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第18章 黒の惨劇Ⅳ

 後先など、考えていなかった。

 この国の最下層から永遠に続くかと思われる階段を全速力で登りきり、さらに塔の最上階まで一気に駆け上がって、体力などとうに尽き果てていた。酸素はどれだけ貪っても足りなかったし、両膝はもう他人のもののように感覚がなかった。だけど女王の部屋の前、砕かれたドアの向こう。血まみれで横たわるメイド服が眼に飛び込んできた途端、全部吹っ飛んでいた。

 飛び出していた。

「やめろ!」

 生まれて初めて、小太郎は銃口をひとに突きつけていた。

 撃てるのか、自分に。そう考えることさえ忘れていた。

「銃を捨てろ! 壁に両手をついて背中を向けろ! 早く!」

 いつかなにかのテレビドラマで聞いた台詞。それが借り物の台詞だと気づいたわけはないだろうが、敵は微動だにせず不気味な暗視スコープだけをこちらに向ける。

「嫌だと言ったら」

 くやしいけれど、小太郎は答えられなかった。

「やさしいですわね、貴方は」

 そんな小太郎の気持ちを見透かしているように、敵は悠然と自らの暗視スコープとフリッツヘルメットに手をかけると、一気に取り払った。

「しかしはたしてそれは、本当に正しいといえるのでしょうか」

 小太郎は絶句する。その言葉のみならず、赤いスコープの下、現れた素顔に、まったく、告げる言葉を失くしてしまう。

「──姫」

 でぼちんとまったく同じ顔が、手に銃をかまえ、あまつさえ、かのメイドの額に突きつけている。

 周囲は血と硝煙のにおいにまみれ、かけらさえ光の差し込まない窓の向こう、絶望という名の偽りの空で、ただ今にも死にそうな尖塔の灯りが輝いている。

 これはいったい、どういった悪夢だ。

「……どうして、」

 かろうじて、くその役にも立たなくなった脳みそからひり出された言葉がそれだった。

「これはみんな、貴女の仕業ですか」

 姫は、まるで今日はいい天気ですね、とでも問われたかのように答える。

「はい、そうですね」

 胃の腑が捻じ切れそうになる。

「……どうして、こんなことを」

 どこかいたずらげな笑みを浮かべて、姫は、こう答えた。

「〝あの丘のてっぺんに行こうかなと思いまして〟」

 強烈な既視感があった。既視感──いや、違う。そこまで考えて、小太郎は否定する。これは幻などではない。あの日あの時、確かに、実際に聞いた言葉だ。忘れもしないこの塔の、入り口で出会ったあの少女。

 〝アリス〟が発した、第一声。

「まさか……」

「この訳詩は、お気に召しませんでした?」

 有名な『鏡の国のアリス』の一節。それは白の軍勢のポーンとなって、赤の軍勢と戦うアリスの意思表明の言葉だ。

 わけがわからなかった。それが本当なら、彼女が──緋姫こそが、自分をあっち側からこっち側へと引き戻した張本人ということになる。

 いったいなにがどうなっているのか。今回のことといい、

「いったい、なんのために、」

 なにがしたいのか。

「考えたことがありますか、ウィザード。なぜ、ひとは争おうとするのか?」

 どこかの教育番組のようなことをさも愉しそうに姫は言う。

 小太郎は思わず銃口を下げて、でぼちんと同じそのひとの顔を見つめた。

 ついさっき聞いた白騎士の言葉が未だ脳内に反響していた。

 ひとが、ひとを殺していい理由など、なにもない。だけど、

「人が人を殺す理由は、たったひとつです」

 姫は言う。

「ひとりぼっちにならないためですよ」

 塔のどこかで、刃と刃を打ち合う音がしている。そこかしこで、銃声が聞こえている。周りには、動くものはいない。死のにおいしかしない。

 姫の言うことが、どうしても胸の奥に落ち着かない。

「獣は、群を守るために弱者を切り捨てます。虫は、種を守るために、同属を間引きます。世界は彼らにとって常に狭量であり、辛辣だからです。ひととてそれは、例外ではありません。古来より、ひともまたひとを殺してきました。排除し、迫害してきました。狭量な世界から隣人を守るために。憎しみは──闘争本能は、こんな世界に生まれ堕ちてしまったわたくしたちへ、神が与えたもうた慈悲なのです」

 だからわたくしは貴方たちを引き戻した──言う姫は、こんなに愉しいことはないという顔をしている。

「だってそうでしょう? 許されると思いますか、ウィザード? 誰かを殺すということは、神により定められたルールだというのに、なのに、それを争いのない世界に閉じこもり放棄するなど、神への冒涜以外のなにものでもない。許されるべきではありません。争いのない世界など、あってはならないのです」

 ──なにを言ってる? 小太郎は戦慄する。この、目の前の女は、でぼちんと同じ顔で、いったいなにを言ってるんだ?

 姫の言葉は、魔力だった。ウィザードなんてものともしない、それは魔性の言葉だった。だって、どんなに自分を偽ったところで、自分は思っている。思ってしまっている。目の前のこのひとを、でぼちんと同じ顔でそんなことを言うこのひとを── 

「──うそですよ」

 一瞬それが、誰の声なのかわからなかった。

「かみさまなんていません。ここにあるのは、せかいと、わたしたちと──それいがい。それいじょうでも、いかでもありません」

 姫の表情が消える。さっきからぴくりとも動かさなかった自らの銃口へと視線を戻す。

 トゥイードゥルディー。それはもはや虫の啼く声の方がまだ力強い、切れ切れの言葉だったけれど。

 銃口の向こうの姫を、まっすぐに見上げる視線が、そこにはあった。

「あなたは、うらやましかったのでしょう……? あらそいのないせかいにいきるひとたちが。じぶんは、だれかをきずつけることでしかいきられないのに」

「……やめろ」

「あなたは、ほんとは、」

 トゥイードゥルディーの言葉は、轟いた銃声に跡形もなくかき消される。

 なんの予備動作もなかった。なにが起こったのかわからなかった。清廉な彼女のガーターベルトを、ゆっくり、全身に広がる毒のように紅く染めてゆくものを目の当たりにして初めて、小太郎は状況を理解していた。

 撃ったのか、こいつは。

 トゥイードゥルディーを、撃ったのか。

「急所は撃ちません。撃ってあげません。せっかくブロッカーを外したんです。今まで泣けなかった分、思う存分泣けばいい。どれだけ泣いても、絶対に許しはしませんけどね」

「緋姫ぇ!」

 とっさに叫んでいた。再び構えたリボルバーを、でぼちんと同じ顔に突きつけた。

 だけど姫はまったく怯むことなく、トゥイードゥルディーへと銃口を照準したまま、ゆっくりと笑む。

 誰もが恋に落ちないわけがないそれは、完璧な笑顔だった。

「どうしました? 撃たないのですか?」

 銃口が震える。

「貴方が撃たなければ、わたくしがトゥイードゥルディーを撃ちます。その後は女王です。いいのですか? 守るのでしょう? 彼女たちを?」

 いけない。

「撃ちなさいよ」

 この引き金を引けば、戻れなくなる。

「撃て!」

「──!」


 銃声は、背後でした。決してリボルバーのそれとは違う、三つの連続音。


 でぼちんと同じきれいなおでこに、三つの穴を穿って、ゆっくりと、姫の身体が倒れ伏す。

 ──撃て。そう叫んだ顔、そのままに。

 結局小太郎は、一ミリたりとも指を動かすことができなかった。

 背後には、ベレッタを呆然と構え、肩で息をする女王の姿があった。まるで夢遊病者のようにふらふらと小太郎を押しのけ、姫の亡骸を一顧だにせず、血まみれのメイドへと歩み寄る。

 見下ろす。

 なにか言おうとして、つっかかって、ようやく出てきた言葉が、

「……っから、用心しろと言った……っ」

 血の海の中、溺れるような、トゥイードゥルディーの声が聞こえた。

「……じょ、お」

 答える女王の声は、喉の奥に引っかかって、まったく外に出てきてくれない。

「かぜが、きこえます。つよい、よこかぜです」

 風の音など聞こえない。もう、とっくの昔にやんでしまった。だけどトゥイードゥルディーは繰り返す。風が聞こえます。今日はいつになく強い横風です。

「……しわけ、ござ、……ぉこあを、じゅんび、できませんでし、」

 そしてそれが、トゥイードゥルディーの最期の言葉となった。



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