side二条恭子②
屋敷に入った瞬間……空気が張り詰めているのが分かった。
「ど、どうしよう……」
「お、落ち着いて。深呼吸よっ」
「大丈夫大丈夫……」
廊下に並ぶメイドたちの顔は青ざめ、震えた声が漏れている。
普段の礼儀正しい姿はどこにもない。
全員が、動揺を隠せずにいた。
私は、年長のメイドに声を掛けた。
「何があったのですか?」
「め、メイド長! そ、それが……」
彼女は口を震わせながらも、簡潔に状況を説明してくれた。
どうやら、坊ちゃまが階段で足を滑らせ、頭を強く打ったとのこと。
すぐさま、かかりつけのお医者様に連絡を取り、処置が施された。
頭から血を流すほどの大怪我ではなく、たんこぶが少しできた程度と聞き、一安心……することはなかった。
怪我の大きさは関係ないのかもしれない。
問題は……貴重な男性が怪我をしたということ。
男性が少ない社会で、羽澄家唯一の男性に何かあれば……羽澄家そのものが揺るぎかねない。
さらに、奥様のメンタルにも大きな影響が出る。
ご主人を亡くされてから、坊ちゃまを育てていくために奥様……美香さんはとにかく必死であった。
必死になれる理由は、坊ちゃまの存在。
そんな坊ちゃまに何かあれば……奥様もどうなるか分からない。
それを察しているからこそ、メイドたちの動揺はここまで大きいのだ。
坊ちゃまの容態は安定しており、特に問題はないと診断されたのだが……。
何故か、肝心の意識が戻らない。
どんな医者に診てもらっても原因不明だと言う。
屋敷の中は重苦しい空気に包まれていた。
「坊ちゃま……今日も目覚めそうにないわ」
「目覚めたとしても私たち、なんて言われるか……」
「もっと態度が酷くなるのかなぁ」
「あの坊ちゃまのことだから、全員解雇ってこともあり得るかも……」
メイドたちは普段通り、業務にあたっているものの……不安の色を隠せていなかった。
◆◆
4日目の朝。
私ともう1人メイドは、掃除のために坊ちゃまの部屋に足を運んだ。
扉を開けると、そこにはいつもと変わらずベットに横たわっている坊ちゃまがいる。
ただ1つ違うのは……坊ちゃまの目が薄ら開いていたことだ。
「坊ちゃま……!」
隣のメイドが声を上げ、彼女はすぐに他のメイドたちを呼びに行った。
それからメイドたちが集まる中……意識が安定してきたのか、坊ちゃまがゆっくりと身体を起こす。
坊ちゃまがようやく目覚めて、集まったメイドたちが安堵の言葉を漏らす。
私はただ1人……冷静に坊ちゃまを見ていた。
この部屋やメイドたちを見回す彼の瞳は……どこか困惑している様子だった。
「……ここ、どこ?」
彼がそう呟いたのを、私は聞き逃さなった。
まさか……。
「――皆様、お静かに。坊ちゃま、お目覚めになられましたか」
声が大きくなり始めたメイドたちにそう言いつつ……私は丁寧に声を掛けて、坊ちゃまの傍に寄る。
「えぇっと……坊ちゃま?」
私の呼び方に対して……目の前の彼は、困ったように首を傾げた。
「わたくしたちメイド一同、羽澄玲人様のお世話をさせていただいております」
「はずみ……れいと?」
そう告げても、坊ちゃまの顔には困惑が浮かんだままだった。
「坊ちゃまどうなさいましたか? ご気分が優れないのでしょうか?」
坊ちゃまは口をもごもごさせては……口を閉じて、何も返してこない。
「……。坊ちゃま」
私は、確かめることにした。
「わたくしの名前を覚えていらっしゃいますか?」
「名前…?」
坊ちゃまは困った表情で大きく首を傾げた。
聞いたものの……その答えが出ることはないだろう。
何故なら、坊ちゃまはこれまで私を含めたメイドのことを……名前を呼んだことがないのだから。
投げかられるのは、「おい、お前」や「君さぁ」といった言葉。
名前なんて、わざわざ呼ばない。
メイド全員が自分の思い通りに動く、駒のようにしか思っていないのだから。
坊ちゃまは、少し考え込んだ後……言葉を絞り出すように口を開いた。
「き、綺麗だから……その……麗子さん、とか?」
「っ……」
私は目を見開いた。
周りのメイドたちも騒めき出す。
あの高慢な坊ちゃまがそんな言葉を口にするとは……夢にも思っていなかった。
そして……。
――坊ちゃまは記憶を失っている。
そんなことが頭を過った。
「綺麗……ですか。ありがとうございます。しかしながら、わたくしの名前は恭子でございます」
冷静を装いつつ、坊ちゃまに言葉を返す。
「やはり……事故の後遺症があるようですね」
その反面で、私はそう呟いた。
その後、急いでお医者様に連絡を取り、診察が始まった。
「目が覚めたばかりということで、記憶が曖昧な部分もあるようですが……体には特に異常はありません。日常生活にも支障はないでしょう」
女医の診察結果に、控えていたメイドたちは安堵の表情や声を漏らしていた。
が、私は……。
「記憶が曖昧……やはりそうですか。坊ちゃまの言葉遣いや雰囲気がいつもとは違うと思っておりましたが……」
記憶喪失の予感が当たり、ほっと一息つくことなどできなかった。
それに……。
一連のことを奥様に報告しなければならない。
奥様が取り乱さないような纏め方や対応をしなければならない。
考えが深入りしそうになった時――
「し、心配でしたら……病院にて詳しい検査もできますよ? なんだったら、入院されるのはいかがでしょうかっ。玲人様っ」
「へ?」
女医の突然の提案と坊ちゃまの声が漏れたのが、私の耳に入った。
「入院……?」
坊ちゃまが問い返す。
女医の言う通り、記憶が曖昧となれば、入院して記憶が戻るような処置を取るべきだ。
ただ……女医の目の色が変わったような気がした。
「もし入院されるならその……私が隅々までお世話してさしあげますよ? そ、その夜のお世話の方も——」
「――そこまでです」
私は割り込むように言葉を放った。
「この度は玲人様を診察していただきありがとうございました、先生。しかしながら……それ以上のことは不要、ですよね?」
「で、ですが……」
彼女は慌てて言い訳するようだが……言い訳があるといことは、下心があったということ。
それを認めているということ。
ならば、話を聞くだけ無駄である。
「これ以上、坊ちゃまに不要な処置をするなら……こちらも容赦はしませんよ?」
「ひっ……!」
女医は私の圧のかかった言葉に怯えた様子。
「では、気をつけてお帰りくださいね」
「うう……せっかく男性患者のお世話をできるチャンスがぁ……」
残念そうに帰る姿から、やはり坊ちゃま……男性を世話したいという私欲だったのだろう。
それから私は奥様に報告に行くために、屋敷を離れた。
1時間程して、屋敷に帰ると……メイドたちが妙に空気が浮き足だっていることに気づく。
理由は後から聞くとして……私はまず、坊ちゃまの部屋を尋ねる。
ノックをすると、すぐに声が返ってきた。
「ん、入れ」
「失礼いたします、坊ちゃま。ただ今戻りました」
お辞儀をして入れば、坊ちゃまは部屋を物色していた。
記憶喪失ながらも、何か記憶を思い返す手がかりになるものを探しているのだろうか?
「坊ちゃま。お医者様からは問題ないとは言われましたが、今日は目覚めたばかりですし、安静にした方が良いかと」
「ああ、そうだな」
坊ちゃまが私の言葉に素直に頷いた。
それだけでも、普段との違っていて驚いたが……。
「恭子。君に言いたいことがある」
「はい、なんでしょうか、坊ちゃま」
坊ちゃまの顔に浮かぶ表情には、何か決意のようなものがあった。
「僕は、君にもう酷い態度は取ったりはしない。だからこれからも――僕のメイドでいてほしい」
真っ直ぐな瞳で告げられたその言葉に、私は息を呑む。
これからも……。
私は、坊ちゃまのことが嫌いだ。
命令口調で、嫌な物言いで、女だからと下に見ては、自分勝手にやりたい放題……。
『人間簡単に変われない』という言葉があるように、坊ちゃまも昔から変わっていない。
私がそれを1番よく知っている。
「……」
無言のままの私を、坊ちゃまは不安そうに見つめている。
でも……目の前の彼からは以前の雰囲気を感じない。
私は口では何も言わず、小さく1度頷くだけにした。
仮にもし、坊ちゃまが変わったとするならば……。
私のこの「嫌い」な気持ちは、何に変わるというのだろうか。




