(旧)煙草呑みの谷底での初陣
くだり坂は最初こそ緩やかだったものの、谷底へとくだるように急なものへと変わっていった。
ナシェカ・レオンは地図とコンパスを見比べながら首を傾げている。
「……本当にこっちでいいの?」
「ふっ、我が魔眼と地図を信じよ」
「ファッション魔眼は信用しないにしても方角的には合ってるし、そのうち着くでしょ」
「ファッションちゃうわ!」
霧はすでに僅かな先もはっきりとはしない有り様。進路前方には幾つかの班のシルエットが見える。それだけが安心できる要素で、他にはなかった。
疲労から口数はへり、雨はますます勢いを増していった。
ぬかるみに足を取られる山岳路。マリアが足を止めた。
「どったんマリア、お疲れ?」
マリアはじぃっと暗がりの茂みを睨んでいる。
すらりと腰の剣を抜いた。呼吸するようにあまりにも自然な動作なので、班員はそれが戦闘行動とは思わなかった。
「群れがいる。たぶん強い連中」
だがナシェカはマリアの剣の先を摘まんで下げさせた。
「ナシェカ?」
「様子を見てるってことはビビってるんでしょ。こんな時に相手することないよ」
倒すのも無視するのもどちらも正しい。問題は残りの体力だけだ。
雨中の山岳行を再開する。
時折魔物と遭遇した。多くは群れであり、そいつは遠巻きに見つめるだけで襲ってはこなかった。ビルゲイブ連山を行き交うのは騎士だけで、だから人間は恐ろしい生き物だと学んでいるのだろう。
たまにハグレのような一頭だけの魔物が襲ってきた。群れと比べて食糧事情のよくないこいつらは腹ペコで、襲う相手をえり好みしない。そういう場合はマリアが仕留めた。
マリアは勇敢だ。圧倒的な強さという感じはしないが、勘がよく魔物の動きをよく見ている。よほど丁寧な指導を受けてきたのだろう、退治ではなく撃退をスタンスとし、無茶はせずに逃げる手負いの魔物は逃がした。
四度目の交戦を退かせる形で終えたマリアは肩で息をしている。ナシェカがマリアを抱き寄せたのは気負いすぎを心配してだ。
「あんた頑張りすぎ。ちょっとはこっちの回しなさいな」
「そうだぞ、頼もしい仲間のエリンを頼れ!」
「お前もなんかしろ」
「ふっ、我が魔眼に砕けぬ敵はいない。見よ、我が雷光を!」
ファッション眼帯を外したエリンが唐突にサンダースラッシュを放った。手刀を打つ動作とともに放たれた稲妻の一閃が遠くの木々を伐採!
「おおぅ、なんという唐突なムダ自然破壊……」
「何とかと刃物ってやつでは……」
折り重なるみたいに倒れていく木々の向こうに爛々と光る赤い瞳が……
魔物の群れだ。いきなり攻撃されて殺気立ってる。十や二十という数ではない……
マリアもナシェカもリジーも熱い期待を込めた眼差しで、手刀を放った態勢のままのエリンを見つめている。
でもどうしてだ? エリンは冷や汗ダラダラだぞ?
「…………た」
「え?」
「魔力切れちゃった……」
「「「嘘でしょあの一発で!?」」」
マリアたちは一目散に逃げだした。
背後からはドドドと猛追してくるイノシシ系の魔獣の群れ。圧がハンパじゃない!
「なんで使った! 一発しか打てないのになんで森林破壊に使った!?」
「いやはははは……わたしも成長してるかなーって思ってさ」
「入学から一ヵ月もしてないのに成長してるわけあるか!」
「マナポどこだっけ……あった! ほれ飲め飲め」
ナシェカのマナポーション飲ませてもらってエリンが復活。さっきまで徹夜明けくらいショボショボした目だったのに急にしゃっきりする。
「蹂躙せよ、サンダースラッシュ!」
稲妻の光刃が先頭の巨大イノシシの額に刺さって……
少しだけ血が出てる……
「ゴミ威力!?」
「ふっ、レベル七のわたしに何の期待をしていた?」
「なんで真打登場みたいな空気出した!?」
「仕方ねえ、ナシェカちゃんがやってやるよ!」
一人だけ速度を落としたナシェカがイノシシの突進を上に跳躍してかわし、首の裏側から脳髄へと剣を突き入れる。
「ほい一匹!」
絶命してもなお突進の勢いそのままなイノシシの巨躯にスケートボートのように乗ったまま、次なる標的へとジャンプで迫る。
ものの二分もしない間に三十近いイノシシが全滅した。
「さすがだなリーダー!」
「リーダー最高!」
「うおお、ナシェカ天才ー!」
「おおう、いつの間にかリーダーにされておる。まあいっか。者どもナシェカちゃんについてきたまえ!」
役立たず三人組が一斉に敬礼する。ダメな子三姉妹の誕生である。
濃霧の向こうから足音が聴こえる。
四人は身構えたが、やってきた連中がB組男子だとわかって気を抜く。
「うおおお! ナシェカちゃんは俺が守る!」
「おせーよ」
剣をブンブン振り回してたウェルキンに言葉のクリーンヒット。
胸を押さえながらなんだその表情は? 目覚めたのか?
「えへへへ、今日もきついぜ。だがそこがいい!」
「馬鹿は無視していいよ。追われてるの見かけたから追ってきたんだ。四人とも大丈夫だった?」
「ナシェカが一人で殺ってくれました」
「……そ、そうなんだ(どん引き)」
ベルがビビリ始めた時、霧の向こうからアーサーが走ってきた。ブルーの制服を返り血で染めたからすべてを無視してマリアの方へ。
「怪我はないか!」
「へーきだよ!」
「なんだこの扱いの差……」
「マリアに負けた…だと?」
話の流れは現状報告に。アーサー班もまた魔物に襲われていたらしい。木々の上に潜む蜘蛛の魔物で、強くはないが数だけは多かったとか。
耳を澄ませばどこからか剣戟の音色が聴こえる。他の班も戦っているのだ。
臆病な魔物が多いと思っていた。だがそうではないと誰もが気づき始める頃合いだ……
「夜が来るんだ。魔物のほとんどは夜行性、つまりこれからは魔物の活動が活発になる」
「うちらは起き抜けの朝メシ代わりってわけか、最悪だな」
「晴れならともかく環境が悪すぎる。見通しの悪い森林からは早く出た方がいい」
「以前からベル君はできる子じゃと思っておった。さあ早く案内しておくれ」
「……それが一番の難題だと思うんだ」
鼻水を噴き出したマリアが全員の顔を見渡す。
どいつもこいつも陰鬱な顔つきで、自分以外の誰かに希望を探している……
ここはビルゲイブ山の麓『煙草呑みの谷底』、日照の閉ざされた得意な地形がために常に霧のかかった連山でも有数の遭難ポイントであり、帝国でも有数のアンデッド多発地帯だ。
夜が来る。
死徒の徘徊する恐ろしい夜がもうすぐ傍まで侍り寄っていた。
状況を整理しよう。
煙草呑みの谷底で戦う新入生軍団はクリストファーが指揮しないとピンチ。
煙草呑みの谷底はこの真下。
俺はピーンと思いついたね。第二王子様を突き落としちまおうってさ。なあに死にはしないさ、高尾山より高いけどね。
「クリストファー、こっちこいよ!」
「無礼な! お前如きが殿下を呼ぶ捨てにするなど何たる思い上がりか!
「下郎は分際を弁えろ!」
断崖絶壁に立ちながら手招きすると、取り巻き化した上級貴族どもから噛みつかれた。
こいつカリスマ性あるから長い事一緒にいるとやばいんだ。イケメン絶対殺すマシーンの俺でさえ友情感じちゃってるしね。
当のクリストファーはアメリカ人みたいにおおげさに肩をすくめている。
「皆の前ではできない話か?」
いいえ、崖の前でしかできない非道です。
「その崖から離れた場所ならどこでもいいぞ」
疑われてますねえ。崖から突き落として殺害するみたいな誤解されてんのか? さては傭兵歴長いだけあって危険センサー備えてやがるな?
「大事な話だ。シシリーの話だぞ」
女の名前を口に出した瞬間お嬢様から殺意の波動が飛んできたぜ。こえー、絶対目を合わせたくない。
お嬢様がクリストファーに近づいていった。なんであいつこの波動に耐えられるんだ? 慣れているのか、修羅場に慣れているのか?
「クリス様、そのシシリーという方はどなたですの?」
「ローゼンパームの冒険者ギルド職員だ。言ってなかったかな、私はあちらで冒険者業を少しばかり嗜んでいたんだ」
お稽古みたいに言いましたねこいつ。
「右も左もわからない時から親切にしてもらった、私にとっては姉のような方だ」
「まあ、そうでしたの。姉…姉ですの!」
すげえ、お嬢様がチョロいのかクリストファーが手慣れているのか。
仕事関係を強調しつつ姉や妹という恋愛対象外な存在に置き換える危機回避か、勉強になるぜ。勉強してる場合じゃねえや!
「シシリーがどうかしたのか?」
「ルーデット卿と別れた。でまたくっついた」
「それがどうしたんだ?」
本気で意味がわからない顔してやがるぜ。俺もわからねえや。こんなもん雑談でさらっと言っちまうレベルのどうでもいい話だもんな。
こいつの興味を惹ける話題あったかなー?
「最新の飛空艇事情について聞きたくないか?」
「別に」
「トキムネ君が飼ってる子犬が双子を産んだんだが……」
「まずトキムネ君を知らないんだが。……どうあっても私をそこまでおびき寄せたいのか?」
逆に警戒を強化されちまったぜ。一旦話題から離れるか。
なんか使える道具ねえかな? ポケットを漁ってると小銭が転がっていったぜ……
「……(ピクッ)」
クリストファーが俺の落とした小銭に興味を示している。
すげえ見てるぜ。欲しいのか? 欲しいけどみんなの前だから我慢してるのか?
銀貨を手のひらで弄ぶぜ。チャリンチャリンチャリン……
「…………(じー)」
すげえ見られてる。油断したら強奪されそうな気配まである。この油断ならない気配はあれだ、海水浴場でトンビが俺のフランクフルトを狙っている気配……
「おおっと!」
わざと銀貨を落としてみせるとクリストファーがダイビングキャッチ! セーフだけど人間としてアウトぉ! こいつなんていい笑顔で!?
「おおっと財布が谷底に!」
財布を崖に向こうに放り投げる! クリストファーが華麗にキャッチ!
そして華麗に落下していったぜ……
あいつ小銭好きな馬鹿だとは思ってたけどここまで馬鹿だったの!? 俺あいつをいつでも殺せる手段見つけたかもしれない……
現場は混乱しているぜ。あたりはもう真っ暗なんで他の奴には俺が何をやったか見えなかったらしい。うん、俺も自分が何やってんのかよくわかんねえや。崖から財布落としただけだよ?
「リリウスぅ! あんた、クリス様になんてことしてんの!?」
「お、俺はただ財布を落としただけで!」
「嘘おっしゃい、じゃあクリス様はお財布をネコババしようとして落ちたって言うの!?」
お嬢様は本能で正解引き当てますよね……
その通りなんですよ? 大正解ですよ? でも誰も信じてくれそうもない。取り巻きの上級貴族組も混乱してるぜ。
「あ…あいつ今何をした?」
「殿下が御自ら崖に飛び込んでいったように見えたが……」
「そんなわけがあるか。あいつが何かやったに決まってる!」
ま、あいつらはどうでもいいや。
濃霧に遮られた眼下は俺の暗視能力でも何も見えない。だから想像する。傷つきそれでも戦う連中の姿を……
未来は未来通り進まなければならない。未来のために俺はこれから大勢の落命を無視する。戦うのはヒーローの宿命、救うのは聖女様の役目。託すしかない俺はむしろマリア様の邪魔をする役割。
だけど願う、頑張ってくれと心の中で唱えながら俺はすべてを無視し続ける。
「クリストファー様の仇だ!」
「囲め、あの皇族殺しを仕留めるぞ!」
「殺せー! 殿下の殺害犯を殺せー!」
感慨にふけっている間に俺はすっかり周りを囲まれてしまった。
殺気だつ連中を前に、俺は俺の戦いをやらなければならない。どう考えても自業自得だぜ。
真っ白な空を落ち続けるクリストファーは軽い走馬灯を見ていた。
流れるように過ぎ去っていく様々な人々の横顔は懐かしく、もう会えない人々が切なさを思わせた。
「私は……どうして!」
どうしてこんな事になったのか。どうして惨めな死を遂げねばならないのか。本当にわからない!
あぁどうして小銭が詰まった財布なんか握りしめているのか!?
「皇室を破壊し、ドルジアを革命すると誓ったこの私がこんな事で―――こんなことでぇぇぇぇえええええええええええ」
どかん!
迫り出した山道に頭から激突したクリストファーは人間砲弾みたいに岩石を破砕。そしてバウンド! この遥かなる八百メーターの大岩壁をまたまた落ちていった。
どかん! どかん! どかん!
「許さん、あいつだけは絶対に許さないぃぃぃぃぃい!?」
クリストファーは泣き叫んだ。ここ数年どころか生まれて初めてくらいの勢いで泣き喚いた。でも泣いても笑っても地面はもうすぐそこだ。
クリストファーは断崖の地上三十メーターの地点でへたりこんでいた。額からにじみだす脂汗にも構わず、九死に一生を得た感動に打ち震えている。
800メーターからの落下であるが魔法で精製した氷柱を斜めに壁に十枚打ち込み、遅延発動させた慣性殺しでどうにか停止できた。
十枚の氷柱を九つまで叩き折っての停止だ。ギリギリだった。それでも生きている。生きているのは素晴らしいことだ。ちなみに落下開始から二十三秒でこれだ。彼ほどの魔法制御力と胆力をもってしてギリギリだったのだ、百人いれば百人確実に殺せる恐ろしい事態だった……
「……もう殺す。絶対殺してやる」
脳裏に思い描いた目つきの悪い悪党の顔面に一発いれてやるが、帰り着いたら当然一発では済まさない。決闘だ!
激高するクリストファーの耳に剣劇の音色が聴こえてきた。
耳を澄ませるまでもない、魔法による爆発音や悲鳴が聴こえてくる……
「戦闘? まさかこの下でか?」
雲の中に迷い込んだかのような煙草呑みの谷底は通常の視力では十メートルと見通せない。だがクリストファーの保有する血統スキル『神々の末裔S』は瞳を飛ばすみたいに谷底の様子を捉えた。
大勢の生徒がアンデッドの大軍と戦っている。三人から六人までの小勢に分かたれて、数倍する不死者と戦い、どうにかこの谷底から逃れようと帰還路を探している。誘致したアンデッドを永遠に彷徨わせる仕掛けのなされた谷底から逃れる術などないというのに……
今もまた逃れてきた生徒が不死の追手に迫られていた。勇敢な男女がしんがりに残ろうとしている。
「行ってくれ!」
「アーサー様、あたしも戦う」
「マリア、アーサー様!」
いったい何時間ここで死人どもと戦っていたのだろうか。誰も彼もが傷つき疲れ果てていた。残ろうとする二人が最も多くの傷を持ち、それでも友のために戦おうとしている。
(気高い奴らだ。貴族にもこんな奴らがいるのか……)
クリストファーは反射的に岩壁を蹴った。弾丸みたい加速して彼らの下まで飛来し、群がる死人どもを切り伏せていく。
彼らの窮地。突き落とされた場所。これを偶然と取るにはリリウスの行動はおかしすぎた……
(救えというのか。狂った貴族どもへの復讐のために生きてきたこの私に、こいつらを救えと?)
かつてフェニキアの砂漠で一人の少年と出会った。
王子と貴族の子弟なんて身分も知らずに同郷のよしみで親しみを抱き、迂闊なほどの気軽さで胸の内を明かした。不平等な社会を正したいと、帝国を作り変えたいと。
荒唐無稽に聴こえたのだろう、彼は否定した。だが助言だとこう言った。
『どうしてもやりたきゃ知識階層にじわじわ浸透させて百年計画でやれよ』
『貴族の慈悲と良識に委ねろと?』
『よく言うだろ、愛と希望が世界を救うって』
当時は裏切られた気分がした。その正体を貴族身分だと知っていまは納得もした。なるほど既得権益を享受する階層の言いそうなセリフだと思った。だが奴の生まれを調べれば調べるほどわからなくなった……
(貴族は心のないケダモノなんだ! あいつらは平民を人だなんて思ってもいないケダモノだ、だからあんなおぞましい行いを平気でする。お前だって何度も思い知ったはずだろ! どうして信じようとする、どうして委ねようなどと言える……!)
クリストファーが戦いの最中に目にしたのはしんがりに残った二人へと駆け寄る生徒たちだ。仲間の無事を喜び、涙するその憐れみをどうして平民に向けることができないのか……
将来帝国の国家戦力となる可能性のある彼らを助ける理由はない。むしろこの機会に有望な芽を摘む方が利口なくらいだ。リリウスも気づいているはずだ。
(彼らの運命を私に委ねたのか? どうして私を信じられる、何度も敵対してきたじゃないか。愛と希望なんて絵空事だってわかっているはずのお前が、私に彼らを救えというのか……?)
群がる死人どもを斬り終える。百までは数えていたが途中からはもうやめた。
生徒どもがすがるような目でクリストファーを見つめてくる。その期待を、希望を、信頼をいつか裏切ることになるのは理解している。でも今は……
「そうすがるような目で見ないでくれ。野戦陣地を構築する、経験者はいるか!」
「殿下!」
ワッと歓声があがり、抱き合って喜び合う彼と彼女を見つめながら思う。
思ったが心のうちに留める。明かすべき相手は崖の上、恨み言なら後で存分に言ってやる。拳付きでだ。
断崖から赤毛の少女が飛び降りてきた。熟達した重力制御魔法によりふわりと降り立ったのはロザリアがクリストファーの元にひざまずく。
「野戦経験ならわたくしにございます」
「手を貸してくれるのか?」
「クリス様がそう望まれるなら。不死者用の簡易陣地であれば騎士団魔法『ウォルバーク』の六番がよろしいかと」
「頼もしいな」
心の底からそう思う。何もかもが足りない時に共に戦ってくれる女性がいる幸運に、クリストファーの頬が緩んだ。それがロザリアを驚かせた。
「ようやく笑ってくださいましたのね」
「私はそんなにも愛想がなかったか?」
「いえ、学院でも社交界でもクリス様はいつも余所行きの笑顔でしたわ。優雅でお上品で、でもいつも寂しそう。わたくしあなたの笑顔にしてさしあげたかったの」
「ロザリア嬢は私を知らないのだな」
「ええ、だから知りたいのです」
ロザリアが腕を振り上げる。真っ赤な魔力光が岩壁の組成を作り変えてちいさな要塞を作り上げた。立派な門構えも物見やぐらも要らない。朝まで防御に徹することのできる防御力さえあればいい。
その驚嘆すべき制御力には生徒の誰もがポカーンとするかしなかった。
「さあクリス様、ご命令を」
「この場はクリストファー・ドルジアが指揮を執る。生徒諸君には私の言葉に従ってもらいたい。人員はまず二つの班に分ける。私率いる遊撃隊は樹海内を逃げ惑う学友の保護。ロザリア嬢率いる防衛隊は野戦陣地の防衛に努めてくれ」
王威を備えたよく通る声で命令を発する。心に迷いがないではないが、今はともかく生き延びねばならない。自分にそう言い聞かせるだけなら簡単だ。
「刻限は夜明けまでだ。教員が救援に来る夜明けまで持ちこたえればいい、諸君らの奮戦に期待する!」
煙草呑みの谷底で本来の戦闘が始まる。
夜を徹して行われる遊撃による保護と襲い掛かってくる不死者の撃退。保護した負傷者は寝かせ、戦える者は戦力として運用する。腕が一本動かないくらいなら戦ってもらう。
鳴りやまない剣戟の音色が谷底に音楽を奏で、戦う者どもの雄たけびが亡者どもを切り裂いた。
やがて朝日がやってきた。
あれほど激しかった雨もあがり、濃霧の向こうが真っ白に輝く朝日がやってきた。野戦陣地に群がっていた千を超えるアンデッドどもが名残惜しげに森の奥へと去っていくのを見届けたクリストファーは、野戦陣地の城壁から、救援にやってくる教職員と騎士団の混成部隊を見つめていた。
「……奴は、いないか」
「誰のことですの?」
足元に座り込んでいるロザリアが軽い感じで尋ねてきた。魔力を限界まで引き出したせいか、もう立っていることもできない彼女に肩を貸しながら混成部隊を眺める。やはりロザリアには奴が誰のことなのかわからない。
教職員混成部隊を率いるのはパインツ教師だ。
「殿下、救援が遅れたことをお詫びいたします。まさかこちらにお出でだとは夢にも……」
「謝罪は不要だ。こちらは生徒87名を保護している、多少の怪我人はいるがいずれも致命にはいたるまい」
「ああ、それは誠に喜ばしい。一学年124名これで全員の安否が確認できました」
重責から解かれたパインツ先生が相好を崩すと騎士団の中隊を率いる若い騎士が顔を赤くして握手を求めてきた。
「素晴らしい戦果です。殿下、見事な初陣を飾られましたね!」
「賛辞なら皆に言ってやってくれ。あの状況で生き延びられたのは皆の奮闘あってのものだ」
野戦陣地ではすっかりボロボロになってしまった生徒たちが座り込んでいる。教職員の救援が来たと同時に緊張の糸がぷっつりと切れてその場で眠りについて者もいれば、負傷をおして戦っていた者もいる。朝まで負傷者の治療にあたっていたアーサーなどは特に疲れ切っていて、その傍に寄りそう女生徒の胸の中で安らかな寝息を立てている。
皆が勇敢に戦った。共に剣を取り、夜明けをめざしてガムシャラに戦ってきた。彼らへの誇りと尊敬を想いながらクリストファーは軽い眠気を感じた。気を張り、眠気を飛ばすなど造作もない。だが今は少しでも彼女に報いたかった。
「ロザリア嬢」
「はい」
「膝を貸してくれないか。一刻でいい、今は何も考えずに眠りたい気分なんだ」
柔らかく微笑むロザリアの細い足に頭を落とすと同時に眠りに落ちた。
クリス様は頑張られましたものね、なんて彼女の声を夢か現か聞きながら彼の意識は眠りに引き込まれていった。
ウェンドール806年五月。山岳訓練の途中で起きた煙草呑みの谷底での防衛戦を見事な指揮で切り抜けたクリストファー王子はこれを契機に名声を勝ち得る。
長い留学から帰ってきた洒落者の王子というどこか夢見がちな存在から、確かな実力のある王子と認識され、宮廷とは無縁の若い貴族身分から支持されるようになるのである。
宮廷に出仕する重鎮は未だフォン・グラスカール第一王子支持であるが、その固い岩盤を貫くように若き新芽が芽吹いたのである。
新芽が潰されるか、天を貫くほどに成長するかは今はまだ誰にもわからない。




