第2話 出所不明な金銭
出どころの分からない大金、ということか。
30年後なら、百万円はそれほど大した金額ではないかもしれない。
インフレがかなり進んでいた時代だからだ。
けれど、今は90年代。
百万円ともなれば相当な大金で、土地と家を買う頭金にだってできる。
それだけの現金を女子中学生が持っているとなれば、確かに不自然だった。
部屋を出ていく母・美恵子を見送ったあと、涼介はベッドに横になり、天井を見つめた。
「僕が父親なら、こんなことをするより、直接本人に聞くけどな……」
美恵子の話によれば、勇夫はかなり前から、凌乃の鞄の内側に小型の発信機を仕込んでいたらしい。
GPSを利用し、リアルタイムで位置を確認できる仕掛けだ。
高城勇夫は刑事である。
これは、家族を守るための対策だった。
万が一、仕事で関わった暴力団に凌乃が誘拐されても、すぐに居場所を突き止められるようにするためだ。
そして今、その発信機の受信機が涼介の手元にある。
「あなたは凌乃がどこへ出入りして、どんな人たちと会っているのか、その人たちがどんな見た目なのかを確認してきて。
それを勇夫さんに伝えるだけでいいわ。あとはあの人が判断するから」
母親から言い渡された内容を思い返し、涼介は思わず頭を抱えた。
(これじゃ、ほとんどストーカーじゃないか)
とはいえ、ひとまず引き受けることにはした。
もともと東京へ行く予定だったのだ。ついでに様子を見てくる程度なら、それほど手間でもない。
何にせよ、両親がこんなことを頼んできたのも、凌乃を心配しているからだ。
世の中は複雑で、人の本性など簡単には分からない。
まだ学校の外の世界もろくに知らない美少女が相手なのだから、心配するなというほうが無理だろう。
◇
翌朝。
涼介は東京行きの電車に乗った。
凌乃は彼より一足早く家を出て、新幹線に乗ったらしい。
情報源は、もちろん勇夫だ。
普通電車との違いは、料金が高い代わりに速いこと。
手元に百万円を超える現金を隠し持っている凌乃なら、この程度の出費を惜しむこともないのだろう。
だが、涼介にそんな贅沢をする余裕はない。
もともと貯金する習慣もあるため、交通費はできるだけ節約したかった。
それに発信機がある以上、途中で見失う心配もない。
二時間近く電車に揺られ、高城涼介は新宿駅の西口から外へ出た。
改札を抜けたところで、少し離れた場所に自分の名前が書かれた札を掲げている人物が見えた。
体の線に沿ったタイトスカートに、上半身はベージュのジャケット。
金縁のメガネをかけた若い女性が、駅の出口をしきりに見回している。
どうやら誰かを捜しているらしい。
一度、涼介と目が合った。しかし、女性は次の瞬間には視線を外してしまった。
涼介が彼女の目の前に立っても、反応はない。
◇
早川留美は、駅を行き交う人々の中で緊張しながら立っていた。
駅まで人を迎えに来るのは、これが初めてだった。
普段なら、こうした仕事は先輩が担当する。
しかし最近、部署の副編集長(服部編集者)が彼女を起用しようと考えているらしく、新人賞の金賞受賞者を迎えに行く役目を任されたのだ。
相手をきちんともてなすことができれば、年末の人事評価にも影響するかもしれない。そうなれば、担当編集者の座へまた一歩近づくことができる。
日本の職場では、何よりも勤続年数が重んじられる。
そんな壁を飛び越えるための近道が、人脈を築くことだった。
(この機会は、絶対にものにしないと!)
そう意気込みながら、留美は改札から出てくる人々へ視線を巡らせる。
そろそろ約束の時刻だというのに、目的の人物はなかなか現れない。
そのとき、突然視界の中に一人の少年が入り込んできた。
身長は留美よりも少し高く、正面に立たれると向こう側がまったく見えない。
留美は相手の邪魔にならないよう、礼儀として少し横へ移動した。
ところが、少年も影のようについてくる。
(もしかして、ナンパ……?)
(私って、このくらいの年の男の子にまで通用するほど魅力的なの?)
緊張のあまり、留美の頭は処理能力の限界を迎えかけていた。
「あの……何かご用ですか?」
目の前の少年が手を差し出してきた。どうやら握手を求めているらしい。
「初めまして。時雨沢恵一です」
(やっぱりナンパなの?)
留美は思わず少年を上から下まで観察した。
整った顔立ちに白い肌。前髪は額の半分ほどを覆っている。見た目だけで言えば、確かにかなり好みのタイプだった。
(身長も、ちょうどいい感じかも……)
しかし、二人の間には大きな年齢差がある。
何より、今は大事な仕事の最中だ。留美は頭の中で素早く状況を判断した。
「ごめんなさい。ご縁があれば、またどこかで会えると思うから。今は用事があるの」
反射的に断ると、留美は少年の横を通り過ぎ、再び札を掲げてその場に立った。
「?」
高城涼介は困惑した表情を浮かべる。
(何が起きたんだ? この人、僕を迎えに来たんじゃないのか?)
涼介はもう一度女性の前へ回り込み、彼女が掲げている札を念入りに確認した。
やはり、自分の勘違いではない。
「断ったのに、どうしてまだ声をかけてくるんですか?」
留美は少し苛立った様子で言った。
涼介の容姿に対して抱いていた好印象など、一瞬にして消え去っている。
今は何を優先すべきか。その程度の分別は、彼女にもあった。
突然強い口調で責められ、涼介は言葉が出なかった。
「早川さん、ですよね?」
「えっ?」
留美は目を丸くした。
「どうして私の名前を知っているんですか?」
「服部編集者からいただいた手紙に、早川留美さんという方が迎えに来てくださると書いてありました」
「……」
早川留美は、その場で固まった。
(そういえば、さっきこの子、なんて名乗ったっけ?)
時雨沢……。
そのあとの二文字は、よく聞き取れなかった。
留美はぎこちなく顔を上げ、自分が高く掲げている名前の札へ目を向けた。
◇
「本当に申し訳ありませんでした! 時雨沢先生が、こんなにお若い方だなんて思ってもいなくて!」
もし車内に大人一人が入れるほどの隙間があったなら、早川留美は今すぐそこへ潜り込んでいただろう。
目の前の少年が受賞作の中で描いていた「社会的な死」とは、まさしくこういう状況を指すに違いない。
車内には、なんとも気まずい空気が漂っていた。
「大丈夫ですよ、早川さん。そんなに気にしないでください」
一般的に考えれば、電撃文庫の新人賞で金賞を取った作家が、これほど若いとは思わないだろう。
涼介は手を振り、笑いをこらえるように口元を覆った。
本人はそれほど気にしていない。
むしろ、早川留美には悪くない印象を抱いていた。
仕事のできる女性らしい外見をしているのに、中身はかなりの天然らしい。
こういう人物を21世紀初頭のライトノベルに登場させれば、かなり人気の出るキャラクターになりそうだ。
(男は、顔のいい少し抜けた女に弱いっていうけど……あながち間違いでもないのかもな)
そんなことを思った涼介は、留美を慰めようとした。だが、彼女にはまるで届いていない。
(迎えに来た作家を、ナンパしてきた相手だと勘違いするなんて……私、何を考えてたのよ!)
(このことが服部副編集長に知られたら、絶対に激しく叱られる!)
(私のキャリアも、ここで終わり……?)
留美の頭を埋め尽くしていた激しい羞恥心は、やがて深い落ち込みへと変わっていった。
(人を迎えに行くなんて簡単な仕事すらできない人間に、責任ある仕事を任せられるか――)
(きっと、そんなふうに散々叱られて、編集部から追い出されるんだ……)
すっかり意気消沈してしまった留美を見て、涼介は思わず微笑んだ。
そのまま後部座席に座り、それ以上は何も言わない。
こうした社会的な失敗は、本人にとって一生忘れられない黒歴史になるかもしれない。
今は、自分で気持ちを落ち着かせるのを待つしかなかった。
涼介はそれ以上留美の様子を気にすることなく、鞄から発信機の受信機を取り出した。
画面には、緑色の印が点滅している。
「また電波が入ったか」
先ほど電車に乗っていたときは、距離が離れすぎたせいで一時的に信号が途切れていた。それが今は、正常に戻っている。
「この場所……凌乃も新宿にいるのか?」
涼介は顎に手を当て、少し考えた。
「服部編集者との打ち合わせが終わったら、様子を見に行ってみるか」




