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第9話:泥の手が掴んだ「学び」の価値。――未来開発院の初試験と、エルゼの「投資」理論

 深夜、王立更生・復興総商会の総裁執務室には、一際鋭い魔導ランプの光が灯り続けていた。

 机の上に積み上がった書類の山は、エルゼ・ド・ヴァレンティーヌという一人の女性の手によって、事務的に、かつ冷徹な速度で片付けられていく。ペンが紙を走る音だけが、メトロノームのように規則正しく室内に響いていた。


「……温度が二度、高いです。淹れ直してきなさい」


 エルゼは手元の書類から目を離さず、傍らに置かれたカップを一瞥もせずに告げた。

 そこには、震える手でトレイを持つ少女、ルナが立っていた。彼女は数週間前、地獄のような奴隷収容所からエルゼによって「買い取られた」ばかりの身だ。


「も、申し訳ありません、エルゼ様……すぐ、すぐに!」


「ルナ。謝罪は時間の浪費です。次からは温度計を使いなさい。感覚という不確かな数値に頼るのは、無能のすることです。……それと」


 淹れ直しに走ろうとするルナの背中に、エルゼの低い声が追いつく。


「……その帳簿の端を盗み見る暇があるなら、一階の図書室へ行きなさい。あそこの棚にある『初級算術教本』の第一章を明朝までに暗記すること。……私に仕える者が、四則演算もできないのでは、管理コストが嵩んで仕方がありませんから」


「……っ。はい! ありがとうございます、エルゼ様!」


 突き放すような物言い。だが、ルナはその言葉の裏にある「教育という名の慈悲」を理解していた。彼女は深々と頭を下げ、冷めた紅茶を持って部屋を辞した。

 一人残されたエルゼは、眼鏡を指先で押し上げ、ふっと微かな溜息をつく。


「……教育。……複利計算よりも予測不能で、かつ最もリターンの大きい不確定資産(在庫)。……さて、明日の『査定』の準備をしましょうか」


 翌朝、王都の北側に位置する『未来開発院』。

 かつて汚職貴族の別荘だったその建物には、今、この国で最も清潔な服を着て、最も必死な表情をした子供たちが集まっていた。


「……これより、第一回中間査定(試験)を開始します。制限時間は六十分。一秒の遅れは、商機の一生を逃すのと同じだと心得なさい」


 教壇に立つエルゼの姿に、子供たちは一斉に背筋を正した。

 配布された解答用紙には、単なる数字の羅列ではなく、『王都のパンの適正価格算出』や『騎士団の配送ルートにおける最短時間の計算』といった、生きた実務の問いが並んでいる。


「始め」


 エルゼの合図と共に、室内にはペンが紙を削る音だけが満ちた。

 最前列に座る少年、テオは、かつて泥の中に指で数字を書いていたあの頃の自分を思い出していた。

 (……負けられない。エルゼ様に『不採算在庫』だなんて思われてたまるか。僕は、あの人の隣で数字を支える『資産』になるんだ!)


 テオの指は止まらない。エルゼから叩き込まれた論理的思考が、脳内で爆速の演算を繰り返す。

 エルゼは教卓に座り、ストップウォッチを片手に、無表情で子供たちの様子を監視していた。時折、ペンが止まった子供に冷ややかな視線を送る。そのプレッシャーは、並の大人なら卒倒するレベルだ。


「……そこまで。鉛筆を置きなさい」


 六十分丁度。エルゼは容赦なく宣言し、解答用紙を回収させた。

 彼女はその場で魔導ペンを手に取り、爆速で採点を開始する。

 教室内には、自分たちの運命が決まるのを待つ、死のような静寂が流れていた。


「……テオ」


 エルゼが名前を呼ぶ。テオは心臓が口から飛び出しそうなのを堪え、立ち上がった。


「……はい」


「百点。……計算ミスはありません」


 周囲の子供たちから、ホーッと溜息が漏れる。だが、エルゼの瞳は笑っていなかった。


「……ですが、テオ。七問目の記述。……数字は合っていますが、筆跡が乱れています。これではルナが清書する際に、判読に零点五秒のロスが生じます。……実務において、読み取りにくい数字は『ノイズ』です。……不合格(やり直し)としなさい」


「……っ」


 テオの顔から血の気が引く。満点なのに、やり直し。

 だが、エルゼは教壇を降り、テオの机の前に立った。彼女はテオの小さく、だが確かな意思を感じさせる手を見つめ、低く告げた。


「……ただし。解法ロジックの組み方は、我が商会の幹部に相応しい。……磨けば、金貨一億枚以上の価値が出る『原石』にはなりそうですわね。……今回の不合格は、将来のあなたへの『先行投資』だと思って受け入れなさい」


「……! はい……はい! ありがとうございます、エルゼ様!」


 テオの瞳に、悔しさと、それ以上の歓喜が混ざり合った涙が浮かぶ。

 エルゼは教室内を見渡し、合格点を超えた他の子供たちにも、事務的に告げた。


「合格した者には、今日のご褒美として『はちみつたっぷりパン』と、テレーザが開発した『インク切れしない魔導ペン』を支給します。……これはプレゼントではありません。より速く、より正確に働くための『軍備(武器)』です。……期待を裏切れば、即座に売却(除籍)しますから、そのつもりで」


「「「ありがとうございます、エルゼ様!!」」」


 子供たちの歓声が、かつての絶望に満ちた別荘に響き渡る。

 エルゼは「管理コストに見合う成長ですね」と、誰に言うでもなく呟き、ルナを伴って教室を後にした。


 帰りの馬車の中、夕日に染まる王都の街並みを眺めながら、ルナが控えめに口を開いた。


「……エルゼ様。……テオ君の答案、しっかり複写して『重要書類箱』に保管されましたね」


「……将来、彼が高給取りになった時に、この筆跡の乱れをネタに年俸交渉デッドヒートをするためです。……嬉しいからではありません」


「ふふ、そういうことにしておきますわ。……総裁。……明日は建国祭ですね」


「……ええ。国内の『在庫整理』に、一つの区切りをつける日です。……ルナ、明日は早いですよ。……しっかり休養メンテナンスしておきなさい」


「はい、エルゼ様」


 エルゼは窓の外、明日への輝きを増す王都を見つめた。

 不器用な慈愛は、数字という鎧に隠されたまま。

 だが、彼女が蒔いた「教育」という名の種は、着実にこの国の未来を黒字化させようとしていた。


ーーー


 休日の午後。王立更生・復興総商会の魔術開発棟は、研究者たちが休みを取るため、静寂に包まれていた。

 その一角、豪華なソファの上に、だらしなく脱ぎ捨てられた魔導師のローブと、丸まって眠る一人の女性がいた。


「……ふあぁ。……エルゼ様に頼まれた『新型オーブンの熱効率計算』、終わらせたから……あと十時間は起動不可スリープだよ……」


 執行役員、テレーザ。彼女の『メンテナンス(休日)』は、脳のオーバーヒートを防ぐための徹底的な睡眠である。

 そこへ、視察帰りのエルゼが、ルナを伴って通りかかった。


「……テレーザ。……またこんなところで。……資産の放置は劣化を招きます」


 エルゼは事務的に呟きながらも、テレーザが蹴飛ばしたブランケットを拾い上げ、首元まで丁寧に掛け直してやった。


「……総裁。……彼女、寝言で『エルゼ様、それ……計算間違い……零点零一……』って言ってますよ」


「……寝言で監査しないでください。……まったく、有能な怠け者ほど、管理が難しいものはありませんね」


 エルゼは少しだけ呆れたように、だが愛おしそうに、テレーザの寝癖がついた頭を一度だけ、事務的に(優しく)撫でた。


「……ルナ。……一時間後に、彼女の好きな甘いお茶を用意しておきなさい。……起動(目覚め)の効率を上げるための、必要経費ですわ」


「承知いたしました、総裁」


 静かな午後。

 数字の女帝は、自分を支える大切な「資産」たちが眠る穏やかな空気を、しばしの間だけ、自身の『純利益』として楽しむのだった。


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