第20話:「未来」への投資は、現場にあり。――ルナとテオの初同行と、女帝の背中
王立更生・復興総商会本部、早朝の馬車発着場。
朝靄が立ち込める中、テレーザが整備した最新式の魔導馬車が、静かにその巨体を震わせていた。
給仕見習いのルナと、未来開発院の生徒であるテオは、借りてきた猫のように肩をすぼめ、エルゼ・ド・ヴァレンティーヌの背中を追っていた。
「……ルナ。そのトレイを持つ手が震えています。……振動による紅茶の零下を計算に入れていますか? テオ。……昨夜出した宿題、『隣国の関税撤廃による物価変動予測』の解答用紙を出しなさい。……移動中の馬車で添削(検品)します」
エルゼは振り返ることなく、事務的な指示を飛ばした。
二人は「はいっ!」と声を揃えて返事をし、大慌てで馬車に乗り込んだ。今日は彼らにとって、初めての「実地研修」……すなわち、エルゼが隣国の汚職貴族を最終的に「清算」する現場への同行であった。
「……教科書の数字は、ただの静止画です。……ですが、生きた数字は、一瞬の判断で何千人もの運命を、あるいは国家の存亡を左右します。……その『現場(戦場)』を、脳細胞の一片に至るまで焼き付けておきなさい」
馬車が走り出すと、エルゼはテオが差し出したボロボロのノートを、冷徹な速度でめくり始めた。
テオは、エルゼの眼鏡がキラリと光るたびに、自分の寿命が数年単位で削り取られていくような錯覚に陥っていた。
数時間後、馬車はヴォルガ帝國国境付近、かつての主戦派筆頭・ガスト侯爵の屋敷に到着した。
そこは既に、シグリッドの騎士団によって「資産凍結」の封鎖がなされていたが、屋敷の主人である侯爵は、往時の権威を盾に、未だに「資産の隠匿」を企んでいた。
「……不当だ! 我が一族が数百年かけて築いた富を、レガリアの小娘が差し押さえるなど、国際法への冒涜だ! 隠し金庫など存在せん! 我が家の蔵は、既に空だ!」
豪華な絨毯の上で、侯爵が唾を飛ばして叫ぶ。その背後には、彼の言い分を補強するような、意図的にスカスカにされた帳簿が並んでいた。
エルゼは一言も発さず、ただ事務的に懐中時計を確認し、隣に控えるテオとルナに視線を送った。
「……テオ。……この屋敷の外壁の厚みと、中庭の地質の『沈み具合』。……そして、昨晩から今朝にかけての、不自然な『泥の移動量』を計算しなさい。……ルナ。……あなたは屋敷内の空気の流れを確認し、不自然な『吸い込み口』がないか調べなさい。……時間は、五分です」
「……えっ!? あ、あの、私がですか!?」
「……四分五十秒。……無駄な質問は、資産の浪費ですわよ」
二人は弾かれたように走り出した。
テオは必死に地面を這い、エルゼから教わった「土木係数」を脳内で爆速回転させる。ルナは手に持ったお茶用の羽箒をかざし、壁の隙間から漏れる風を追いかけた。
「……算定、終わりました! ……中庭の東側、排水溝の付近に、金塊約二トンの重量に相当する地盤沈下を確認しました!」
「……エルゼ様! 書斎の本棚の裏から、地下へ繋がる不自然な冷気が流れています!」
二人の報告を聞き、侯爵の顔面が土気色に変わった。
エルゼは初めて、事務的な「冷笑」を浮かべ、侯爵に一通の書類を突きつけた。
「……虚偽申告、および資産隠匿の現行犯です。……ガスト侯爵。……あなたに提示していた『功労金付きの引退プラン(年金)』は、今この瞬間をもって消滅しました。……代わりに、貴殿を『更生農園(肥留農園)』への無期限派遣労働者に登録します。……あなたの隠した金塊は、そのまま貴殿の『食事代(経費)』として徴収させていただきますわ」
「な、……そんな、馬鹿な! 子供のデタラメを信じるというのか!」
「……子供ではありません。……私の『投資対象』です。……連れて行きなさい」
シグリッドの部下たちが、泣き叫ぶ侯爵を引きずっていく。
静まり返った屋敷で、テオとルナは、自分たちの計算が、一人の大人の人生を「ゴミ」として処理してしまった事実に、震えが止まらなかった。
「……良心が、痛みましたが? ……テオ、ルナ。……あの男を一人救うために費やす時間は、その裏で飢えている数千人の平民を殺す時間と同じです。……非効率な情は、国家にとっての害悪でしかありません。……これが、私の選んだ『正義(計算)』ですわ」
エルゼは二人の小さな肩に、事務的に(とても静かに)手を置いた。
その背中は、どんな城壁よりも高く、そして孤独に見えた。
「……テレーザ執行役員。……報告を」
魔導通信機から、ノイズ混じりのテレーザの声が響く。
『……エルゼ様、大変。……国境の禁足地……「幽幻領」の奥で、未観測の魔力断層が開いたよ。……魔界の門、開通しちゃったみたい……』
「……不採算なトラブルですね。……ですが、未開拓市場(魔界)の発見、と捉えれば黒字かもしれません。……ルナ、テオ。……修行は終わりです。……次は『世界の外側』を、事務的に攻略しに行きましょうか」
エルゼの眼鏡が、逆光の中で不敵な輝きを放った。
国内の再建、隣国の掌握。その全ては、次なる巨大な「経営統合(魔界編)」への、長い前振りに過ぎなかった。
ーーー
研修から戻った翌日。ルナは、エルゼから「心身のメンテナンス(休養)」を命じられていたが、自室の机にかじりついていた。
「……エルゼ様は、あんなに重い『決断』を、毎日何百回も、たった一人で繰り返しているんだ……」
ルナは、自分の手がまだ震えているのを見つめる。
昨日の侯爵の絶望した顔。それを「数字」だけで切り捨てたエルゼの、凛とした、けれどどこか寂しげな背中。
「……甘いお菓子を食べてる場合じゃない。……早く、早くエルゼ様の隣に立って……あの人の『負担』を、一ガルド分でもいいから減らせるようになりたい」
14歳の少女は、エルゼから貰った「疲れ目に効くハーブティー」を、砂糖も入れずに口に含んだ。
「……苦い。……でも、目が醒める。……今の私に、睡眠という名の『不採算な時間』は、まだ必要ないわ」
ルナは再び教本を広げ、エルゼが残した宿題の山に挑み始めた。
彼女の「休日」は、いつの間にか、憧れの主に並び立つための『研鑽という名の投資時間』へと、姿を変えていたのである。




