第21話:「魔界」の門、開通。――資源の遺棄は重罪(万死)に値します
国境の禁足地、幽幻領。
古来より、人族が足を踏み入れることを禁じられたその森の深奥で、空間が悲鳴を上げるような音を立てていた。漆黒の亀裂が空を切り裂き、そこからは濃密すぎて毒にも等しい、禍々しい魔力の奔流が溢れ出している。
「……グルルル……人間……餌……」
亀裂の向こう側から、燃えるような眼球を持つ下級魔族ガルムが数体、涎を垂らしながら這い出してきた。彼らは数百年ぶりの「人界の狩り」を確信し、鋭い爪を研ぐ。
だが、その獣たちが最初に対面したのは、怯える生贄などではなく、ストップウォッチと魔力測定器を片手に、無表情でバインダーにペンを走らせる眼鏡の女性であった。
「……計測開始から三〇秒。放出魔力量、王都の年間総消費量の約三倍。……一分あたりの損失額を金貨に換算すれば、一万二千枚。……不採算ですわ。……このような資源の遺棄、万死に値します」
エルゼ・ド・ヴァレンティーヌは、自分を喰らおうと跳躍したガルムを一瞥もせず、事務的に告げた。
直後、彼女の影からシグリッドが爆風と共に飛び出し、抜剣すらしない鞘の打撃でガルムを地面に叩き伏せた。
「総裁。……この『在庫』、処分しますか? それとも……」
「殺すのは人件費の無駄です。……テレーザ執行役員、装置の起動を。……この『垂れ流しの金山』を、我が商会の専用供給路として固定しなさい」
後方で欠伸をしていたテレーザが、気だるげに指を鳴らした。
「幽幻領」の中央に据えられた巨大な鉄の杭――魔導重力杭が唸りを上げ、空の亀裂を物理的に「鋲」で留めるように固定した。
「……はいはーい。……『空間固定・魔力吸引陣』、起動するよ。……門を閉じるなんて勿体ないこと、エルゼ様が許してくれないもんね……」
テレーザの構築した魔法陣が輝き出すと、亀裂から溢れ出していた魔力が、目に見える渦となって総商会特製の貯蔵タンクへと吸い込まれ始めた。
魔力に当てられて苦しんでいたガルムたちは、逆に体内の魔力まで「通行料」として吸引され、一瞬で干からびた子犬のように大人しくなった。
「……ルナ。給仕見習いとしての初仕事を命じます。……あそこに転がっている『魔界の特産品』を回収なさい」
エルゼが指差した先には、門の向こうから飛んできた、紫色の禍々しい光を放つ果実が転がっていた。
ルナは震える足を叱咤し、お盆を持つ時よりも必死な形相で駆け寄った。
「は、はい! エルゼ様! ……ええと、これは……匂いはきついですが、魔力の含有率が……手元の教本の『最高級魔石』の数値を振り切っています!」
「及第点です。……それを『魔界第一次試供品』として登録しなさい。……テオ。……現在の回収魔力量から、次年度の国内減税率を試算しなさい」
そばで必死にメモを取っていた生徒のテオが、計算尺を弾いて答える。
「……はい! ……供給が安定すれば、魔法ギルドへの補助金を二倍にしても、国庫には金貨五〇万枚の余剰が出ます! ……魔族を『従業員』としてカウントすれば、さらに利益は上がります!」
「……よろしい。……シグリッド、ここに『魔界第一税関』を設営なさい。……門から這い出してくる者がいれば、一人残らず登録させ、納税(魔力提供)の義務を説明すること。……抵抗するようなら、その牙を『希少素材』として没収しなさい」
「魔界への侵略」ではなく、「新市場への出店」。
エルゼの思考には、恐怖も神秘も存在しない。あるのは、未開拓の資源をいかにして「黒字」に変えるかという、圧倒的な経営戦略だけだった。
門の向こう側、暗闇の中でこちらの様子を伺っていた高位の魔族たちは、自分たちの侵略兵器(魔力)が次々とタンクに詰め込まれ、部下たちが事務的に「検収」されていく光景に、戦慄を禁じ得なかった。
彼らが恐れていた「勇者」よりも遥かに恐ろしい、「事務の怪物」がそこに立っていた。
「……さて。……ルナ、テオ。……魔界の空気は、人間にとっては毒ですが、それを防ぐ『魔導マスク』の特許は既に取得済みです。……明日からは、この門の向こう側の『帳簿』を付けに行きますわよ」
エルゼの眼鏡が、門の奥に広がる闇――すなわち、まだ誰も手をつけていない莫大な「利益」を反射して、青白く輝いた。
ーーー
門の固定と吸引陣の安定化作業を終えた深夜。
臨時設営された「魔界出張所」のテント内で、テレーザはエルゼのデスクの下に潜り込み、丸まって眠っていた。
「……むにゃ。……エルゼ様……。……魔力の……逆流防止弁……完璧だから……あと、五時間は……起動、不可……」
エルゼは、深夜の事務作業を止めて、自分の足元で「高価な資産」がだらしなく眠っているのを見下ろした。
彼女は、隣国アルベルトから「商談の円滑化」のために贈られていた、最高級のビターチョコレートの箱を手に取る。
「……テレーザ。……ここで寝るのは、私の作業領域の『不法占拠』ですわ。……利息を請求したいところですが」
エルゼは事務的に呟きながらも、テレーザを起こさないよう、その口元にチョコレートを一粒、そっと置いた。
糖分が粘膜から吸収されれば、脳の回復速度がコンマ数パーセント向上するという計算に基づいた、不器用な「投資」である。
「……資産の劣化は、経営者の責任ですから。……ルナ、彼女に新しいブランケットを。……それと、明朝の彼女の朝食は、糖分二倍の設定にしなさい」
「……はい、エルゼ様。……ふふ。……エルゼ様、本当はテレーザ様のこと、とっても心配されてるんですね」
「……不規則な発言は慎みなさい。……私は、自分の『所有物(役員)』の性能を維持しているだけですわ」
エルゼは顔を背け、再び魔界の地質調査書にペンを走らせた。
テントの外では、魔力吸引機が規則正しい音を立て、異世界からの富を静かに、そして確実に吸い上げ続けていた。




