図書室と雨音と、秘密の誓い
——十年前。王立魔法学園。
木造の回廊に魔力の輝きが浮かび、朝露のように透明な光が差し込む教室の中。
私は、いつものように真っすぐ座っていた。
制服の襟元を整え、筆記具の先端を揃え、教本を完璧な角度で開いて——。
これが“当然”だった。校則も時間もすべてを正しく守ることが、私——ミレイユ・コルテナの美学だったから。
けれど、隣の席には。
「……ああ、やっちゃった」
ぽん、と軽い音を立てて、練習用の魔法陣が焦げた羊皮紙ごと灰になって消える。
「ザビーネ・ルヴァン!」
私は立ち上がって叫んでいた。
「またあなた!? 何度目だと思ってるの、魔法実演中の即興使用は禁止だって——!」
それでも、彼女は悪びれる様子もなくにこりと笑った。
「でも見て。爆発の規模、昨日よりは小さかったでしょ?」
紫がかった銀の髪がふわりと揺れて、いたずらっぽい目が細められる。
ああもう、腹が立つ。その余裕そうな笑顔さえも、妙に整っていて、余計に腹が立つ。
ザビーネ・ルヴァン。
学園内でも有名な“天才肌”。理論や手順をすっ飛ばし、魔力だけで結果を叩き出すような問題児。
教師たちからも一目置かれ——いや、ある意味「手がつけられない」と恐れられていた。
そして、私は——彼女とは正反対の位置にいた。
「ザビーネ、ミレイユ」
教師が、ふたりの名前を呼び、ため息をつく。
「またですか。ミレイユ、あなたの言い分は理解できます。だが、今回は……あなたの声量と語気が、授業進行を妨げたと判断します」
「っ……!」
「よって、ふたりとも罰則です。今後一ヶ月間、放課後は図書室で目録整理。以上」
「えっ、ちょっと待って!それって、私も罰なんですか!?」
「規律を守る者も、冷静さを失っては意味がありません。ふたり一緒に反省する機会と捉えてください」
私は怒りと困惑で頬を膨らませたまま、隣のザビーネをにらんだ。
——なのに、彼女はただ、楽しそうに肩をすくめるだけだった。
くやしい。でも、くやしさの中に少しだけ滲んでいたのは——
あの余裕。あの気ままで、縛られない在り方を、ほんの少しだけ、羨ましく思ってしまったからなのかもしれない。
⸻⸻⸻
罰則として始まった図書室での目録整理。
最初の数日は、まさに“地獄”だった。
私は黙々と整理台帳と蔵書を照合し、巻物を整え、埃を払い、日報をきちんとまとめていた。一方のザビーネはというと、
「んー、この本、たぶん呪詛系だよね。こっち? いや、ま、どっちでも」
まったく反省の色がない。私が一冊確認する間に、彼女は十冊、しかしラベルも配置もぐちゃぐちゃ。
「やめて、もう触らないで!どうしてあなたは何もかも適当なのよ!」
「真面目すぎるのが、ミレイユの悪いところだよ」
「あなたはふざけすぎなのよ!」
ため息と怒鳴り声で、図書室の空気はいつもどこかピリピリしていた。
けれど、ある日のこと。
埃をかぶった古い魔導書を二人で同時に手に取った時——
「あっ」
「これ……古代呪式の基礎論……!」
驚いたことに、ザビーネも目を輝かせていた。
「……この図形、私の使ってる陣と似てるんだよ。古代のエネルギー配分、すっごく効率いいんだよね」
「知ってる。だから、私は基礎から研究してた……のよ」
それからだった。口論は減らないけれど、話す内容が変わった。
「でもさ、これ本当に“祝詞”として機能するのかな?文法、崩れてるっぽいけど」
「そこが逆に、意図的な変化なのよ。エルディア語では、敢えて語尾を歪めて感応させるの」
最初は喧嘩腰だった会話が、だんだんと討論になり、やがて会話へと変わっていく。
古い木の机に並ぶ巻物の山。
黄ばんだ紙の匂い。
雨の音が、窓の外で囁くように続いている。
私はその隣で、静かにページを繰る彼女の横顔を見た。
紫がかった銀の髪はやや乱れていたけれど、それが妙に柔らかく見えて、私は何度か視線を逸らした。灯りの下で瞳が少し揺れて、文字を追う彼女の表情には、ふだんの飄々とした笑みがなく、ひたむきな熱が宿っていた。
——いつのまに、こんな目をするようになったんだろう。
気づけば私は、ザビーネの存在を気にしてばかりいた。
「君さ、ほんとに古臭い魔法好きだよね」
「あなたもでしょ」
「まさか。私はミレイユが好きなんだよ」
「っ……な、なにを……っ」
「ふふ、本気か冗談か、どっちだと思う?」
その時の彼女の声は、からかいの軽さよりも、なにか柔らかく、甘やかだった。
私は言葉に詰まり、頬を赤らめるしかなかった。
——数日が経ったある日。
魔法参考書の山から、一冊の古びた魔導書を取り出した。
背表紙はすり切れ、分類ラベルも失われている。
私は指先でそっと表紙をなぞりながら、ザビーネに尋ねた。
「……これ、どうするの? あまりに状態が悪いし、分類もできないわ」
「破棄かな……と思うでしょ?」
ザビーネがにやりと笑う。
「でも、学園外の自習所とか、地方の魔導塾とかなら、欲しがるところもあるんだよ。寄付って形で譲渡できるよ、許可さえ取れれば」
「……じゃあ、そういうところに」
「うん。でも、こういう本、まだ読んでないでしょ?」
私はハッと息を呑んだ。たしかに、捨てる前提で誰も触れていなかったこの本には、まだ誰も目を通していなかった。
「誰かに譲るにしても、一度、私たちでちゃんと向き合ってからにしない?」
そう言って、ザビーネはその本を手に取り、抱きしめるように胸元で包み込んだ。
「そうだ。だったらさ――」
彼女の目が、ふいに子どものような光を宿す。
「じゃあ、ふたりで“秘密の魔法図書室”を作るってことで」
「……ふざけないで」
「ふざけてないよ。私は本気。分類されない知識たちを、こうして一時でも大事に扱える場所。君と一緒にね」
私の手の中に残る古い本。その焼けたような表紙の感触が、妙に熱を持って感じられた。
「それって……」
「放課後、誰にも邪魔されない時間を、君と一緒に過ごす場所。知識も、想いも、共有できる図書室。そういうの、嫌?」
彼女の声は柔らかく、でもどこまでも真剣だった。
私は、目を逸らしながらも、小さく呟いた。
「……少しだけなら、付き合ってあげてもいいわ」
そのときの彼女の笑顔が、眩しくて、胸が苦しくなるほどだった。
⸻⸻⸻
その夜は、季節外れの嵐だった。
分厚い雨雲が学園の空を覆い、空が裂けるような雷鳴が、図書室の天窓をびりびりと震わせた。
私は机に肘をつきながら、震える指でページをめくっていた。
魔導書の文字が揺れて見えるのは、ろうそくのせいだろうか。それとも、自分の不安のせいなのか。
「……平気?」
不意に、静かな声がした。
視線を上げると、ザビーネがこちらを見ていた。読書灯の明かりに照らされて、紫がかった銀の髪がさらさらと揺れている。
「べ、別に。音が大きかっただけよ」
声が震えた。ごまかそうとしても、自分でもわかるくらい、ひどく頼りない。
ザビーネはため息をひとつ吐くと、手元のクッションを持ってきて、床に敷き、自分の膝をぽんと叩いた。
「……なに、それ」
「おいで」
「ふざけないで。そんなこと、するわけ——」
「怖いときくらい、誰かに頼ってもいいんだよ」
雷が再び轟いた。
その一撃で、私の中の何かが決壊したのかもしれない。
気がつけば私は、彼女の膝の上にいた。
しん、と静かな図書室。唯一響いているのは、雨の音と、ふたり分の呼吸と心音。
ザビーネの腕が、そっと私の背中を撫でるように回る。ぎゅっとではなく、優しく包み込むように。
その仕草に、私はどこか安心して、彼女の胸に身を預けた。
「ねえ、ミレイユ」
彼女が私の耳元に唇を寄せて囁く。
「ほんとはずっと、こうしたかった」
背筋がぞわりと震えた。
「あなたって人は……本当に、どうしてそう……」
言葉が続かなかった。
だって、その指先が私の髪をすくい、頬をなぞり、顎先をそっと持ち上げたから。
目が合った。光の中で揺れる瞳。あのふざけた笑顔じゃない、真剣な、何かを告げるような顔。
「……キス、してもいい?」
返事をする前に、私は目を閉じていた。
その柔らかな唇が触れた瞬間、世界が音を失った。
何も考えられなかった。ただ、彼女の温もりと、心臓の高鳴りと、唇の熱と、息づかいだけが私を満たした。
ゆっくりと、深く、もう一度キスが落とされた。
体の奥が、熱くなる。
私は抗わなかった。むしろ、彼女の首に腕を回していた。
——ああ、これは。
「……何よ、これ」
「さあ。たぶん、“災難”じゃない?」
私は黙って、彼女の胸に額を押し当てた。ザビーネは笑って、私の髪にそっとキスを落とした。
その夜、私たちの関係は、確かに変わった。
翌日からも、私たちは図書室で顔を合わせた。変わらず巻物を分類し、討論を交わし、たまに喧嘩もした。
けれど——
ふとした瞬間に触れる手のぬくもり。
視線が絡んだときの、胸のざわめき。
“秘密の図書室”は、ただの学園の罰則処ではなくなっていた。
それは、ふたりだけが知る、ふたりだけの秘密。
静かに、確かに育っていた。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
“秘密の図書室”で芽吹いた、ミレイユとザビーネの過去。
この夜の出来事が、ふたりの未来を変える最初の転機でした。
スピンオフではありますが、本作単体でも完結までお楽しみいただけます。
完結済・毎日19時更新予定ですので、続きもどうぞよろしくお願いいたします!
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