第20章 赤の女王Ⅲ
敵の本隊が第六階層を突破したのは、それよりわずか二日後のことだった。
「第六階層だと……?」
唸り声が聞こえる。
第九階層に位置する象牙の塔の最上階。その緊急指揮所。女王の後を追って足を踏み入れた小太郎は物理的な殺傷力さえありそうな緊張感の中に立ちすくむ。
部屋の中央、おそらくは師団長なのだろう、一段高い指令席から、男が立ち上がるのが見えた。
「第四師団からはなにも報告を受けていない。誤報ではないのか」
突貫工事によって急造したに違いない、雑多に積みあがったモニタとコンソールの狭間から、もがくようにオペレータ達が答える。
「間違いありません! 敵味方識別信号に感なし!」
「大隊にしておそらく三個! 進入経路は第六階層A‐12です!」
その言葉を証明するように、師団長の目の前。宙空に浮かぶメインスクリーンにはアンノウンを示す黒い巨大な正三角形が三つ。
アリス軍の第四師団を示す赤い三角形の懐も懐、真後ろに忽然と姿を現していた。
「どういうことだ……なぜ今まで感知できなかった……」
師団長はただ呆然とメインスクリーンを凝視することしかできない。
それを咎めるように、傍らの女王が鋭く呟いていた。
「……第一種戦闘配置だ」
弾かれたように、師団長が我に帰る。
「総員、第一種戦闘配置! 機甲中隊及び歩兵大隊を戦端、特科中隊を殿とし、両翼を機械化歩兵大隊で固めよ! 303中隊が左翼、318が右翼だ! 第四師団への回線状況は?!」
「ジャミングレベル6! 復旧の目処は立ちません!」
「どれだけかかってもかまわん! 支援要請を続行! 会敵までは、」
問うか問わないかの間に、悲鳴のようなオペレータの声が上がる。
「目標第七階層に到達! 会敵まで、あとサンマル!」
そこから後は、まさに阿鼻叫喚を具現化したものと言えた。
飛び交うのは怒号にも似た報告の声。目に映るのはメインスクリーンに映し出された血も涙もない無機質な幾何学模様。怒号が舞う度に、記号が消える。怒号、消える。その繰り返し。まだ目の前で死んでくれる方がよかった。聞こえる怒号。消える記号。冗談のように簡単にモニタから消えてゆく光に、なにか、とても大切な感覚が麻痺していくようで、小太郎は一秒たりとも眼前の巨大なスクリーンから目をそらすことができなかった。
「補給部隊の足を止めるな! 303中隊はなにをしている! 特科の火線に入りたいのか!」
「第52機甲中隊の損耗率が十パーセントを超えました! 我、後退許可を乞う!」
「第1小隊は最終防衛ラインまで後退! 第3小隊はこれを援護しろ! 特科中隊の充填率は!」
「四十八パーセントです!」
「六割でいい! 充填完了次第、」
「318機械化中隊より入電! C‐45より敵の増援部隊! 大隊にして二!」
師団長の声が裏返る、
「C‐45?! C‐45と言ったか?!」
またもそれを証明するように、メインモニタに黒い三角形が忽然と出現する。
それは魚鱗の陣を敷くアリス軍の東、ほぼ横っ面。まるで瞬間移動でもしたかのような唐突さに、その場の誰もが完全に言葉を失っていた。
第六階層での進入経路といい、今回といい、いったいぜんたいなにがどうなっているのか。
「……資材搬入路だ」
ぽつりと、女王が呟く。
「かつて第七階層から地上とを結ぶ資材搬入用の弾丸列車があった。その数、緊急路を含めて十二。搬入口自体は閉鎖されているが、他はおそらく手付かずのはずだ。市街地図を出せるか。少なくとも十年以上前のものが必要だ」
女王の声を受けて、オペレータが忙しくコンソールを叩く。やがて宙空の緑色の戦略マップに、黄色い歪な地図が重なった。
アリス軍の魚鱗の陣のほぼ九時から三時の方向に時計回りにぐるりと輝点が点ってゆく。そのうちのひとつは、確かにC‐45と記されたヘックスのほぼ中央に位置していた。
師団長が唸る。
「こんなものが……」
が、呆然とスクリーンを見上げていたのも束の間だった。不可解な事象もわかってしまえばどうということはない。一気に息を吹き返した師団長が直ちに全部隊へと号令する。
「全軍、第二次防衛ラインまで後退! 両機甲中隊、歩兵中隊は左翼、特科中隊と機械化中隊は右翼へ展開! 斜行陣でもって敵を迎え撃つ!」
即座にスクリーンの赤い正三角形が〝A〟と記されたラインまで後退する。部隊へ伝令するオペレータの声も心なしか力強く踊っているようにも思える。
だけど、小太郎は思う。
そんなことがありえるのだろうか。何年も前に打ち捨てられ、軍用の地図にさえ載っていなかった搬入路。事実、戦場となっている第七階層を担任する師団長さえ知らなかった代物を、なぜ、敵である彼奴らが知っていたというのか。
湧き上がる疑問を、だけど解決してくれるはずの女王は、ひとりうつむいていた。
「……だめだ」
何かに思い当たったような、声。
「それは違う。やめよ。……やめよ師団長! これは、」
指令席へと、女王が駆け上がろうとしたその時だった。
「A‐13に高エネルギー反応! 特科中隊の直下です!」
「な、」
声を上げる間もなかった。
それは、第九階層であるこの塔の最上階にいてさえ耳をつんざく轟音だった。
床が確かに揺れた。メインスクリーンがノイズで歪み、よろける女王を支えた小太郎が見上げた時にはもう──
目の錯覚かと思った。
それでなければスクリーンの故障なのだろう、とも。
でなければ、なぜさっきまで四つあった巨大な三角形が、今の一瞬で三分の一の規模に減っているというのだろう。
誰もが自分の目を疑った。目の前の光景を否定したかった。
どうすることもできないそれは、紛れもない現実だった。
「状況を報告せよ!」
最初に我に返ったのは、やはり女王だった。
三拍以上もおいて、ようやくオペレータからの声が返っていた。
「爆心地周辺の電磁嵐がひどく、確認できません」
「す、少なくとも特科中隊の反応、皆無です。レーダーも返りません……!」
ぎり、と、女王の拳が音をたてる。
「……抗化地雷だ」
「こうかじらい……?」
「原理としてはハンプティ・ダンプティとそう変わらん。亜光速で撃ち出すか、遠隔操作で起爆させるかの違いだ。破壊力は桁違いだがな」
「それって……」
「搬入路からの奇襲は囮だ。彼奴らの目的は最初から地雷原へと我が軍を追い込むことだったのだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。ハンプティ・ダンプティと変わらないってことは、その、つまり抗力が関係してるんですよね?!」
女王は無言でもって肯定する。
「それって、じゃあ、つまり、敵にも抗力使いがいるってことなんですか?!」
女王は答えなかったが、その表情を見れば明らかだった。
「……抗力は、我が国の極秘事項だ。いかに貧困にあえごうと、それだけはどのラインに乗ることはなかった。これは、妾の先代の先代の頃より定められた絶対の約束だ」
「だったら、」
小太郎の言葉を遮るように女王は言い募る。
「先日の事件。影どもの進入経路が判明した」
それがどこか、とは、小太郎はもう問わなかった。
「同時刻、別働隊が第七階層へと向かっていたことも後の調査で判明している」
それだけでわかれ、というように、女王は唇を引き結ぶ。
考えるまでもなかったのかもしれない。
──緋姫。
「三十分だ、ウィザード」
いつもの女王の言葉。
「いや、二十分でいい。彼奴らを食い止められるか」
とてもではないけれど、小太郎は即答できなかった。それは女王も承知の上だったのだとは思う。
「よい、失言だった。忘れてくれ」
こちらを省みることなく、今度こそ指令席へと駆け上がる。
「師団長、全軍に伝達。現時刻をもって状況を破棄。第七階層より撤退せよ」
「て、撤退でありますか」
「第九階層にて最終防衛ラインを展開。以降別命があるまで待機。抗化障壁の起動要請は」
「議会への直接文書が必要になります。が、どこまで食い止められますか」
「やらないよりはマシだ。申請文書など事が終わった後でいい。何秒で起動できる」
「なんびょ、……十五分は必要かと」
「五分だ。それ以上は待てん。全軍に伝達だ。後は任せる」
師団長の了解の声も待たず、あらゆるしがらみを断ち切るような勢いで女王は踵を返す。指令席から飛び降りるやいなや、もはや小太郎を省みることなく緊急指揮所を後にする。
「じょ、女王!」
嫌な予感がした。このまま行かせてはいけないような気がした。大股で、それでも決して駆けることなく階段を下りる小さな紅い背中を追いかける。
「どうするつもりですか!」
意外にも、女王は返答する。
「地下へゆく」
予想どおりだった。
「白騎士め、どうあってもまともに取り掛かるつもりはないらしい。時間がない。妾が直々に最終暗号壁を突破する」
「突破してどうするつもりですか! 出力不足なんでしょう、どっちにしても!」
「妾が施術を受ける」
「施術?!」
トゥイードゥルディーのことが思い出される。ただの人間を、抗力使いに仕立て上げる議会の業。
「だけど、白騎士はディーさ、──トゥイードゥルディーさんが議会の最高傑作だって言ってました!」
そのトゥイードゥルディーでさえもウィザードである自分に遠く及ばなかった。それを、
「なにもかもを残そうとするからだ」
「え……?」
「なにもかも取ろうとするから、中途半端になる」
──なにを言ってる?
「抗力を引き上げるだけならどうとでもできる。どうとでもな。ただ一度──一度だけ放てればいいのだ、あんなものは」
女王がいったいなにを言っているのか。頭ではわかっていた。
だけど心が、全力で女王の言葉を拒否していた。
払う敬意さえ忘れていた。
「それであんたは死ぬのか」
女王は即答する。
「そうと決まったわけではない」
「だけど!」
詰め寄ろうとした小太郎の眼前に、ぎらつく銃剣が交差する。
つんのめって立ち止まり、周囲を見回した。それで初めて、いつのまにか自分が地下へと続くエレベータの前に到着していたことに気づいた。
エレベータの前に立つ、女王の周りを、屈強な近衛隊士たちが取り囲んでいた。
銃剣ごしに見える女王の背中はとても小さくて、ほんのわずかな距離がまるで永遠のもののように感じられた。
「女王!」
こちらに背を向けたまま、女王が答える。
「姫が言っていたな。人は、ひとりぼっちにならないために、ひとを殺してきたのだと」
やめろ。
「人とは、誰かを殺すことにより、生きてゆく生き物なのだ」
でぼちんと同じ顔で、そんなこと言うな。
「今度は、妾の番だというだけのことだ」
エレベータの扉が、音を立てて開く。方形の闇の中へ、小さな背中が消えようとしている。近衛隊も眼前のぎらつく刃も関係ない、
「あんたは、ひとりじゃなかったのか!」
掌が裂けるのもかまわず、刃を握りしめ、押しのけようとする。
「殺すだけ殺して、ここまできて! あんたはそれでよかったのか?!」
女王は、即答しなかった。
今の今まで、ただの一度たりとて小太郎の質問には一ミリ秒の間も置かずに返答していた女王が、口ごもって、そして、
「……無論、満足している」
硬質なエレベータの扉が、ふたりの間を断ち切る。
「女王!」
もう届かない。