第21章 空と呼んでいた場所さえ
この塔のてっぺんで、あの言葉を聞いたのはいったいいつのことだったろう。
いろいろなことがあって、あれからいろいろなことがありすぎて、ずいぶん昔のことだったような気がするけれど、今もはっきりと覚えている。まっすぐな瞳、まっすぐな言葉、
──だから取り戻す、あの空を。
それがあんたの願いじゃなかったのか。小太郎は思う。
底抜けに青くて、遠慮なくほうせんかが咲いてて、いつだって大好きなひとたちが笑ってる。そんな──空が欲しかったんじゃないのか。
なのに──
どうしてあんたは、そんなに下ばかり見てる?
──どくん。
視界が歪んだ。
なんだ──そう思った瞬間、すべての思考が断ち切られる。一瞬なにもかもが意味のないものに思えそうになって、無理矢理意識を引き戻す。
これは、いつかどこかで感じた感覚。なんだろう、覚えがあるのに、思い出せない。
頭を巡らそうとして、またも邪魔をしたのは今まですっかり忘れ去ってしまっていた真っ白な痛みだった。
気がついたら、膝をついていた。
心配そうに駆け寄る近衛隊士の姿を、真正面から見据えているはずなのに、まるで現実感がなかった。
歪みを具現化したようなこの感覚。最初に思い出したのは掌だった。サテンの手袋。触れられる胸。今はもういない、彼女の、
だからか。
ようやく小太郎は思い至る。抗力の糧となったこの傷が、トゥイードゥルディーがいなくなったことによって正常な時間の流れを取り戻したのだ。
認識が、より一層現実の時間と偽りの時間とを直結させる結果となった。
痛みは脳髄のど真ん中を突き抜ける残酷な刃となって小太郎を襲った。
自分はきっと、尋常でないほどの叫びを上げているに違いない。それだけはおぼろげにわかるのに、なにも聞こえない。頭のすぐ上で近衛隊の面々が心配そうになにか言っていることはわかるのに、まったくなにも聞こえない。身体も動かない。
──ちくしょう。
こんなことをしている暇はないのに。痛みなどに屈しているわけにはいかないのに、
「……っ!」
気がついたら、銃剣がのど元に突きつけられていた。
さっきまで心配そうにこちらを見つめていた近衛隊士たちが厳しい顔でこちらを凝視していた。
そうか、自分は立ち上がることができたのか。歩き出すことができるのか。
じんわりと広がる胸元の紅い痛みをねじ伏せながら、小太郎は言う。
「……どいてください」
近衛隊士が短くなにかを言っていたが、まるで届かない。こちらの言葉も届いているのかどうかも怪しかった。どうでもよかった。
「どけ……!」
無意識に視線をジェスチャしていた。展開されたウィンドウ。その右隅に、確かにCFのゲージがマックスで鎮座していた。
悔しいけれど、これっぽっちも迷わなかった。
──抗力は使うな!
かつての女王の声ももう、小太郎には聞こえなくなっていた。
かっさらうようにコマンドをジェスチャ。
瞬間、ずがん、と脳みそを直接ぶっ叩かれたかのような衝撃が小太郎を襲っていた。
目の前が真っ赤だった。上下左右もわからなくなり、いったいなにが起こったのか、問いかける間もなく、すべての感覚が消失した。
世界が自分を拒絶したのか、自分が世界を拒絶したのか、はっきりといえるのはただひとつ。感じるのは、底抜けの喪失感。
その時自分はなにか、叫び声を上げたのだと思う。
だけどなにも聞こえない、なにも感じない。ただ、目の前を、近衛隊士たちが人形のように吹っ飛んでいた。
エレベータの扉がひしゃげ、窓ガラスが粉々に砕け散り、壁のレンガがいいかげんにしろと悲鳴を上げていた。
なんだこれ。小太郎は恐怖する。なんなんだこれ。まだメタモルフォーゼも始まっていないのに、このポテンシャル。塔全体が唸りを上げていた。情け容赦のない乱流に、小太郎自身指一本動かすことができなかった。
──起動フェイズだけで充分だ。
女王の言葉が思い出される。
──あのまま放っておけば、彼奴らはもちろんのこと、自軍もろとも藻屑と消えているところであった。
その言葉を証明するように、床が力に耐え切れなかった。
「……!」
乱流の変わりに、小太郎を襲ったのは身もふたもない浮遊感。
隆起し乱れ飛ぶ瓦礫と共に、小太郎は深遠の闇へと引きずり込まれていった。
「第一階Aブロックにて高抗力反応!」
小太郎の抗力の起動は、無論、最上階の緊急指揮所にも多大なる影響を与えていた。
「抗力反応だと?! まさか……!」
「反応パターンはγ、抗化兵器ではありません! おそらくは第一検証体──〝ウィザード〟かと思われます!」
このくそ忙しい時に、という言葉を必死の想いで呑み込んで、師団長は声を張り上げる。
「陛下はご無事か!」
「電波状態が劣悪で、反応を確認できません!」
「近衛隊に協力要請! 可及的速やかにウィザードの身柄を確保だ!」
「ふ、不可能です!」
「なにがだ! 検証体どもはもともと彼奴らの管轄だろう!」
しかしオペレータは、自身とても信じられないとでもいうようにそれを報告する。
「全滅したからです!」
「……なんだと?!」
「第一、第二小隊ともに全滅! まったく反応がありません!」
雑音、
闇よりも濃い黒が、そこにはあった。
光が見せる黒ではなく、混じりっけのない、あらゆる光源を失った無明。
なにをやっているんだろう、小太郎は思う。
ついさっき。おそらくは一秒経っていないであろう直近の過去。眼前を蹂躙していった光景を思い出す。
きっとまた、誰か死んだ。
ひとりやふたりではないだろう、もしかしたらあの塔自体跡形もなく崩れ落ちてしまったかもしれない。
なにをやっているんだろう。小太郎は思う。なにがしたいんだろう、俺は。これじゃあ、女王のことは言えない。誰も、責められない。
胸が痛い。どうにもならない。指先一本動かせない。これだけの力を持っていながら、結局なにも救えない。ただ、血と肉をぶちまけて、ただ、胸が痛い。なんなんだ、これは。いったいなんのためにあるんだ、この力は。
抗力とは、生物が持つ進化という力のある一面をとらえたものなのだと、女王は言った。
生物が──ひとが、生きていく上でなくてはならないものなのだと。
──ほんとにそうなのだろうか、小太郎は思う。
こんなにも、いつまでたっても、胸が痛いのに?
雑音、
「こんにちわ」
真の無明が、その金色を縁取っていた。
泣きたくなるくらいそれは、鮮やかに網膜に焼きつく。ふわりと舞う巻き毛。清廉を極めたエプロンドレス。
「──なんでだ」
彼女がそこにいた。
「なんでお前が、ここにいる」
姫はもういないのに。
「あの丘のてっぺんに行こうかなと思いまして」
それしか言えないのか。
白の軍の尖兵。丘を目指すためなら、犠牲を厭わない無垢なる少女。
ちくしょう。
お前なんか呼んでない。お前なんかいらない。
「なんでお前がここにいるんだ」
雑音、
翻るエプロンドレスが、あの日の夜へと誘う。
寒い夜だった。ひび割れる寸前まで乾ききった、だからこそ透明な大気。吐く息で前が見えなかった。刃物のようだった、夜。
すべてはあの日、あの月も出ていなかった夜に集約される。
──ひとごろしのくせに。
それで君の痛みが消えるなら、いくらでも憎まれようと思った。きれいごとでも美談でもない、その方が自分が楽だったから。
死ねというなら、いつだって死んでやろうと思っていた。
だけど。
胸が痛い。どうあっても止まらない血が流れおちてゆく。それは、他者を傷つける代償として課せられる痛み。だけど、
おかしいだろ、小太郎は思う。
傷は、治るもんだろう? なのに、なんなんだよ、いつまでも。
目を閉じれば、でぼちんの顔。
目を開けていても、考えるのはでぼちんのこと。
そのすべてが、自分を責める。
大好きだったきれいなでぼちんに、深い皺が刻まれている。
それで君の痛みが消えるなら、いくらでも憎まれようと思った。
死ねというなら、いつだって死ぬ覚悟はできていた。
だけど──
胸が痛い。抑えてくれるトゥイードゥルディーはもういない。ただただとめどなく流れてゆく血。紅。女王の色。
おかしいだろ。
こういうもんじゃないだろ?
絶対に変だろ、ちくしょう。