【1】逃避と安息:ふたりきりの隠れ家
木々の間を縫って、馬が疾走する。
私はクラリス副団長の腕の中にいた。銀の鎧越しに伝わる体温が、不思議なほど心を落ち着かせてくれる。さっきまでぐちゃぐちゃだった心の中が、今はこの揺れに身を任せていたい――そんな自分に、戸惑いを覚えていた。
風が頬を打つ。夕陽が斜めから差し込む森を抜け、小高い丘を越えると、やがて林の奥にぽつんと佇む小屋が姿を現す。
「ここが……隠れ家、ですか?」
「しばらく使っていないけど、安全だ。王宮の地図には載っていない」
私は馬から降ろされ、足元に力が入らず、ぐらりとよろめいた。クラリスが即座に私の身体を支える。
「……ごめんなさい」
「気にしないで。動揺するのは当然だ」
彼女の声は穏やかでまっすぐで、それがまた私の心をやさしく乱す。
小屋の中は簡素だったが、整っていた。石造りの暖炉、木製の机と椅子、それに折りたたみ式の寝台がひとつ。クラリスが火を入れ、ランタンを灯すと、ほんのりと暖かい空気が部屋に満ちた。
「着替えがある。濡れてると冷える」
彼女が毛布を差し出し、棚から手当て道具を取り出す。走っている間に腕を擦りむいていたようで、私が気づかないうちに、クラリスはすでに包帯を巻いてくれていた。
「……ありがとうございました、クラリス副団長」
やっと、それだけが声になった。
クラリスは何も言わずに、私の手をそっと離し、小さく微笑んだ。
「“副団長”って呼ばれると、ちょっと距離を感じる」
「え、あ……ごめんなさい……!」
「クラリスでいい。昔、貴女がそう呼んでくれたように」
私は一瞬、息を飲んだ。
――昔?
クラリスは椅子に腰を下ろし、少しの沈黙のあと、ぽつりと語り始めた。
「私がまだ訓練生だった頃のこと。王城の外れで、野犬に囲まれたことがあった」
「え……?」
「相手は3匹。剣は持っていたけど、身体はまだ小さくて、手も足も震えてて……本当に、怖かった」
遠くを見るような目で、彼女は続けた。
「そのとき、小さな女の子が飛び出してきた。手に持っていたのは木の棒一本。でも、その子は私をかばうように前に立って、大声を上げて、必死で棒を振り回した」
――それは、私だ。
あのときの光景が、はっきりとよみがえる。
泣きそうな顔をしていた騎士見習いの少女を、私は見過ごすことができなかった。怖かった。でも、放っておけなかった。
「すぐに衛兵が駆けつけてくれて助かったけど……私にとっては、その子の姿が、何よりも誇りだった」
クラリスの声が、わずかに震えていた。
「その日から、私は変わった。自分が強くなれるなんて思っていなかった。でも、“あの子のようになりたい”って、心から思った」
私は、言葉を失った。
私のあの一瞬が、クラリスを作ったの……?
「稽古にも本気で取り組むようになった。試験にも、挑戦できるようになった。そして……副団長まで来ることができた」
彼女は、私の目をまっすぐに見つめる。
「全部、あのときの貴女のおかげ。……ありがとう、リセル」
心臓の鼓動が、耳の中で暴れていた。
恥ずかしくて、信じられなくて、でも嬉しくて――なにも言葉が出てこない。
「そ、そんな……私なんて……副団長がすごいだけで……私は、ただ……」
「すごいなんて、自分で思ったことはないよ。でも私は、ずっと貴女に会いたかった」
小屋の中に、ぱちぱちと薪の音だけが響く。
クラリスの視線が、私の心をそっと射抜いた。
「王宮で再会したとき、本当はすぐに声をかけたかった。でも……どんな顔をすればいいかわからなかった。遠くから見ているだけでいい、って、そう思ってた」
私は、自分の両手を見つめた。震えていた。
「でも今日、貴女が傷つけられるのを見て……もう黙って見てるなんて、できなかった」
「……クラリス……さん」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「最初は、恩義だけだった。命を救われた感謝の気持ち……でも、今は違う」
クラリスが一歩、私に近づく。私の鼓動が跳ね上がる。
「貴女に抱いている想いは、恩以上のものだよ」
頭の中が真っ白になった。理解が追いつかない。でも、彼女の目がまっすぐ私を見つめていて……その想いが本物だと、なぜかわかってしまった。
言葉が、出ない。
私は、胸に両手を当てることしかできなかった。
これは、なんの震え?
これは、なんの涙?
これは、なんの想い?
でも――
私は、今、泣きそうになるほど嬉しいんだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
クラリスが心に秘めていた“ある過去”と“想い”が、リセルに語られる章でした。
あの小さな勇気が、いつか誰かの人生を変えていた――そんな小さな灯のようなエピソードです。
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本作は全8話、毎日19時に投稿予定です。
次回はいよいよ、陰謀の真相と仲間たちとの再会――「真相への追及」編に入ります。
明日もお会いできれば嬉しいです!