手のひらの温度
朝の王宮は静かで、冷たかった。
石畳の上を歩くたびに、靴音がわずかに響く。その音が、この静寂を汚してしまったようで、私は思わず心の中で「ごめんなさい」とつぶやいた。
誰にも気づかれず、波紋ひとつ立てずに働くこと。それが、女官見習いとしてこの場所で生き残る術だった。私は、その技をそれなりに心得ているつもりだった。
――ううん、“そのはず”だった。
「リセル、そっちの花はもう少し下げて。主役はカミラ様なのよ?」
「あっ、はい。すみません……」
無意識に指示に従いながら、私は白い花のアレンジメントを少しだけ下にずらした。
明日開かれる「王妃候補の親睦茶会」の準備中だ。王子が主催し、有力な令嬢たちが勢ぞろいする、王宮でも指折りの格式高い社交の場。見習いの私が呼ばれたのは、単なる人数合わせ――つまり、雑用係。
けれど、それでも構わなかった。誰かに呼ばれ、必要とされること。それだけで、ほんの少しだけ救われるような気がしたのだ。
花を抱えて歩いていたとき、廊下の先から硬い靴音が近づいてくるのが聞こえた。その瞬間、女官たちの動きがぴたりと止まり、空気が張り詰める。
銀の鎧をまとった一人の騎士が現れる。
副団長――クラリス・ヴァン・ルーデンドルフ。
背が高く、しなやかで無駄のない動き。鍛え上げられた体を包む鎧には王国の紋章が輝き、肩当てには深紅のラインが走っていた。切れ長の瞳は澄んだ青。涼しげで、それは冷たさではなく、静謐そのものだった。
あまり人と話さず、命令には黙って従い、剣の腕は騎士団の中でも三本の指に入ると言われている。
女官たちはみな、彼女に密かに憧れを抱いていた。口にすることはなくとも、彼女が通りすぎるだけで、空気が変わる。息を呑み、目を逸らす。――その理由を、私は知っている。
私がまだ女官見習いになったばかりの頃。誰にも相手にされず、陰で雑用を押しつけられていた。立ち回りもうまくできず、相談する相手もいなかった私は、誰にも見つからぬ物陰で、ひとり、声を殺して泣いていた。
そんなときだった。
ふいに、白いハンカチが目の前に差し出された。
「……え?」
顔を上げると、そこにはクラリス副団長が立っていた。
言葉はなかった。ただ、無言のままハンカチを差し出し、彼女は何も言わずに去っていった。
そのとき、私の頬に触れた手のひらの温度を、私は今でもはっきりと覚えている。
それ以来、私は彼女に憧れるようになった。ただ胸の奥に、ひっそりと。誰にも、もちろん本人にも、知られないように。
――だから、まさかあの日からほんの数日後に、私が“あの人の腕の中”で王宮を逃げ出すことになるなんて、夢にも思っていなかった。
* * *
「王妃候補に毒を盛るとは、前代未聞だ! どう責任を取るつもりだ、リセル・アルヴェーン!」
広間に王子ユリウスの怒声が響く。私は床に膝をつき、ただ俯いたまま、事態を理解できずにいた。
毒など知らない。ティーセットの準備をしたのは確かに私だけれど、そんなもの、入れた覚えはない。
だが、証拠はあった。私の荷物から見つかった毒草の粉――誰が、どうやって仕込んだのかもわからない。
周囲の視線が、責めるように私を突き刺す。カミラ令嬢は胸に手を当て、よろめくような芝居がかった動きで、誰かの腕にすがろうとしていた。
「お前のような者を宮廷に置いてはおけん。衛兵、連れて行け!」
剣の音ががちゃりと鳴る。二人の衛兵が、私に向かって乱暴に歩み寄ってきた。
――そのとき。
「待ってください」
冷たい風が吹き抜けたように、空気が一変した。
銀の鎧がゆっくりと人垣を割って現れる。
「クラリス副団長……?」
「この者を処罰する前に、調べるべきです。彼女はそんなことをする人間ではありません」
低く澄んだ声が、広間の隅々まで響く。その言葉に、私の視界が揺れた。
「副団長、それは王子への反逆とみなされかねません」
「それでも私は、事実を捻じ曲げてまで処罰に加担することはできません」
「……ならば、その者を渡さぬというのか? 騎士の資格を剥奪されても?」
「――断ります」
静かに放たれたその一言に、ざわめきが広がった。衛兵の一人が剣を抜き、副団長へと向かう――
だが、速かった。
クラリス副団長の剣が一閃。刃は抜かれておらず、ただ柄で衛兵の腕を打ち払い、膝を折らせ、もう一人も素早く背後に回って制圧する。
流れるような動き。誰も、彼女に触れることすらできない。
「リセル、こちらへ」
気づけば私は、彼女の腕の中にいた。軽やかに、けれど決して落とさないと誓うような強さで、私を抱き上げていた。
「ま、待って、これって、え? えええ?」
頭の中が真っ白になる。周囲の怒号も、追撃の声も遠ざかっていく。出口が見える。世界が動いていく。
でも、それ以上に――
私は、クラリス副団長の肩に触れている。そのことが、どうしようもなく心をかき乱した。
こんな最悪な状況なのに。冤罪で人生が壊されかけているのに。
なのに、私は――
彼女に触れていることが、いちばん嬉しいなんて。
その事実に気づいて、私は頭を抱えたくなるほど混乱していた。
「落ち着いて、大丈夫。私が貴女を守る」
その声は穏やかで、深く、真っ直ぐだった。
私は、息を呑む。
この人は、いったい、なんて人なのだろう。
……私なんかの、どこを見て、こんな風に言ってくれるのだろう。
私たちは、王宮の門を抜けた。
銀の鎧が夕陽を反射し、ただひたすらに前を目指して走っていく。
私は、その腕の中で目を閉じた。
もう、なにもわからない。
でも――
この手の温度だけは、知っている。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語は、AIを使って1日で作った「私の読みたい百合」を詰め込んだファンタジーです。
最初から最後まで、ひとつの恋を丁寧に描きたくて――悩んで、こだわって、やっと形になりました。
全8話構成・完結済み。毎日19時に更新予定です。
ぜひ明日も、読みに来ていただけたら嬉しいです。