第13話:『贅沢品』を『必需品』へ。――ミラの市場操作と、隣国貴族の飢餓感
王立更生・復興総商会、物流管理センター。
そこは、かつて王族が気まぐれに狩猟を楽しんでいた森の跡地に建てられた、巨大な魔導倉庫と集積場が連なる新時代の心臓部である。四方から集まる騎士団の「爆速デリバリー」の報告書が、絶え間なく鳴り響く魔導通信機の音と共に積み上がっていく。
「……総裁。隣国三ヶ国連合への、本日の定期便の出荷準備が完了しました。……ですが、関税三〇〇パーセントの適用により、こちらの利益率は事実上のマイナスとなります」
給仕見習いのルナが、震える手でエルゼに最終の出荷リストを差し出した。彼女はまだ複雑な経済理論は理解できていないが、赤字という言葉の恐ろしさだけは、エルゼの厳しい視線から学んでいた。
「ルナ。……そのリストを、今すぐシュレッダーにかけなさい」
「え……ええっ!? 全量を、ですか!?」
「ええ。……本日午前十時をもちまして、ヴォルガ帝國を含む近隣連合への『全輸出品』――パン、酒、香料、および魔導製品の供給を、無期限で停止します。……全在庫は国内の備蓄庫へ回しなさい」
エルゼの断言に、傍らにいた執行役員ミラが、驚きで金の装飾がついた扇子を落とした。
「ちょ、ちょっと待ちなよエルゼ! 関税が重いのは分かるけど、供給を止めたら、あたしのギルドの売上まで丸焦げだよ! これは一時的な損失じゃ済まないよ!」
「ミラ執行役員。……これは『損失』ではなく、商品価値を極大化させるための『在庫調整』です。……いいですか、皆様。人間という生き物は、手に入らないものほど、その価値を過大評価する習性があります。……現在、彼らにとって我が国の産品は『贅沢品』ですが……一週間後、それは『生存に不可欠な必需品』へと昇格しますわ」
エルゼの眼鏡が、冷徹な青い光を宿した。
ルナは主の指示通り、隣国向けの荷札に事務的な『出荷禁止』のスタンプを、一押しごとに魂を込めるようにして叩き込んでいった。
三日後。隣国ヴォルガ帝國の首都、夜会の広間。
そこには、これまで見たこともないような陰鬱な空気が漂っていた。
「……何ですの、このパンは!? パサパサして、石鹸を食べているようですわ! レガリアの、あの魔導オーブンで焼いた『黄金のパン』はどこに行ったの!?」
最高級のドレスを纏った侯爵夫人が、皿の上の黒パンを指差して叫んだ。
これまで当たり前のように並んでいた、レガリア産の香り高い酒、鼻腔をくすぐる神秘的な香料、そして何より、冷めても美味しい魔法のパン。それらが市場から完全に消え去ったのである。
「関税のせいよ! 無能な主戦派の男たちが、エルゼ総裁を怒らせたせいで、私たちの優雅な生活が奪われたのよ!」
ミラの裏工作……すなわち、隣国の裏ギルドを介した「真実(毒)の流布」は、驚異的な速度で社交界を侵食していた。不満の矛先はレガリアではなく、自分たちの生活を不自由にした自国の強硬派貴族へと向かったのである。
その混乱の最中、隣国の関税強行を主導した大臣の屋敷は、
「パンを返せ!」「香料を売れ!」などと書かれたプラカード(高級な絹の端切れ)を持った貴婦人会と、商品を失った商人たちに包囲されていた。
「……ふむ。隣国の暴動発生率が、予測値より三パーセント高いですね。……テオ。この理由を述べなさい」
総裁室。エルゼは、未来開発院の生徒であるテオが提出した『隣国耐乏限界予測』のレポートを添削していた。
「はい、エルゼ様! ……おそらく、隣国の国民が、想像以上に『レガリア産』の品質に依存していたためです。……一度覚えた便利さを手放す苦痛は、単純な金銭的損失よりも精神的なストレスが高い……と推測しました」
「……及第点です。……ルナ、次の使節を中へ」
エルゼの合図で、扉が開いた。そこにいたのは、三日前の威圧感など微塵も残っていない、窶れ(やつれ)果てた隣国の全権大使だった。
「ヴ、ヴァレンティーヌ総裁……! 言い値で買う! 金はいくらでも積む! だから、あのパンと酒を、今すぐ我が国に流してくれ! このままでは、家内のヒステリーで私の心臓が止まってしまう!」
「おやおや、三百パーセントの関税を払ってまで我が国を助けてくださるとは、随分と奇特な提案ですね」
「そ、それは……! 関税は即刻、完全撤廃する! だから、頼む!」
「……撤廃だけでは足りません。……これまでの供給停止による在庫保管料、および機会損失の補填として、貴国の『中央街道の優先通行権』を我が商会に無期限で譲渡しなさい。……嫌なら、今夜の夕食も石鹸のようなパンで我慢することですわ」
エルゼの無慈悲な追撃に、大使は真っ白な灰のように項垂れ、震える手で契約書にサインした。
ルナは、隣でその光景を食い入るように見つめていた。一国の代表が、たった一つの『パンの味』に屈服する瞬間を。
「……ルナ。これが『需要と供給の支配』です。……武力を使わずとも、相手の胃袋とプライドを数字で管理すれば、世界は勝手にひざまずきます」
「……は、はい! 一生、勉強させていただきます、総裁!」
エルゼはルナの淹れた、ようやく適正温度になったハーブティーを一口啜り、窓の外を眺めた。
物流は再開され、再び騎士たちが隣国へと駆け出していく。
その光景は、もはや「輸出」ではなく、隣国の首輪を締め上げる「鎖」の強化に他ならなかった。
ーーー
休日の午後。王都の喧騒を離れた『未来開発院』の図書室。
そこには、執行役員のミラが、宝石のついた派手な指輪を外して、生徒のテオと向き合っていた。
「よお、テオ。まだそんなボロい計算尺を使ってるのかい? あたしのギルドじゃ、そんなの焚き付けにもならないよ」
ミラはそう言って、内緒で持ち込んだ大量の高級菓子と、テレーザに作らせた最新の計算用魔導具を机にドンと置いた。
「ミラさん、ありがとうございます。……でも、これを受け取る『対価』は何ですか? エルゼ様が、無償の贈与は負債と同じだと仰っていました」
「へっ、あいつの教育は極端だねぇ。……いいかい、これは投資だよ。……将来、あんたがエルゼの隣で金勘定をするようになったら、あたしのギルドに有利な案件を一つ回しな。……これは、そのための『先行投資』さ」
ミラはテオの頭を乱暴に、だが温かくガシガシと撫で回した。
「……あんた、いい目をしてるよ。……エルゼに似て、数字に貪欲だ。……さっさと成長して、あたしたちを楽にさせておくれよ」
ミラが差し出した「対価」を、テオは真剣な眼差しで見つめ、深く頷いた。
金の亡者が蒔いた種は、不器用な慈愛という肥料を得て、着実に芽吹こうとしていた。




