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第9章 緋姫

 目を覚ますと、今日もベージュの天井が見える。

 空の青でも、尖塔の黒でもない、象牙の天井。

 ここへきてから──いや、戻ってきてから──ずいぶん経つ。

 冷静に考えるとこの世界はもしかしたら一日は二十四時間じゃないのかもしれないけれど、部屋にも塔にも時計がない。太陽の昇ることのない地下世界にあって、頼りになるのは体内時計のみという状況ではあるけれど、少なくともあれから自分はこのベッドで二十回以上は目を覚ましているはずだ。なのに、どういうわけかいっこうに馴染むことができない。見るもの触れるもの、どことなく違和感を拭えない。どこかで今の自分を俯瞰している自分がいる気がする。今もほら、ベッドの屋根の右端。こっちをにらみつけてる。嘘だけど。

 頭が痛い。

「ウィザード」

 ちょっとびっくりした。

「い、いつからいたんですか、あ、いや、おはようございます、ディーさん」

「五十六秒前からです、おはようございます、トゥイードゥルディーです、ウィザード」

「……いたんなら声かけてくれればいいのに」

「かけましたよ。十二回と半分。──ウィザード?」

「…………」

「ウィザード」

「……あ、は、はい、なんですか?」

 トゥイードゥルディーはちょっと考えるようにしばらくこっちを見つめていたけれど、やがていつもの調子で促した。

「……食事にしましょう」

 通されたのは、寝室とそう代わり映えのしない質素な部屋だった。壁も床も調度品もテーブルもすべて赤を基調としたデザインで、天井だけが象牙という点も変わらない。

 本日の食事は、黒パンとサラダ。コンソメのスープとスクランブルエッグだった。どうやらようやく流動食からは解放されたらしい。

「ウィザード」

「…………」

「ウィザード」

「……あ、はい」

 気がついたらトゥイードゥルディーが自分にスプーンを差し出していた。

 なんだろう、スプーンなら、さっきテーブルから──

「あれ?」

 手にしていたはずのスプーンがなかった。

「替わりをお持ちしました」

 一瞬意味を理解できなかったけれど、ようやく自分がスプーンを取り落としてしまっていたのだと気づく。落としたスプーンは床になく、すでにキッチンに回収されてしまった後ということなのだろう。全然気づかなかった。

 取り急ぎ頭を下げて、スプーンを受け取る。

「す、すみません、ディーさん」

「トゥイードゥルディーです、ウィザード」

「ああ、そうだった、トゥイードゥルがぶ」

 噛んだ。容赦なくいった。よりによってさきっちょのさきっちょだった。痛い。すごく痛い。

 声も出せずに悶絶していると、すっと眼前にグラスが差し出された。涙目で受け取って、そっと口に含んだ。

 頭上から、やわらかなメイドの声。

「考え事ですか」

 じんわりと舌先から失せてゆく痛みを感じながら、小太郎は半秒悩んだ。

「……はい」

「私で、お役に立てますか」

 今度は、二秒迷った。

「……いえ、たぶん、」

「そうですか」

 なら話はここまでだとばかりにトゥイードゥルディーはそれっきり話しかけてはこなかった。

 仕方がないので、黒パンに手を伸ばす。そのままかぶりつこうとして、思いとどまる。

 両手でむしって、かけらを口へ放り込む。固い。おまけにぱさぱさしている。そりゃハイジもフランクフルトくんだりまで誘き出されるってなもんだと思う。

 ──考え事ですか。

 考えないようにしても、脳裏にこびりついて離れない。昨日のこと。たぶん、昨日のこと。寝る前のこと。この塔の、てっぺんで聞いた話。

 ──妾の剣となれ、ウィザード。

 どれだけ考えてもわからない。女王の言葉のひとつひとつ。いくら反芻しても答えが出ない。

 自分はいったい、どうすればいいのだろう。

「本日は、よいお天気です」

 不意打ちだった。トゥイードゥルディーのその言葉は、まったく意識の外側から横殴りでぶっ飛んできた。言葉の意味を理解するのに、たっぷり五秒はかかった。

「は、」

 返事をする前に、メイドは話を続ける。

「お庭の、ほうせんかが見ごろです」

「……?」

「ほうせんかの花言葉をご存知ですか」

「……いえ」

「〝気分転換〟です」

「……へえ、そうなんですか」

「嘘です」

「…………」

 もしかして、気分を害してしまったのだろうか。思わず泣きそうになったその時、

「ただ、」

 ぽつりと、付け加える。

「今日のような日は、そうであったらな、とは思います」

 いつだって感情の乏しいメイドが、いったいなにを言いたいのか。ここにきて小太郎にも、ようやくわかったような気がした。

 痛がる自分の、胸を突いた彼女の言葉を思い出す。どうにも有言不実行だよなあ、とも思う。人のことは言えないけれど。

 用意された食事をゆっくり味わって、小太郎は席を立った。

「散歩、してきていいですか」



 今日はよい天気──といえばそのとおりなのだろうと思う。この国に、天気の移り変わりというものがあれば、という話ではあるのだけれども。

 アリス・リデルの朝は暗い。いや、朝だけでなく、昼も暗い。地下なのだから当たり前といえば当たり前だ。太陽の替わりに瞬くのは頭上に君臨する尖塔に備えつけられた非常灯のような灯りのみで、こんな日照時間など皆無に近いというか絶無の状況で花など咲くのかと思う。

 頭上をゆったりと泳ぐ三体のサメに──やっぱいるのか、〝こっち〟にも──びくつきながら塔の裏側へと回りこむ。申し訳程度に整えられた歩道を突っ切ったその奥に、しかしそのほうせんかは、ひっそりと咲いていた。

 屈みこんで、のぞき込む。

 この国の女王と同じ淡い赤の花弁。そっと翼を広げた鳥のようにも見える。

「……ほんとは花言葉、なんていうんだろ」

「〝私に触れないで〟」

「……っ」

「触れた者の爪を、深紅に染めることから〝爪紅〟とも呼ばれています」

 一瞬、女王がそこにいるのかと思った。

 だけど、違う。似ているけれど、別人だ。纏うショートドレスは女王と同じく真っ赤だけれど、黒い髪、黒い瞳。そしてなにより女王は、こんなにも他人に向かって無防備な笑顔を向けたりはしない。

「はじめまして、ですね。ウィザード」

 いつのまにか彼女は自分のすぐそばに屈み込んでおり、自らの両膝に頬杖をついてこちらをのぞき込んでいた。

 思わず腰を浮かしそうになって、だけどそれも相手に失礼なような気がして、妙な姿勢で小太郎は固まってしまう。

「お、俺のことを……?」

 花のように笑って、彼女は答える。

「この国で、今や貴方を知らない者はいません」

「貴女は──」

 ん? とばかりに小首をかしげる彼女。

「女王の、お姉さんですか……?」

 ちょっとびっくりしたように、目の前の黒い瞳が見開かれる。

「あら、どうしてですか?」

「同じにおいがするから」

 言ってから、しまった、と思った。あまりに不躾だったかな、と一瞬死にたくなったが、目の前の彼女はより一層朗らかに笑うと、

「なかなか官能的なことをおっしゃられるのね。わたくし、ちょっとどきどきしちゃいました」

「す、すみません……」

「お気になさらず。つい先ほどまで汗を流しておりましたので少々お恥ずかしいかもですが」

 くすくすと彼女は、おとぎ話のお姫様のように笑う。

「半分あたりで、半分はずれです。赤の女王──陛下は、わたくしの姉です」

 あね、

「皆には緋姫(ひのひめ)と呼ばれております。以後、お見知りおきを」

 すっと立ち上がり、本当のお姫様のように──いや、正真正銘お姫様なのだけれども──お辞儀する所作があまりに優雅だったので、小太郎は思わず見とれてしまう。

 慌てて立ち上がり、精一杯頭を下げたのだけれど、その仕草がおかしかったのかお気に召したのか、再びくすくすくすと、笑い出されてしまう。

 かんべんしてくれと思う。女王に瓜二つということは、でぼちんにそっくりなのだということであり、でぼちんに似ているということは、それは、つまり──

 胸が詰まった。とてもじゃないけど、直視できなかった。屈託なく笑う彼女の姿は、今までどうしても届かなくて、この先ももう、決して届くことのないもの、そのものだったから。

「そ、それでその、」

 振り払いたくて、無理矢理声をかける。

「そのお姫様が、俺になにか?」

 まだおかしさの残る視線で、姫は花壇のほうせんかを示した。

「それに、触れようとされていたので」

「え?」

 わけがわからない。小太郎のそんな疑問にも気づいているだろうに、かまわず姫は続ける。

「なにか、お悩みなのではないですか?」

 どきりとした。

「顔に描いてらっしゃいます」

「…………」

 トゥイードゥルディーといい彼女といい、ここのひとが鋭いのか、自分がわかりやすいのか。

 昨日の女王と大臣たちのやりとりからして、今彼女にそれを問うてもいいものかどうか、小太郎には判断がつかなかった。それでも、まあいいか、とも思う。ただ単に、ひとりで考え込んでいることに疲れていたのかもしれないし、なんでもいいから、誰かに話したかっただけなのかもしれない。

 五秒迷って、姫から視線を外した。

「女王──陛下のことを、どう思われますか」

 姫は即答する。

「尊敬しております」

 このへんは姉妹だなあ、と思う。

「皆の反対を押し切って、争いを続けようとしている、そんな女王でもですか」

 それでも姫は即答する。

「ありがたく思っております。大切なものを取り戻し、守るためですもの」

「でもそれは、きっと敵も同じだ」

「…………」

 あの日の塔のてっぺんで、女王から聞いたあの時から、それはこころのど真ん中に居座っていた感情だ。

 内戦に疲れ、荒野の旅に疲れ、ようやくたどり着いたアリス・リデルの地。それを望む彼らと、かつてあった空を目指す女王たちの間にいったいどれだけの違いがあるというのか。だけど、

 そう簡単に割り切れるものだろうか、とも思う。

 はたして記憶を失う前の自分なら、そんなことを言えていただろうか。

「おやさしいのですね」

「え」

「見失ってらっしゃるのですね、なんのために戦えばいいのか」

 ずくん、とその言葉が胸を刺す。

「では、わたくしを守ってくださいまし」

 弾かれるように顔を上げた。

「わたくしを守るために、傷ついてくださいまし。敵を、屠ってくださいまし」

 ふわりと、鼻腔をなつかしいにおいがかすめたと思った瞬間、頬に、やわらかな唇が触れた。

「だめですか?」

 度肝を抜かれていた。

 ひとたまりもなく狼狽し、腰が砕けなかったのが不思議なくらいだった。

 ずるいと思う。どうしてふたりして──妾の剣となれ、ウィザード──でぼちんと同じ顔でそんなことを言うのか。

 でぼちんと、同じ姿で。




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