第23章 再会の切っ先
闇の向こうには、アリスがいた。
なんとなく、そこにいるだろうなと、小太郎は思っていた。丘の向こうへ行くために、抗い続けるものだろうからだ、アリスは。
闇夜に浮かぶ蛍のように、小さな背中が翻る。
一瞬迷って──できるのだろうか、自分に──歩を止めた。
白騎士の声が聞こえたような気がして、結局、気がついたら歩きだしていた。
跳ねるように遠ざかる、小さな背中を追いかけた。
大階段の終わり。エプロンドレスを翻して、少女の姿が闇を切り取る扉の向こうへと消える。
重い鉄製の扉を、清廉な白い裾を見失わないように押し開ける。
火のともっていないエレベータの脇を駆け抜け、産道のような一本道を駆け抜ける。
闇よりも濃い黒を駆逐して、金色の巻き毛が揺れている。
残像が、燐光のように周囲を照らして、小太郎の鼻先で消える。
アリスの背中。手を伸ばしても決して届かない、ぎりぎり見失わない距離感をもって前方をゆく。
いつかもこうして闇を駆けた。ともすればすり抜けてしまいそうな小さな背中を追いかけた。この世界へ迷い込んだあの時。もうずいぶん前のような気もするし、ついさっきの出来事のようにも思える。
──ここが、其方の現実だからだ。
違和感だけは、最初からあった。
女王にその言葉を突きつけられた時。
自分はこの塔の検証室でずっと夢をみていたと言っていたけれど、それは、いったい、どこからが〝そう〟だったのか。
女王を押し倒した時はもちろん、トゥイードゥルディーに蹴り飛ばされた時はまだアイテム枠に登録していた装備を身につけていた。
ログアウトできないと泡を食って、火の入らないキーボードに悪態をついていた。
女王に引導を渡されたことで、それらすべてが消えていた。
抗力起動のウィンドウだけが反応するのも釈然としなかったし、あっちの世界でも、こっちの世界でもアリスの姿が見えたことも、心のどこかに引っかかっていた。
でぼちんは、よく嘘をつくから。すぐばれる嘘をつくから。
でもそれは、どう考えても苦しい後付のようなものだったし、根拠などなにもない、ただ単にこびりつく願望からくる悪あがきのようなものだった。
祈りのような、ものだったんだ。
トラップのもう働かない門をくぐり抜け、勘違い甚だしい時代がかった引き戸を押し開ける。眼前に広がるのは、百坪はある新緑の広間。
鼻をつく畳のにおいの中、そこに、彼女はいた。
それは──それは無論、小太郎にとって誰よりも見知った顔で。だけど女王はきれいなおでこを長い前髪で隠したりはしないし、瓶底もかくやという眼鏡をかけてもいない。セーラー服など纏うわけもなければ、絹糸のような長い髪を、黒く染めるわけもない。
まさか、緋姫──? 自動的に湧き上がる疑問を一瞬で打ち捨てる。ぴんと背筋を伸ばし、膝元でぴっちりと指先をそろえて正座する様は、既視感どころの騒ぎではない。どんなに似ていたとしても、それだけは間違えない。
未だ信じられない気持ちのまま、小太郎にとっては宝石のようなその名を口にする。
「……でぼ、ちん?」
いつものように、彼女は答える。
「でぼちんゆうな」
ひとは、驚きが過ぎると、本当になにも考えられなくなるのだなと、頭の違うところでもうひとりの自分がぼんやりと考えている。
頭の中が真っ白、とは、決してなにも考えられなくなってしまう状態をいうのではない。
この場合、実際は逆だ。聞きたいことや言いたいことがぐちゃぐちゃに絡まっていったいなにから出力していいかまったくわからない。出口も、経路もわからずただただフリーズしているような。ひっきりなしにあふれ出ようとする脳内の言葉を、手当たりしだい引っ掻き回して、とにかく最初に手に触れたものが、口をついて出てきた。
「──じゃあ、やっぱり、この世界が、ゲームの世界で、ほんとの世界は、」
雑音、
それで初めて、でぼちんの向こうに金髪の少女が立っていることに気づいた。
──アリス。
ダイブした検証体を、あっちの世界からこっちの世界へと引き込むために造られたという、御伽噺の少女。
だけどそれは、ようするにつまり、そういうことなのだろうか。
「……君が、緋姫だったのか?」
だけどでぼちんは即答する。
「違う。私はただ利用しただけ。〝これ〟は緋姫の純粋な産物。あんたをここへ誘った白騎士も同様。ここの住人は全部、私たちが造り上げた〝もの〟」
脳のレプリカを三万個以上圧縮した一種の集積回路。そこに電気を流したところ、〝意識〟が生じた。それが彼らだと、でぼちんは言う。
「……そっか、」
震える。
「はは、なんだそっか。そうだよな、なんか、おかしいと思ったんだ。抗力とかアリスとか、どこがどうってわけじゃなかったんだけど、なんとなく、ああ、でもそうか、抗力。抗力だよ。あれも、でぼちんが造ったの?」
「そう」
「そうだと思った。でぼちん、癖があるから。構文作るとき、特に排他制御の──いや、ごめん、違う。そういうことじゃない。そういうこと言いたいんじゃないや。なに言ってんだ俺、なに、」
限界だった。
「……でぼちん、なんだな」
どうしようもなく、涙があふれていた。
「よかった。でぼちん。よかったぁ……」
レプリカから生じたからといって、それがなんだというのか、という想いはある。半導体と神経素子との間に、いったいどれだけの違いがあるのかとも思う。今こうしている間にも女王は自らの命を投げ打って、悪魔の兵器を立ち上げようとしているのかもしれない。今にも何万人もの人々が無に帰そうとしているのかもしれない。
なのに、
それなのに。
全部ひっくるめて、たったひとつの感情が、跡形もなく押し流してしまう。
どうしようもなく、押し流されてしまう。
「泣くな」
ぴしゃりと、でぼちんが言い放つ。
「いつまで経っても変わらないね、こたろーは」
「ごめん」
寂しいといっては、いつだって泣いていた。
親なしだといじめられては、いつだって泣いていた。
そんな時はいつだってでぼちんに守られ、慰められてきた。
でぼちんは小太郎にとって母であり、父であり、親友であり、初恋のひとだった。
「でももう、今までのようにはいかない。私はもう、あんたを守らない。助けない」
音もなく立ち上がったでぼちんのその手には、長大な日本刀が握られている。
「私は、あんたを殺すためにここにいるのだから」