第1話:婚約破棄? あ、ちょうど良かったです。今この国を買い叩いたところですので、元王子(粗大ゴミ)はドブ掃除に回ってくださいね?
「エルゼ・ド・ヴァレンティーヌ! 貴様のような冷酷で可愛げのない女との婚約を、私は今この瞬間をもって破棄するッ!」
グラン・レガリア王国の王宮大広間。
きらびやかなシャンデリアの下、カイル・レガリア第一王子が、朗々とその声を響かせた。
彼の隣には、桃色のふわふわとしたドレスを纏った男爵令嬢、リリアーヌがしがみついている。彼女は潤んだ瞳でエルゼを睨みつけ、王子の腕にさらに力を込めた。
「……」
対する公爵令嬢エルゼは、感情の欠片も見当たらない無表情のまま、スッと右手の懐中時計に目を落とした。
「……3分15秒」
「あ? 何の話だ!」
「王子の『婚約破棄宣言』の予定時刻ですよ。私の計算では20時ちょうどに叫ぶはずでしたが、3分15秒も早い。せっかちな男はベッドの上だけにしてください。非常に不愉快です」
「き、貴様ぁッ! この期に及んで何を……!」
カイル王子が顔を真っ赤にして叫ぶ。会場の貴族たちは、あまりのエルゼの堂々とした態度に、ヒソヒソと囁き声を漏らした。
しかし、エルゼの「事務作業」はすでに始まっていた。
「さて、カイル様。婚約破棄のご提案、謹んで……いえ、喜んでお受けいたします。婚約解消の手続きについては、こちらの書類にサインを。あ、印鑑は実印でお願いしますね。シャチハタは認めません」
「ふん、潔いな! どうせ泣いて縋ると思っていたが、貴様も自分がリリアーヌをいじめた罪を自覚しているようだな!」
カイル王子が勝ち誇ったように笑う。リリアーヌも「おーほっほっほ!」と下品な高笑いを上げた。
だが、エルゼはパチン、と指を鳴らす。
「いじめ? 心外ですね。私はただ、彼女が王宮の備品である高級ワインを勝手に持ち出そうとしたのを、物理的に阻止しただけです。……シグリッド騎士団長、例のものを」
広間の隅から、カツン、カツンと硬質な足音が響く。
現れたのは、現騎士団長シグリッド・アイアンサイド。彼女は家柄重視の旧体制に反旗を翻し、エルゼに忠誠を誓った「鉄の女」だ。
「はっ。こちら、リリアーヌ男爵令嬢による備品窃盗、およびカイル王子による『魔物討伐予算』の横領証拠一覧です」
「な、何だと……!?」
シグリッドが突きつけたのは、山のような領収書と、偽造された報告書の束だった。
カイル王子の顔から、サァァッと血の気が引いていく。
「おかしいですねぇ、王子。先月のワイバーン討伐、実際には一匹も倒していないのに、報奨金として金貨5000枚があなたの個人口座に振り込まれています。そのお金、そこの『桃色の塊』とのデート代に消えましたよね?」
「そ、それは……!」
「さらに魔術師団長、テレーザ様。鑑定をお願いします」
空中に、ホログラムのような魔術映像が浮かび上がる。
現れたのは、魔術師団長テレーザ。彼女は眠たげな目を擦りながら、カイルの懐にある「石」を指差した。
「王子が持ってるそれ……記憶改竄の魔導具だね。エルゼ様に冤罪をなすりつけるために、周囲の記憶を書き換えようとしてた痕跡、バッチリ残ってるよ。……あーあ、禁忌魔術の使用。これ、死刑じゃないけど、魔力回路の強制封印対象だね」
「ひ、ひぃぃっ!」
カイルはガタガタと震え出した。
エルゼは冷徹な眼差しで、今度は玉座に座る国王オーギュスト六世に向き直る。
「陛下。……いえ、オーギュストさん。この国、もう実質的に倒産してますよね?」
「な、何を不敬な……!」
「強がらないでください。王家の金庫は空っぽ、外債は膨れ上がり、昨日の夕食の肉もツケ払いだったじゃないですか。……ミラ様、現在の王家の負債額を」
冒険者ギルドのギルドマスター、ミラが不敵な笑みを浮かべて前に出た。
「はいよ。利子込みで金貨8億枚。今のこの国の税収じゃ、100年かかっても返せないね。あ、ちなみにその債権、すべてエルゼ様が買い取ったよ。つまり、今この国のオーナーはエルゼ様ってわけ」
静まり返る会場。
国王は泡を吹いて倒れそうになり、カイル王子は腰を抜かして床にへたり込んだ。
「というわけで、陛下。提案です。この国の全権を私に譲渡してください。そうすれば、借金は私が帳消しにし、あなたの最低限の生活……お茶汲み程度の生活費は保証しましょう。嫌なら今すぐ、この国をヴォルガ帝國に競売にかけますが?」
「ま、待て! わかった、わかったから! 何でもする、サインもする! だから命だけは、命だけは助けてくれぇーッ!」
国王が泣きながら、エルゼが差し出した「国家譲渡契約書」にサインする。
その瞬間、グラン・レガリア王国は、一人の「悪役令嬢」の私有財産となった。
「はい、お買い上げありがとうございました。毎度あり」
エルゼは事務的に契約書をルナ(秘書)に渡すと、冷たい目でカイルとリリアーヌを見た。
「さて、元王子。あなたは今日から無職、かつ重犯罪者です。ですが、私は慈悲深い。労働の喜びを教えてあげましょう」
「な、何をさせる気だ……!」
「王都の地下下水道、最近詰まりが酷くて困っていたんです。そこにあるヘドロを、素手ですべて掻き出してください。あ、制服はこのボロ布です。給料は日給、パン1個分。残りはすべて賠償金に充当します」
「そ、そんな! 僕は王子だぞ! リリアーヌ、助けてくれ! 君との愛があれば、僕は……!」
カイルがリリアーヌの足にしがみつく。
しかし、リリアーヌの反応は速かった。
「……は? 誰ですかおじさん」
「えっ」
「私、お金のない男には興味ないの。エルゼ様! 私、騙されてたんです! この男に脅されて、仕方なく婚約破棄の片棒を担がされたんですぅ!」
リリアーヌはカイルの顔を思い切り踏みつけると、エルゼに向かって深々と頭を下げた。
だが、エルゼの眼鏡の奥の瞳は、これっぽっちも笑っていない。
「あら、協力的な態度ですね。では、リリアーヌさん。あなたにはカイルさんの『監視役』を命じます。一緒に下水道に入り、彼がサボらないように鞭を振るってください。給料はカイルさんのパンを半分分ける形でどうでしょう?」
「えっ、嫌です! 汚いし臭いし……!」
「拒否権はありません。それとも、窃盗罪で今すぐ監獄(独房・食事なし)に行きますか?」
「い、行きます! 下水道、行かせていただきますわぁー!」
こうして、かつての王子と、その愛人(仮)は、騎士たちに引きずられて夜会の場を後にした。
引きずられながら「愛してるって言ったじゃないかー!」と叫ぶカイルの声が、虚しくホールに響き渡る。
「……ふぅ。ルナ、次の予定は?」
「はい、エルゼ様。5分後に旧貴族階級の特権廃止に関する記者会見、その10分後には魔術師団とのインフラ整備会議が入っております」
「分刻みですね。……あ、シグリッド。逃げようとしている貴族がいたら、足の骨を折っても構わないので捕まえておいてください。没収する財産のリスト、あとで照合しますから」
「御意」
エルゼは、もはや価値のなくなった玉座を一瞥もせず、颯爽と歩き出す。
彼女が通り過ぎる後には、新しい時代の、そして徹底的な「効率化」の嵐が吹き荒れようとしていた。
一方、王都の地下深く。
月明かりも届かないドブの中で、元王子カイルは、人生で初めて「自分の手で掴んだヘドロ」の感触に絶叫することになるのだが……それはまた、別の話である。




