第22話:魔族の「暴力」は非効率です。――シグリッドの警備マニュアルと、魔界の治安黒字化
魔界、辺境領。
そこは、空に幾重もの紫色の月が浮かび、大地からは不気味な魔力の結晶が突き出した、人族の常識が通用しない混沌の地であった。
だが、その不毛な荒野を、整然と行進する一団がある。白銀の装甲を魔導強化脚の駆動音と共に響かせ、一切の乱れなく進む新生『爆速騎士団』。その中央には、馬車ではなく自らの足で堂々と大地を踏みしめるエルゼ・ド・ヴァレンティーヌの姿があった。
「……周囲の魔力密度、三〇〇パーセント上昇。……視界不良による行軍速度の低下。……ルナ、記録しなさい。この領域の『環境維持コスト』は、王都の十倍と見積もります」
エルゼは魔導防護服の襟を正し、バインダーを片手に淡々と告げた。
背後に控える給仕見習いのルナは、未知の世界への恐怖で顔を青くしながらも、エルゼから預かった「特製魔導ランタン」を必死に掲げている。
「は、はい……! ……あ、あの、エルゼ様、あそこの岩陰から、なにか……すごく大きい影が!」
ルナが指差した先。巨大な岩を粉砕し、身長三メートルはあろうかという巨躯のオーク――魔界の略奪者たちが姿を現した。彼らは錆びついた大剣を振り回し、野卑な咆哮を上げる。
「グハハハハ! 人間共め、自ら餌になりに来たか! 魔界の掟はただ一つ、『力こそ正義』だ! 貴様らの荷物も命も、今すぐこの俺が――」
「……不採用(却下)です」
エルゼの声は、オークの怒号を事務的に切り裂いた。
彼女は一歩も引かず、むしろ前進しながら懐中時計を確認した。
「……『力こそ正義』? それは単なる『無秩序な資源の奪い合い』を正当化するための低レベルな言い訳(言い逃れ)に過ぎません。……シグリッド執行役員。……この不採算な『暴力』を、我が商会の『警備規定』に照らし合わせ、即座に修正しなさい」
「……御意。……暴力の非効率さ、身体に叩き込んでやろう」
シグリッドが弾かれたように跳躍した。
抜剣はしない。鞘のままの長剣が、オークの大剣を真っ向から受け流し、その巨体を一撃で地面に沈めた。強化脚の駆動音が炸裂し、続くオークたちも、文字通り「爆速」の打撃によって次々と無力化されていく。
「……な、なんだこの速さは……!? 人間が、オークの怪力に打ち勝つなど……!」
「……勘違いしないでください。……これは暴力ではなく、『不法な干渉に対する強制執行』ですわ」
エルゼは倒れたオークの頭の横に、事務的に一枚の書類を突きつけた。
「……ガスト・オーク。……本日のあなたの『襲撃行為』により、我が商会の行軍が二分十四秒遅延しました。……その損失額は人件費と魔力消費を合わせて金貨百枚に相当します。……支払えなければ、本日よりあなたを『魔界出張所・警備員』として強制雇用し、労働で返済していただきます」
「……け、警備員……? 俺が、人間を守れと言うのか!?」
「……『守る』のではありません。……『資産の毀損を未然に防ぐための、有償業務』に従事するのです。……シグリッド。……このマニュアルを、彼らに配布しなさい」
シグリッドが取り出したのは、エルゼが監修した『魔界における適正警備マニュアル・第一版』であった。
そこには、誰を殴るべきかではなく、いかにして「物流ルート」を守り、その見返りに「清潔な寝床と食糧」を確保するかという、魔族には未知の『契約』の概念が記されていた。
「……ルナ。……交渉の席を用意しなさい。……まずは、お茶で彼らの『脳の燃費』を整えてあげましょう」
「……は、はい! エルゼ様!」
殺伐とした荒野のど真ん中に、ルナが震える手でテーブルを広げ、テレーザ特製の魔導コンロで沸かしたお湯でハーブティーを淹れる。
魔族の長たちは、毒を疑いながらもおそるおそるそのカップを口にした。
「……あ、熱い……だが、この香り……体内の魔力の巡りが良くなる……!?」
「……適正温度、四十二度。……ストレス緩和効果のあるハーブです。……いいですか、魔族の皆様。……無意味に殺し合って個体数を減らすのは、経営学的に見て『資産の焼却』に他なりません。……我が商会と提携すれば、あなたたちの腕力は『暴力』ではなく『配送護衛』という価値ある商品に変わるのです」
エルゼの淡々とした、だが逃げ場のない正論。
そこへ、生徒のテオが計算尺を叩きながら割って入る。
「……エルゼ様! ……このオークたちの筋力を王都の運送レートに換算しました。……重機として再定義すれば、一人あたり一日で金貨三枚分の利益を生みます! ……彼らを野放しにするのは、金貨を捨てているのと同じです!」
「……及第点です、テオ。……では、彼ら全員の『雇用契約書』を作成しなさい。……身分証の発行を忘れずに」
数時間後。魔界の辺境は、わずか半日で「統制された物流拠点」へと変貌していた。
凶暴だったオークたちが、総商会のロゴ入り腕章を付け、荷馬車の代わりに巨大な岩をどけて道を整備している。
「……おい、そこ、一ミリのズレもなく並べろよ! エルゼ総裁の監査は厳しいんだからな!」
「……分かってるよ! あのパンの配給が減給されたら、元も子もないからな!」
魔族たちが、暴力よりも「給料」という名の秩序に目覚め始めた瞬間であった。
エルゼは、その光景を事務的に確認し、アルベルト皇子への定期報告書にこう記した。
『魔界の治安維持、アウトソーシング(外注化)に成功。……引き続き、不採算な経営者である「魔王」への接触を開始します』
ーーー
魔界の拠点設営後。静まり返ったシグリッドの私室。
彼女は、任務で泥を被った魔導強化脚を丁寧に磨き上げた後、ふと机の引き出しから、魔界の地層で見つけた「奇妙な形の紫色の鉱石」を取り出した。
「……ふぅ。……この硬度、この光沢。……盾の装飾に使えるかもしれんな。……あるいは、単なる石ころにしては、見栄えが良い」
シグリッドは、誰にも見せることのない柔らかな眼差しで、その「無価値な石」を黙々と磨き続けていた。
そこへ、抜き打ちの備品監査に訪れたエルゼが、ノックもせずに入室した。
「……シグリッド。……その石、魔力伝導率がゼロの『不燃ゴミ』に分類されますが。……資産価値のないものを磨く時間は、労働効率の低下(赤字)ではありませんか?」
「……総裁。……ああ、バレたか。……これは、ただの趣味だ。……無機質な数字だけの世界に、たまにはこういう『不必要なもの』があってもいいだろう?」
エルゼは眼鏡の奥で、その紫色の石と、それを大切そうに持つシグリッドの手を、事務的に「鑑定」した。
「……ふむ。……シグリッド、あなたの『精神的な安定維持コスト』と天秤にかければ、その三十分の研磨時間は、必要な『減価償却』として承認せざるを得ませんね」
「……フッ。……相変わらず、許可を得るのにも理屈が必要か。……ありがとう、エルゼ様」
エルゼは少しだけ顔を背け、「……明日からは、魔王城までの『最速ルート』の算出に入りますわよ。……寝坊は禁止です」と言い残し、部屋を去った。
鉄の意志を持つ騎士団長と、不器用な支配者。
魔界の闇夜の中、二人の「信頼」という名の無形資産が、また一つ、静かに積み上がっていった。




