6・差し出された契約
シリウス様は私の言葉を遮って、静かに続けた。
その声色は、私の体質を否定するわけでもなく特別視しているわけでもない。
「……そうです」
私は魔力を持たないだけではない。
どんな魔術も私には直接効果を示せない、強い魔力耐性がある珍しい体質だ。
――といえば聞こえがいいが、魔術を中心に回っているアステリエ王国ではデメリットでしかない。
魔術医療一つ、受けられないのだから。
私のこの体質を知るのは亡くなった両親と、事務官試験の面接で事情を話した魔術省のごく一部だけだ。
義両親であるバクスター夫妻も、義兄のアルフレッドでさえも知らない。彼らに知られれば、余計に風当たりが強くなるだろうことが目に見えている。
「魔術師長の妻なら、私よりももっとふさわしい方がいるはずです」
「私が、あなたがいいと思ったから。それだけです」
「……っ!?」
あまりにも率直なシリウス様の言葉に、思考も動きも固まってしまった。
そんな言葉を向けられる日が来るなんて、思ってもみなかったのだ。
シリウス様が顔色一つ変えずに言い放つものだから、余計に動揺してしまう。
この人は、どういう意味で口にしているのだろう。
「……それに、あなたにとっても悪い話ではないはずだ」
気づけば、シリウス様は私をじっと見ていた。
アンバーとライトブルーのオッドアイが、真っ直ぐに私を捉える。
「私と結婚すれば、あのバクスター家から抜け出せますよ」
「……な、んでそのこと……っ」
しれっとシリウス様から告げられた言葉に、どきりと心臓が跳ね上がった。
たった一言に動揺して、息を飲んでしまう。
(この人、どうして――!?)
私の家のことは、アリスにも、誰にも話していないはずだ。
それなのに、どうしてシリウス様の口から、うちの話が出てくるのだろう。
「少しばかり、調べさせてもらいました。あなたが働いて得たはずの給金が、どこへ使われているのか」
私は後ろめたいことなどしていないはずなのに、ぎくりとしてしまった。
それはきっと、隠して誰にも知られたくなかったことに、踏み込まれているからだ。
「前々から疑問には思っていたんですよ。魔術省は、あなたの仕事に対して適切な給料を払っているはずだ。それなのにいつまで経っても、あなたの身につけているものは変わらない」
言いながら、シリウス様の視線が私のドレスから足元へと流れていった。
ドレスも靴も、ここにはないショルダーバッグも、手入れは怠っていないつもりだ。だけれど、どれも使い古していて、色あせている。
「てっきり貯金でもしているのかと思っていたら、まさか搾取されていたとはね」
シリウス様の声色は淡々としたもので、そこには誰かを責める響きは一切ない。
ただ事実を並べ立てているだけだ。
だからこそ、逃げ場がない。
じくじくと古傷をえぐられているかのように、胸が痛む。
「このまま、あの家にいていいんですか?」
「っいいわけが、ないでしょう……!」
気が付けば、私はソファから立ち上がっていた。
「私だって……、私だって今すぐにあの家から出たいですよ……!」
声が震え、視界が滲む。
ずっと胸に押し込めていたはずの願いが、口からこぼれて止まらない。
(私、どうしてシリウス様の前で泣いているんだろう)
隠していたはずの家庭事情や劣等感を、言い当てられてしまったからか。
それとも別の理由か。
この歳になってまで人前で、それも男の人の前で泣くなんて恥ずかしい。
それなのに、涙は一向に止まる気配を見せてくれない。
「でしたら、私と契約してください。決して悪いようにはしません」
シリウス様は、懐から白いハンカチを取り出すと私の方へと差し出した。
かつての、父の葬儀の時と同じように。
「けい、やく……?」
「そう、これは契約です。あなたはただ、私と結婚してくれるだけでいい。それだけであなたは、生活の保証も、身の安全も、すべてが手に入ります」
「……」
まるで悪魔の誘いのようだ。
シリウス様の言っていることは砂糖菓子のように甘くて、現実離れしている。
「仕事を続けたければ続けても構いません。社交などは、気が向いた時にお供してくだされば結構。世継ぎは必要としていませんし、私はあなたから許可されない限りは触れません」
シリウス様は淡々とした声で続けている。
「どうです。悪い話ではないでしょう?」
(確かに、私には得しかない)
むしろこれは、私が喉から手が出るほどに欲していたきっかけだ。
あの家から抜け出すための手段。
それが今、目の前に差し出されている。
(……私があの家から出たら、あの人たちはどんな反応をするだろう)
厄介者がやっといなくなると、喜ぶのだろうか。
それとも、金づるや労働力がなくなるからと、怒るのだろうか。
(……怖い。私の存在を否定される反応が返ってくるだろうことが)
それでも今、差し出されているこの手を……ハンカチを取らなければ、私は一生あの家の奴隷だ。
(そんなのは、もっと嫌だ)
「……わかりました」
震えを押さえ、小さい声でどうにか答える。
不安も恐怖も、なくなったわけではない。
それでも私は、前に進むと決めた。
「私でよければ、よろしくお願いします」
決意を固めてシリウス様からハンカチを受け取る。
シリウス様がほんの少し、口元を緩めた気配がした。
こうして、私とシリウス様の奇妙な契約結婚が、始まったのである。




