くせる鉄と油と、錆にまみれた街だ。
見上げたそこに、空は見えない。抜けるような青と雲の白のかわりに鎮座するのは、上部階層より突き出た、打ち捨てられた尖塔。人々は言う。第九階層のどこにいても頭上に仰ぎ見ることができるそれらは、地べたを這いずり回る我々を、隙あらば刺し貫かんと、今か今かと待ち構える天の槍なのだと。
人々は畏怖する。驚き惑い、逃げ狂う。
自分たちを刺し貫かんと、待ち構える天の槍。口ではそういっていても、誰もが心のどこかで否定していた。そんなわけがない。この世に神などいない。世界はそこまでじゃない。自分たちは、なんだかんだいって、だいじょうぶなのだ。
誰もがそう信じ、信じようとして、綱渡りのような日々をそれでも細々と生き抜いてきた。が、こと、ここに至って人々は、その迷信が真実であったことを知る。
始まりは、爆音だった。なんの前触れもなく巻き起こった爆発が、天の槍の先端を吹き飛ばしていた。
巻き起こる爆煙を突っ切って現れたのは、神の御使いか悪魔の使徒か。
人々は嘆き、恐れ、逃げ惑った。神か悪魔か。それがどちらであっても彼らが地上に降り立つ目的はおそらく、たったひとつであろうからだ。
「目標を映像で確認。メインモニタに回します」
同一階層に敵が進撃したことにより、監視カメラが敵の実像を宙空のスクリーンに映し出す。
ついにここまできたか、師団長は指令席で拳を握り締める。偽りの空を埋め尽くす落下傘部隊はまるで偽りの空に咲いた無数の白い花のようで。
覚悟を決める。古より、赤の軍勢の敵は、白の軍勢と相場が決まっているのだ。
「高射大隊前へ。目標、敵空挺部隊」
が、敵は空だけではなかった。
「敵機甲部隊北東の城壁を突破! 最終防衛ラインに迫ります!」
「射程までは」
「あとヨンマル!」
「かまわん。火力は空挺部隊に集中させろ。降下中が唯一のチャンスだ。なんとしても彼奴らの侵入を許してはならん」
師団長の声を合図に、無数の火線が偽りの空を切り裂いた。
尖塔の爆破は未だ絶えず続いており、降下する敵は後を絶たない。その数、おそらく大隊にして二。
なにせ二千を超える部隊の大降下だ。空が三分に敵が七分。どこに撃っても敵に当たった。
白は地表に近づくにつれて見る間に赤へと変わり、今の今まで雨とは無縁だった地下世界において、それは初めて降りしきる血の驟雨となった。
が、所詮驟雨は驟雨。長くは続きはしない。
「敵空挺部隊、弾幕を突破! 大隊にして一!」
「敵機甲部隊の射程に入ります!」
オペレータの報告が届くが早いか、メインモニタには弧を描いて迫りくる榴弾の雨を背景に、今にも塔へと取りつかんとする敵の姿が映し出されていた。
師団長は問う。
「議会からの回答は」
「未だありません」
やはりいつだって正しいのは女王か。師団長は決断する。
「動力炉に伝達。抗化障壁展開。定跡は、ファルクビア・カウンター・ギャンビット」
「了解。障壁展開。定跡ロード、ファルクビア・カウンター・ギャンビット。カウントどうぞ」
オペレータと、師団長のコンソールに、ダイヤル式の巨大なスイッチが出現する。
「三、二、──一」
同時に回す。
視界が揺らいだ、と思ったのは、それだけメインスクリーンを凝視していたせいかもしれない。
そのメインスクリーンが、ぶっつりとなにも映さなくなってからたっぷり二秒後。戦局はがらりと変貌していた。
弾幕を突破し、今にも塔へと侵入を果たそうとしていた敵空挺部隊が、一人残らず地面に落下し息絶えていた。
血の驟雨の意趣返しとばかりに降りそそぐ榴弾の雨が、ひとつとして塔へ着弾することなく宙空で爆発、意味を成していなかった。
抗化障壁。内向きの抗力を塔の周辺三キロに張り巡らせ、あらゆる外的干渉をシャットアウトするそれは、アリス・リデルが誇る不破の絶対防御だった。
「抗力半径は」
「減衰なし」
「第四師団との連絡は」
「良好。合流まで、ヒトヨンマル」
握りしめた拳から、わずかに力が抜ける。
指令席の背もたれによりかかり、師団長はかすかに息をつく。
「……凌げるか」
抗化障壁の武装レベルは9。再度抗化兵器でも繰り出してこない限り、事実上この防衛ラインを突破することなど不可能なはずだ。
そう、再び抗化兵器を繰り出してでも、こない限り。
「直上にて、大規模な抗力反応!」
「……!」
跳ね起き見上げる間もなく、視界の片隅に尖塔の先端が爆砕されるのが見えた。
再び爆煙を突っ切り、姿を現したのは白き翼ではなく、
「抗化爆弾です!」
偽りの空より産み落とされた黒き卵が、光の壁に接触する。
視界が白く塗りつぶされる。
それは、塔の最下層にいてもなお感じるほどの衝撃だった。
百畳はある広間。女王はひとり、視線ジェスチャで宙空にモニタを呼び出す。
「──はじまったか」
映し出される惨劇。もはや一刻の猶予もならない。眉ひとつ動かさず、女王は奥へ踏み出そうとして、
「お、お待ちください」
広間の入り口。反射的に振り返って、そして。
女王は目を見張る。
「……なんのつもりだ」
通常ならば、問うまでもないことだった。
彼女なら、いつかはこうするだろうと思っていたからだ。だからこそ自分はこんな切羽詰った状態であの忌々しい暗号壁に挑むことになっているのだろうから。
そう、通常であるならば、だ。
「……妾はまた、貴殿の兜を剥ぎ取ったか?」
目の前の彼女は、まるで女王をトレースしたような、チューブトップのワンピースと、前の大きく開いたシースルーのオーバースカートを纏っていた。ただひとつ違っていたのは、そのすべてが目の覚めるような白で彩られているということ。
だから、そう言うしかなかった。
「いくら妾でも、鎧までは取らんぞ、白騎士」
鎧も兜も脱ぎ捨て、素顔のままの彼女がそこにいたから。
だけど彼女は、白いその肌を、耳まで真っ赤にしながらも、首を振る。
「し、白騎士では、ありません」
「……っ?」
「五分で、け、結構です、赤の女王。──お話を、聞いていただけませんか」
衝撃は、たっぷり十八秒は続いた。指揮所備え付けの安全装置が働き、主電源が落ちていた。予備電源のかすかな明かりの中、身じろぎした師団長はまだ生きていることに対して半分安堵し、半分、落胆していた。
いつまで続くのだ、この悪夢は。
「じょ、状況を報告しろ」
指令席に座りなおし、宙空を見上げるが、メインスクリーンは無骨な砂嵐だけを皆に伝えている。席から投げ出されていたオペレータたちが座りなおすよりも早く、
「しゅ、出力低下、抗力半径減衰……」
「障壁は未だ健在。が、いつまでもつかわかりません!」
うかつだった。明らかに自分の判断ミスだった。まさか彼奴らが抗化地雷だけでなく、抗化爆弾まで調達しているとは思わなかった。
もう少しなのに。歯噛みしたい想いを必死でこらえながら、師団長は指示を飛ばす。
「定跡変更、パーペチュアル・チェック。生命維持以外の動力はすべて障壁へ回せ」
「パー──しかし、それではこちらの攻撃も敵に届きません」
「かまわん。ナナマルもてばいい。やれ」
第四師団が合流すれば、彼奴らを背後から挟撃できる。
彼我の兵力差はおそらく五分だが、第四師団には特科中隊が健在。互角以上の戦いができるはずだ。合流さえできれば──
が、師団長はまだ気づいていなかった。この世界において、希望とは、砕かれるためにあるのだということを。
「メインモニター、回復します」
映し出されたそれは、絶望という名の光景。
「直上よりさらに大規模な抗力反応!」
オペレータの報告を聞くまでもない。眼前に繰り広げられるのは、爆煙を突っ切り落ち来る、黒き卵。
「第二波きます!」
ここまでか、その場にいる、誰もがそう思った。
さっきの録画映像を見ているようだった。
黒き卵は光の壁に接触し、そして、眼前が白く塗りつぶされた。いや、白に染まったのではない。あらゆる色が消し飛んで、ただただ自分とそれ以外との境界しか認識することができなくなったそれは、誰がなんといおうとこの世の終わりの光景だった。少なくとも、指揮所にいた全員にとって。
が、それだけだった。
光が爆散し、色を吹き飛ばし、だけど、次の瞬間には再び世界は色を取り戻していた。
なにが起こった……? それが師団長を含む全員の共通認識であり、しかし最初にそれに気づいたのは指揮所の一番後ろに陣取るひとりのオペレータだった。
「ちょ、直上にやはり、抗力反応……これは、このパターンは──」
その報告はやはり、聞くまでもなかった。
鈍い金色のボタン、窮屈そうな黒い詰襟。偽りの空に立つ〝それ〟は、見たこともない異国の服を纏っており、同じく異国の服を纏った少女を首筋にぶら下げていたけれど、間違いない。
師団長は知らなかった。絶望もまた、この世界では打ち砕かれるためにあるのだと。
「ウィザード……」