第24章 こころをひらいて
出会いは、最悪だった。
闇さえ色褪せる透明な夜。迷い込んだように立ち尽くしていた月の精霊に、心を奪われた。
直後、砕かれた。
──ひとごろしのくせに。
それから幾数年。
なにもわからなかった自分が、なにもわからないままに時を重ねて、なにもわかろうとしないままただそばにいた。
それはたぶん、彼女も同じだったのではないかとは思う。
それはたぶん、臆病な心が作り出した無意識な壁で。
だからこそ今、彼女はこんな顔をして自分の目の前に立っているのだろうと思う。
見るからに手にあまる長大な日本刀、
「あんたがこの世界に取り残されたのは、事故でもなんでもない」
抜刀しようとして、両手いっぱい広げても抜けなくて、背伸びしたって意味はないのにそれでもなんとか鞘から引き抜いたのも束の間、片手では支えきれなくて、よろけて踏みとどまる。
どかりと音を立てたのは、見た目以上に重かったであろう落ちた鞘。
「私がそう仕向けたの」
突きつけてくる切っ先は、気の毒になるくらい震えていて。
「気づいてたでしょ?」
気づいていた。
いつかはこうなるだろうと思っていた。
でぼちんの両親を殺したのは、確かに小太郎の両親だったけど、そうなることとなった原因のひとつに、少なくとも小太郎は無関係ではなかったからだ。
小太郎がその話を聞いたのは、でぼちんへの気持ちを、もうどうしようもなくなってしまった、ずっと後のこと。
〝赤の女王〟計画。
この世界を、電子的にマッピングすることを隠れ蓑とした、精神と肉体の分離計画。
もともとは、国土交通省からの依頼から始まったのだというそれは、その頃からすでに夢物語の域を出ていなかった。
白羽の矢が立てられたのは、その頃次世代型のMMORPGの計画を推し進めていたナガモリ・ネットワーク。
小太郎の両親は、最初から相手にしていなかった。技術的にはもちろんのこと、倫理的な面からいっても、到底承服できかねる内容だったからだ。
──だからこそ、その時点で、気づくべきだったのかもしれない。相手が倫理などくそくらえの連中なのだということを。
それは、何度目かの会合の席での出来事。なぜかその時は先方のたっての希望で、小太郎も同席していた。
──元気なお子さんですね。
まったく印象の残らない笑顔で、彼らがそう言っていたことを覚えている。
──これからも末永く、元気であればよいのですけれど。
その頃の小太郎にとっては大して意味のない言葉だったけれど、瞬間、両親の顔色がさっと変わったことだけは覚えている。
ナガモリ・ネットワークが政府からの依頼で、赤の女王計画に着手したのは、それからわずか三日後のことだ。
それは同時に、でぼちんの両親が還らぬひととなった、数ヶ月前ということでもあった。
「私の両親は、あんたの身代わりに死んだの」
長大な──いや、あくまででぼちんが持っているからそう見える──切っ先が突きつけられる。
「あんたさえいなければ、こんなことにはならなかった」
白く輝く刃は、だけど小太郎の目の前で一向に定まらずにふらふらと揺れている。
ぶれる切っ先には目もくれず、小太郎はでぼちんを見据える。
「でぼちんは、最初から全部知ってたの?」
月も出なかった透明な夜。初めて出会った、あの日から。
沈黙が、その答えだった。
「こんな荒唐無稽なことを考え出したのはいったい誰なのか。いったい誰がそれを推し進めようとしているのか、今まではまったくわからなかった。腐っても一国の防御壁よね。一筋縄じゃいかなかった。ずいぶん苦労したわ。あと一歩のところでいつも煙に巻かれて。でも、それも終わり」
瞬間、でぼちんと小太郎の中間、虚空に複数のウィンドウが出現する。
解像度が荒くてところどころ判読できないが、おそらくそれはいくつかの新聞と、雑誌記事。
狂ったように踊るのは、ゴシックの太文字。いわく、
『カガヤカシイミライノテンボウ』
『ゼツボウノソラニ、サヨナラ』
「一芝居打ったの、赤の女王計画は成功したってね。見て。頼みもしないのにマスコミが大々的に宣伝してくれた。ありがたいことよね。すぐに食いついてくれたわ。簡単なことだった。──今ね、ログインしてるのよ、あいつらも」
誰が、とは問わなかった。
「どうするんだと思う?」
それを自分に聞くのか、
「あんたもいっしょ。私の両親を殺した奴らみんな──みんな、同じ目に合わせてやる」
でぼちんの瞳は、長い前髪と分厚い眼鏡に隠れてまったく窺い知ることはできない。
それでも小太郎はただひたすらまっすぐにその向こうのでぼちんへと問いかける。
「ログインしているのは、俺たちだけじゃないだろ?」
がちゃりと、音をたてて切っ先が震える。
「それとも俺たちだけ、」
「言ったよね、私」
遮るように、でぼちん。
「この世界はそういうふうにできてるの。なにかを犠牲にしなければ、なにも得ることなんてできないのよ」
だったらどうして。小太郎は思う。
魂さえ引き裂くでぼちんの言葉に、小太郎は今度こそ確信する。
いつだって胸に巣食っていた恐怖があった。
ごめんなさい。気にすることはない。
孤児院で再会して以来、ことあるごとにでぼちんは言ってくれていたけれど、本当は、本当のところは心の奥底で、自分のことを憎んでいるのではないかという疑念が、どうしても拭えなかった。今までに一度だってでぼちんは、自分に笑顔を見せてくれたことがなかったから。
でもだけど、小太郎は思う。改めて、思う。
でぼちんは、よく嘘をつく。
でもその嘘は、すぐにばれるのだ。
ひとを騙そうとして、だけど結局騙しきれない、それが、でぼちんなのだ。
小太郎は思う。
──私は、あんたを殺すためにここにいるのだから。
今にも泣き出しそうなこのでぼちんの瞳が嘘だというのなら、いったいこの世のなにが本当だというのだろう。
もう、迷わない。
「俺、でぼちんのためなら、死んでもいいって思う。普通に思う」
ぶれて音をたてる切っ先に向け、小太郎はかまわず一歩を踏み出す。
「だけど、でぼちんはそれでいいの? ほんとにいいの?」
胸元に触れる切っ先は、もはやガタガタと震える誰かさんの心のようで。
でぼちんが呟く。
「くるな……」
「それで本当に、でぼちんは笑えるの……?」
「くるなっ」
「言いたいこと言ってよ、でぼちん。どうしたいか言ってよ。言ってくれないとわかんないよ」
とうとうでぼちんが爆発する。
「それをあんたが言うん!? いつもいつも遠慮して、言いたいこと言わないのはそっちの方じゃない! あんたがそうだから、あんたがそうだから私だって……っ!」
「じゃあ、いいのか」
「……っ?!」
「俺、言いたいこと言うぞ」
ぴたりと、胸元の切っ先の震えが止まる、
「いいわよっ! 私も言いたいこと言うからっ!」
溢れ出す、
「俺、死にたくない」
踏み出す。
「でぼちんに、誰も殺させたくない」
「私だって、」
ふたりの間の、切っ先が消える、
「私だって、殺したくない!」
「でぼちんと、生きたい」
手を伸ばせば届く距離に、彼女の小さな身体がある。
求めてやまなかった、彼女がいる。
止まらなかった。
「でぼちんに、ちゅーしたい」
「ばっ、」
「でぼちんのでぼちんに、ちゅーしたい」
「なっ、でぼ……って、ちょっ」
「……だめ?」
「そ……っ」
どんなに前髪を伸ばしても、どんなに分厚い眼鏡をかけても隠し切れない。耳まで真っ赤にした彼女が、やけくそのように叫ぶ。
「そっ、それくらいならいいわよっ! ばかっ!」
もっと前から、こうすればよかった。小太郎は思う。
言いたいことを、言えばよかった。真正面から。
世界が反転する。
最悪の出会いだったあの日。透明なあの夜から始まった長い長い夢が今、終わろうとしている