第16話:『投資価値』の再評価。――アルベルト皇子の再来訪と、泥船(隣国)の売却(バイアウト)
王立更生・復興総商会本部、旧王都を一望するバルコニー。
夕闇が迫る中、エルゼ・ド・ヴァレンティーヌは手元の魔導計算機をパチリと叩き、吐き出された一枚の紙片を冷徹な目で見つめていた。そこには、隣国ヴォルガ帝國を中心とした三ヶ国連合の、直近三時間の市場価格推移が記録されている。
「……予測より三時間早い崩壊ですね。無能の忍耐力という不確定要素を、少々過大評価しすぎましたわ」
エルゼが事務的に吐き捨てた言葉の先には、国境付近で立ち上る幾筋もの煙が見えた。禁輸措置と関税引き上げという、エルゼが仕掛けた「供給の絞り込み」に耐えかねた隣国の平民や商使たちが、自国の無能な強硬派貴族に対してついに暴動を起こしたのだ。
「総裁。……隣国ヴォルガ帝國より、緊急の特使が到着しております。……公式な外交ルートを無視し、商会の裏口から直接乗り込んでこられました。……案内いたしますか?」
給仕見習いのルナが、たどたどしい手つきで銀のトレイに載った親書を運んできた。その封蝋には、ヴォルガ帝國第三皇子アルベルトの紋章が刻印されている。
「案内しなさい。……ただし、私の時給は前回の商談より二割増しです。不採算な言い訳を並べるようなら、即座に退室(損切り)させますわよ」
「……は、はい! すぐにお連れします!」
数分後、応接室に現れたアルベルト・ヴォルガは、長旅の疲れを微塵も見せず、相変わらずの隙のない身のこなしでエルゼの前に立った。彼は護衛も連れず、ただ一人の実務家として、この場に及んでいる。
「……お久しぶりです、エルゼ様。……我が国の強硬派が、あなたの計算を無視して暴走した件、心よりお詫び……は致しません。彼らが勝手に自滅してくれたおかげで、ようやく我が国の『不要在庫』が整理できそうですから」
アルベルトはそう言うと、エルゼの挑発を待つこともなく、一冊の分厚い革綴じの帳簿をテーブルに置いた。
「……これは?」
「我が国の主戦派貴族、および今回の関税引き上げに加担した商会、全二十八組織の『負債および隠し資産リスト』です。……併せて、ヴォルガ帝國全域における我が直轄領の『鉄道敷設権』と『通行税の永久免除権』を、この場で提示します」
エルゼは無言でリストを手に取り、高速で頁をめくった。眼鏡の奥の瞳が、黄金の数字を走査する鑑定機のように光る。
「……なるほど。……負債は膨大ですが、没収できる資産(不動産・魔石貯蔵量)を差し引けば、三カ月で黒字化可能な『不良債権』ですね。……アルベルト殿下。私に、この泥船(隣国)の経営代行をしろと?」
「正確には、『経営統合』です。……我が国はもはや、古い貴族の制度では維持できない。……エルゼ様、あなたの『数字による支配』を我が国にも導入していただきたい。……報酬は、私が生涯をかけて積み上げる、この国の『純利益』の三割。……いかがですか?」
アルベルトの提案は、皇子としてのプライドを捨てた、極めて冷徹な「売却」の申し出だった。
エルゼはしばらく沈黙を守り、隅の方で必死に会話の内容をノートに書き留めている生徒のテオを一瞥した。
「……テオ。今の提案、我が商会にとってのリスクを述べなさい」
「は、はい! ……隣国の汚職貴族による、実務への『ノイズ(抵抗)』です。……彼らを排除するコストが、見込み利益を上回る可能性があります!」
「及第点です。……ですから、アルベルト殿下。条件がありますわ。……貴国を我が商会の『海外支店』として組み込む際、監査役として私の手足(令嬢同盟)を全権委任で送り込みます。……彼女たちの決定は、あなたの皇権よりも優先される。……これを承認できますか?」
「……望むところだ。……無能な身内を抱えるより、有能な監査役に首を絞められる方が、生存確率は高い。……契約成立だ、総裁」
アルベルトは迷いなく、エルゼが差し出した魔導契約書にサインを記した。
一国の皇子が、隣国の商会に自国の命運を売り渡す。
その光景は、もはや「外交」ではなく、巨大な「合併(M&A)」の瞬間であった。
「……ルナ。隣国へ出向しているクロエたちに伝達を。……『在庫整理の第二フェーズ』開始です。……隣国の汚職貴族の屋敷から、一ガルドの金貨、一枚の銀のスプーンに至るまで、徹底的に『回収』しなさい」
「……承知いたしました! ……皆様に、すぐにお伝えします!」
給仕見習いのルナが、初めて「仕事」の重みを感じたような真剣な表情で走り去っていく。
エルゼは残ったアルベルトに、ようやく「適正温度」になった紅茶を一杯、勧めた。
「……アルベルト殿下。……泥船を売却した決断、投資家としては評価してあげますわ。……これから、忙しくなりますわよ?」
「……ええ。……あなたの厳しい経営指導、期待しておりますよ、エルゼ様」
二人の実務家は、夜の帳が下りる王都を見下ろしながら、音もなくグラス(紅茶)を合わせた。
国家買収の先にある、世界市場の掌握。
エルゼ・ド・ヴァレンティーヌの「数字」が、ついに国境という概念を地図から消し去ろうとしていた。
ーーー
ヴォルガ帝國への帰路、揺れる馬車の中。
アルベルトは一人、エルゼと交わした契約書の写しを、月光の下で眺めていた。
彼の表情からは、先ほどまでの交渉人としての緊張が消え、一人の男としての静かな「休息」の色が混じっている。
「……ふっ。……関税で攻めたつもりが、自国の全権を預ける羽目になるとは。……我が父上(国王)がこれを知れば、泡を吹いて倒れるだろうな」
アルベルトは、誰にも見せることのない不敵な、そして清々しい微笑を浮かべた。
彼は用意していた、自ら厳選した最高級の豆で淹れた水出しコーヒーを口に含み、その完璧な苦味を堪能する。
「……だが、これでいい。……ようやくこの国から、『不採算なゴミ(汚職)』が消える。……エルゼ様の事務的な『掃除』、隣国でも存分に振るっていただこう。……私はその間に、彼女の隣に立っても『恥ずかしくない資産』を蓄えさせてもらうよ」
彼はコーヒーカップを置き、静かに目を閉じる。
敗北を認めるのではなく、最強のビジネスパートナーを得たことを確信した、実務家としてのストイックな祝杯。
彼の休日は、次なる「統合」に向けた、脳内の不純物を整理するための、短くも贅沢な『セルフ・メンテナンス』の時間であった。




