聖夜のベル
「嘘と鈴音」の結末部分を小説にしました。
聖夜のベル
あたしは今、アニキに背を向けて座っている。リビングのテーブルの上には大きな封筒が一つ。お母さんと別れたパパから、今日、クリスマスイブに送られてきた。だけど、開けるのが恐ろしい。パパが再婚して新しい家族をつくるらしいという話は聞いていた。なんていうプレゼントだ!
「なあ、鈴音。親父が出ていった日のことを覚えているか?」
叫んだ。
「やめて!」
アニキにも手紙が来ていた。アニキはきっと、くわしいことをすでに知っているだろう。リビングに呼び出して改まった話をはじめるというのは、きっとそういうことなんだろう。ママは、まだ出張から帰ってこない。
「おれは中学生になったばっかりで、おまえはまだ小学生だった」
「やめてって言ってるでしょ!」
「おまえはこう言った。『ねえ、行かないでよ。行っちゃやだよ! 鈴音が悪い子だから? 鈴音はいい子になる。いい子になるから!』」
「やめろ!」
それでもお父さんは出ていった。あたしはパパに、愛されてなんかいなかったんだ…。
「あのとき親父はこう言った。『おまえのせいじゃない』」
「はぁ? パパにそう言われたから、『おまえは愛されていた』とか言うつもり!?」
「おまえはこの言葉を、他の機会にも親父に言われたことを覚えているか?」
「知らない!」
本当に覚えていない。だけどそんなに珍しい言い方じゃない。言われたかもしれない。
「なら親父は、成功したわけだ」
「え?」
言っている意味がわからない。
「おまえが本当に小さなころだ。お袋にひどく怒られたお前が、拗ねて玄関から道路に飛び出した。親父もおまえを追って飛び出した。その時、暴走したトラックが親父をはねた!」
思わず息を呑んだ。
「救急車に乗せられたお前に、親父は何回も何回も言い続けた。『おまえのせいじゃない!』」
そんな…、まったく覚えてない! そんな重大なことがあったなんて!
「どんなに息が苦しくなっても、救急隊員に「もうしゃべるな」って怒られても、親父は何度も何度もこの言葉を言い続けた」
アニキがはっきりした声で叫ぶ。
「おまえのせいじゃない!」
今度は静かな声を出した。
「あの言葉が、いや、あの声が、今でもおれの耳について離れない…」
「だったらなぜ、あたしはおぼえてないの!」
「手術が成功した親父は、懸命にリハビリにはげんだ。あの、野心とか出世とか全然興味がなくて、努力とか言ったことが全くなかった親父が。障害が残らないように。事故に遭う前の、そのままの体に戻れるように。何一つ変わったところをなくすために。おまえに事故のことを忘れさせるために。事故そのものをなかったことにするために。他の誰のためでもない。世界中でただひとり、おまえだけのために!」
確かに、あのころあたしは愛されていた。だけどもう、パパはあたしを愛さない。パパはあたしを愛せない。あたしがどんなあたしでも、あたしがあたしであるという理由だけで、あたしを愛してくれる人は、もういない。あのころあたしは、何の条件もなく愛されていた。まぎれもなく、パパに守られていた! もう一度、パパの声が聞きたい。あたしの声を聞いてほしい。あたしを見て欲しい。やさしく背中にさわってほしい。髪をなででほしい。もう一度、抱きしめてほしい。抱きしめてほしい! 抱きしめてほしい! 抱きしめてほしい!
「だけど…、パパはもう、新しい家族を守らなきゃならない。パパはあたしを守れない…。あなたが、いない。あなたが、見えない! お母さんは毎日、『勉強しないなら出て行け。勉強しない子供なんかいらない』しか言わない。あたしはあの人に愛される資格がない。あの人の愛情は『条件つきの愛』だ。あたしはあの人に愛されるための条件を満たしていない」
否定してほしい。「おまえは母親に愛されている」と言ってほしい。アニキ、言え! 「おまえは愛されてる」って言え!
アニキの次の言葉を待った。
ちりん。
ベル? いや、これは日本の鈴の音だ。
「今日、親父に会ってきた。この鈴は、必死にリハビリしていたころ、くじけそうになるたびにこの鈴を鳴らして『鈴音のためなんだ。鈴音のため…』って、そう思えばがんばれたそうだ。おまえに持っていてほしいって言った。今でもおまえを愛しているあかしにって。実はこの鈴は、おまえのためにがんばってほしいと言って、お袋が親父に贈ったものなんだよ。名前っていうのは、最初の贈り物であり、最大の贈り物でもある。『鈴の音』と書いて『すずね』。親父とお袋で相談して決めたそうだ。特別な修業も技術もいらない。誰にも鳴らすことができる鈴。おまえの名前には、『鈴の音のように誰からも愛されるように』っていう願いが込められている。そしておまえは、今でも『鈴音』だ。だから…」
もう一度鈴の音が聞こえた。
「おまえは今、この瞬間でさえ二人に守られている」
アニキに背をむけたまま言った。
「あたしは今、この瞬間でさえ守られている」
「そうだろう、だから…」
振り返ってアニキの背中を見ながら言った。
「大好きだよ、お兄ちゃん!」
「えっ…」
アニキがこっちを見た。あたしは立ち上がってそばまで行き、アニキの肩に手のひらを置いた。
「あなたは変わらない。あなたの不器用なやさしさはずっと変わらない。だけどあたしは変われた。あなたのおかげで変われた。あなたのやさしさを感じ取れるようになった」
「何を言ってるんだ」
ゴミ箱のそばまで言って、小さな袋を拾い上げた。
「これ…。この土産物屋の包み紙、この鈴が入っていたんだよね。さっきのあれは、あたしを救うための、やさしい嘘だったんだ…」
考えてみれば、いくら幼かったといっても、大好きな父親が自分のせいで事故に遭ったことを全く覚えていないというのはおかしい。それに、そんな小さな子どもを付き添いのために救急車に乗せるだろうか。アニキが観念したように言った。
「全部が嘘でもないぞ。自転車で親父のところまで行ったのはほんとだ」
「自転車で、隣の隣の市まで!?」
「そうだ」
「電話すれば…」
「直接会って言いたかったんだ。『せめてなにか、鈴音にやさしい言葉をかけてやれ』って。…留守で会えなかったけど」
「確かに。この土産物屋はあの市にしかないもんね…」
「それに…。まあいいか。だけど親父の手紙は読んどけよ」
「その鈴をちょうだい」
「だけどこれは…」
「わかってる。だけどほしいの。お兄ちゃんがあたしのためにがんばってくれた記念に」
あたしはアニキから渡された鈴を手のひらに乗せた。小さい。いかにも土産物の店先に吊られていそうな、どこにでもありそうな鈴だ。だけど今のあたしには、最大のプレゼントだ。
アニキが言った。
「メリークリスマス」
あたしは笑いながら答えた。
「メリークリスマス!」
アニキが自分の部屋にひきとった後、リビングにはあたしとパパからの封筒だけが残された。
あたしは鈴をポケットにいれて封筒をつかんだ。
このことがあってからも、お母さんは相変わらずなままだろう。パパとはもう会えないだろう。だけどあたしは、兄を理解できるようになって、ほんの少し幸せになれた。だから…、こんなものはもういらない。
部屋のゴミ箱に封筒を放り投げた。
…なんだか音がしたような気がする。
ゴミ箱から封筒を拾い上げて耳元でふってみた。
確かに音がする!
むさぼるように封筒を開けた。
逆さに降ると手のひらの上に、さっきのよりもはるかに大きな鈴が転がり落ちる。
まさか…。
封筒から便箋を掻きだした。
広げる手間さえももどかしい。一枚目から必死に読んでいく。
ついにこのことが書かれているところまできた。
「この鈴はおまえに持っていてほしい。おまえが小さいころ、おれは交通事故に…」
…ウソじゃ、なかったんだ!