養父の憂鬱と執事の日常
「~♪~~~♭~~♪♪」
どこからか漏れる歌声に、白檀はなんの気なしに音に近づく。
そして程なく音の発信源を見つけると、開いている扉の部屋の持ち主を察し、一瞬だけ躊躇した。
だが躊躇は本当に一瞬で、乱暴にノックをすると相手の返事も聞かずに室内に押し入る。
前触れない行動だったが部屋の主は白檀の気配などとうに気付いていたらしく、こちらを振り返るでもなく歌を歌い続けていた。
「アイラービュ~♪世界一の私のおー嬢様♪可愛い、かっわいい、お嬢さま♪らぶらぶらぶらぶ、お嬢さま♪」
誰もが聞き惚れるだろう甘ったるいテノールで歌う彼は、白檀の執事長だった。
怜悧な眼差しに残酷な性格。モノクルの奥から覗く紺色の瞳が輝く瞬間や、ニヒルに笑う姿が痺れると名高い男───荷葉は、この上ない美声で誠に残念な歌を歌っている。
子供の頃から彼に面倒を見てもらっていた白檀だが、彼の性格はここ百年近くでかなり様変わりしてしまい、その有様に色々と危機感を抱いていた。
とめどなく『お嬢さまを讃える歌(仮)』を謳い続ける彼は、何か書き物をしているらしい。
羽ペンが流れるようにさらさらさらと動いている。
だが白檀の位置からだと何を書いているか全く見えず、じとりと眉間に皺を寄せた。
「世界が誇~る、お・じょ・う・さま♪ラブ!!」
動いていた手が止まった。
そして同時に痛すぎる歌も止んだ。
気が付けば執事の中で養女は世界に誇る存在になっていたらしい。
白檀とて可愛く愛しい伽羅を誇る気持ちは強いが、彼ほど痛々しい存在にはなりきれなかった。
伽羅が絡まない普段の姿を知っているだけに、その気持ちは余計に強くなるのかもしれない。
少なくとも伽羅と会うまではあんなに低レベルな歌詞を大声で歌う男ではなかった。
ある意味で退化し、ある意味でとんでもなく進化している男に背筋を震わせる。
どうしたものかと考えたが、結局好奇心が勝り仕方なしに声を掛けた。
「荷葉」
「はい、坊ちゃま。何でございましょう」
呼びかければ、先ほどまでの痛々しさなど嘘であったかのように取り繕った彼は、優美な動きで立ち上がると一礼する。
白檀が赤ん坊の頃から傍使えとして仕えている彼は、成人し爵位を得た白檀を未だに『坊ちゃま』呼びで扱っている。止めろと言っても伝わらないのでそれはもう好きにさせていた。
だがそれとは別に、本来なら主である白檀に気付きながらも無視し続けた無礼を叱り付けなくてはいけないのだろうが、とてもではないがそんな勇気は持てなかった。
なのでそのまま不問にすると、気になっていた用件を口にする。
「何をしていたんだ?」
「お嬢さまに捧げる歌を作っておりました」
「───もしかして、さっきの、あれか?」
「ええ。今日のお休みの際に子守唄に致します。昔はもっと色々と言葉を工夫していたのですが、飾った言葉は好きじゃないと仰るので」
「それで、結果があれか?」
「はい。シンプルで判り易く仕上げてみました。如何でしょうか?」
如何でしょうか。如何でしょうかって聞いてきたよ、こいつ。
唇を引きつらせ、一歩後ずさる。
何故白檀に感想を求めるのだろうか。普段なら、別に白檀の感想など気にしないではないか。
遠まわしに誉めろと言っているのかもしれないが、あの歌のどこに誉める要素があるんだろうか。
言わせてもらうがあの歌は痛さと居た堪れなさしか生み出さない産物だ。
途中からしか、と言うより最後までの僅かな部分しか耳にしていないが、『アイラービュー』の雄叫びからしか歌詞は耳にしていない。
『可愛い、かっわいい、お嬢さま♪らぶらぶらぶらぶ、お嬢さま♪』て、今時子供が創作した歌でもそんなに酷くないだろう。
いい年した男が連呼しながらミュージカル俳優並にのりのりで歌うものではない。
しかも最後の『お・じょ・う・さま♪ラブ!!』は止めた方がいい。
サンバ的なリズムに乗っていたが、『ラブ!!』で華麗に決めたつもりだろうか。
聞いた内容から想像するに、『可愛い』と『ラブ』で全体の八割以上を占めているんじゃないだろうか。
どや顔されてもどうしようもない。否、どや顔で誇らしげな顔をするのも厚かましいのじゃなかろうか。
いやそもそもこれを伽羅の子守唄に本気でするつもりなんだろうか。
睡眠学習並に一晩でも謳い続けそうな荷葉の影響はどれくらいなのだろうか。
黙り込んで冷や汗を流し始めた白檀は、養女への影響も考え密かに戦慄した。
自分の教育係をした彼に、伽羅の教育係も頼んでいたのだが、それはこの上なく間違いだったのではないだろうか。
あの歪み一つなく自分を真っ直ぐに見上げてくる伽羅が、彼の洗脳教育で変わってしまったらどうすればいいのだろうか。
ごくり、と喉を鳴らした白檀は、危険生物を視るように瞳孔を開いた瞳で荷葉をガン見した。
もうこうなると年上の頼りになる男としての理想像ががらがらと音を立てて崩れ、単なる幼女趣味の変態にしか見えなくなってきた。
モノクルをかけた荷葉はいつだって冷静沈着で、強大な力を持ちながらもそれに驕らず努力を続け、嗤って人の裏を掻く賢しい男のはずだったのに。
子供の頃の理想像はがらがらと音を立てて瓦解し、養女に悪影響を与えるかもしれない───否、確実に与えるだろう危険人物を睥睨する。
少し前から迷っていた案件が急速に白檀の中で纏まり、するりと唇から零れ落ちた。
「荷葉」
「はい」
「───伽羅を学校へ通わせるぞ」
「っ!!!!?」
抽象画の人物像のような顔をした荷葉に、己の選択の正しさを白檀は確信した。