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最終章 『春のマリア』  作者: 松島 雄二郎
騎士学一学期 短話編
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幸運は二つの顔を持つ

 不思議な音色が闇に深く沈んでいく。

 グラスの縁をなぞる指が奏でる音は耳鳴りのように高くて、それだけの特に意味のないものだ。


 闇の中で膝を着く貴族は目を離せない。憔悴し落ち窪んだ眼は涙を流しながらも視線だけは外せない。

 この倉庫にうず高く積み上げられた木箱の上に立つ者どもと、それを従える美しい少女から目を離せない。……それも仕方のないことだ。彼はいま神の御前にいるのだ。


「なあラゼル・オルセット、君はどうしてグラスの縁をなぞればこんな音が出るのか分かるかい?」

「……」

「不思議だと思ったことはない? それとも初めて聞いたのかな?」

「……それは何か意味のある問答なのか?」


 褐色の少女が口を大きく開いて笑う。

 瞬時に魅せられたラゼルは真に美しいものが何たるかを知った。こんなにも邪悪な笑みなのにひどく心がざわめていて彼女にひれ伏したくて仕方がない。


 これが神聖。人は理由などなく惹かれ、愛し、愛されたいと焦がれてしまう。


「意味とはね、これも世界の一部なのさ」

「世界ですか?」


 ラゼルは刹那口から飛び出した尊敬語に戸惑う。ウェロン?とだけ問い返せばよいところを丁寧にウィット・ハズ・ウェロン?と問い返していた。


 戸惑いは未だ彼の心に抵抗のある証。完全に服従してしまえば戸惑いさえも失せる。

 人は神を前に自我を保つことさえ敵わない。


 部下を殺され、手足に縄を打たれた48の男にできるのは憎み続けることだけだ。憎しみだけが自我を保つ唯一の術なのだから。


「なあラゼルよ、世界とは何だい?」

「我らが住む母なる大地であろう。海と空と大地、これら等しくして世界と呼ぶのではないだろうか?」

「それも一つの答えだ。視覚的な回答とするに十分な答えであるけど論旨を考えると誤答になるか。惜しいなあ」


 嘲弄されてなお慕わしい。それでも憎まなければならない。

 ラゼルは自らの奥歯を砕くほどに噛み締め、渾身のちからで俯いて地面へと視線をやった。まったく度し難いことに今度はどんな表情をするのか気になって思考がまとまらなくなった。


「どうして世界に色があるか、ストラの火が万物に色彩を与えているからだ。どうしてグラスから音が鳴るのか、物質の振動によるものだ。世界とはこれら小さな理を無数に内包するデータバンクなのだよ」


「それが…どうした? 今ッ、この場に何の意味があるのかと聞いているんだ!」

「理を読み解けばこういうマネもできる」


 アシェラの指がグラスの縁をくるりと撫でる。発生した振動波を空気圧のフィルターを調律してラゼルに向けて解き放った。

 指向性振動波の吹き抜けた後、ラゼルの両耳から血が零れ出して肉体はそのまま地面を叩いた。


 だがその魂魄は膝を着いたまま、己が死さえも理解できぬままである。


「これはなんだ。これは…私か?」

「所有権を切り離された肉体を自分だと考えるのは誤りだな。それはもうキミの物ではない」


 返せとばかりに魂魄が己の肉体に手を伸ばす。しかしその霊体の腕も足もアシェラの生み出した夜の鎖に縛られて届かない。


 アシェラが自らの髪の毛を一本抜き取る。ぷつんと抵抗を残して抜き取られた漆黒の髪を一本吹き散らかすと、それは手のひらサイズの小さなミニキャラになった。

 ミニキャラがとことこ歩いていく。愛らしい小さな歩みが目指す先はラゼルの肉体だ。


 ラゼルの魂魄が怒鳴る。


「何をする気だ! 返せ、返せ返せ戻してくれ!? それは私の体だろう!? 何が欲しい? 何だってくれてやる! 何をしゃべればいい、何だってするぞ。だから私を元に戻せ!」

「その提案には魅力を感じない」

「どうして!?」


 女神が愛らしく唇に指をあて、上を向いて悩む素振りを見せた。

 意識が外側から崩壊し続けて空気に散りかけているラゼルの焦燥を知りながらこの態度と無為な時間浪費。何たる邪悪な存在かと思う暇さえない。彼には時間が無い。


 ラゼルの意識など魂魄にこびりついた不純物でしかない。大気に溶けていけば意識などすぐに消え失せる。そうなってしまえば浮力を失った魂魄は大地の底へと落ちていくだけだ。

 彼は世界の理を知らない。だが本能が知っていたのだ。もう数秒も無いと。


「キミを信用する理由がない」


 ミニキャラがよいしょと掛け声を発してからラゼルの肉体の口に入っていく。

 ラゼルの肉体が生を取り戻したように再び立ち上がる頃にはうるさいゴーストは消え失せていて、尊い生命は新たな生まれ変わりを目指して大地の底を目指して旅立っていた。


 ラゼルだった肉体が微笑みを浮かべる。女神のごとき邪悪な微笑みだ。


「どうしてキミ如きがボクの御言葉を賜る幸運を得られたのかを最後まで理解できなかったんだね。この肉体は貰い受ける、お釣りは要らないよ、どうせキミには払えやしない」


 傍に控え、女神を守護する栄誉を賜った悪徳信徒が尋ねる。


「使えますか?」

「脳へのダメージは抑えたから問題はなさそうだ。ラゼル君の知識を基に彼の組織を再編しよう。そうだな、ヴェローズとエルドリッチは立ち上げの補佐についてくれないかな?」

「仰せのままに。御身がために青の薔薇の支部が一つ丸々掌握してご覧にいれましょうぞ」

「任せきりにしたりはしないさ。ボクもこのままラゼルとして組織を動かしてやるよ」


 なぜか悪徳信徒がどよめく。動揺している。

 日頃ぜんぜん働かないやつが急に働き出したから驚いている感じだ。


「はいはい、とりあえずの目標は今年中に帝都以北の地域の青の薔薇の掌握な。この組織から引っ張れるだけ引っ張ってイモづる式に乗っ取っていくぞ。じゃあ解散!」


 悪徳信徒が夜渡りを用いて消えていく。特に指示していない連中も功績を目当てに義勇軍狩りに向かったのだろう。

 まったく頼もしい連中だなと思いながらアシェラも夜渡りを使って帝都のLM商会まで空間転移する。


 そんでベッドに寝っ転がる。疲れたーって感じで伸びをしてるとリリウスが入ってきた。んでいつもの余計な一言だ。


「暇そうだな」

「バカ言ってんじゃないよ!」


 アシェラがこれこれこういう大変な仕事をしてきたばっかりなんだぞって文句をつけるとリリウスが「おう」とか「すまん」とかじつにどうでもいい返事をしてきやがるもんだから余計に腹が立ってきた。


「日々労働に勤しんでいるボクを労おうっていう気持ちはないのかねえ!?」

「あ、これお土産な」

「クッキーかよ! ボクがせっせか働いてる間にどこに行ってきたんだよ」

「エストカント市」

「どこだよ!? あーあー、疲れたなあ、こんなに大変な想いをしてるのにクッキー缶で済まされるなんてひどい男だなあ!」


「悪かったって。じゃあ高級バスタオルセットも……」

「その物で済ませようとするのやめなよ。言っておくけど女には適当に物を贈っておけばいいっていう考えは間違ってるからな?」

「じゃあどうすればいいんだよ」

「労えって言ってんだよ! じゃあボクはもう寝るから膝を貸せよ」

「お…おう」


「言っておくけどボクが起きるまでは傍にいろよ。途中でどっかいったら一生恨むからな!」

「一生恨むのかよ。えぇぇぇ……何時間いろってんだよ」

「暇ならこれでも読んでろよ」


 アシェラが辞書みたいに分厚い書類をほっぺに押し付けてきた。

 帝国革命義勇軍『青の薔薇』乗っ取り計画とか色々な計画の進行表だ。攻略を進めているゲームで知り得た情報も記載されている。読むだけで朝までかかりそうだ。


「おー、助かる助かる。えらいぞ」

「今更遅いんだよ! いいか、今度黙って消えたら一生許さないからな!」


 ぷんすか怒っているアシェラがすぐに寝息を立て始めた。

 自分の膝を枕に腰に両手を回して寝入るアシェラの髪を梳いてやる。くすぐったそうに身をよじる彼女は幸運。リリウスにとっての幸運の女神だ。


「もう黙っていなくなったりしねえよ。だから安心して眠ってくれ」


 読書の夜が更けていく。明後日には期末テストがあるけど時は容赦なく進んでいく。

 いまは二人ただの少年と少女として……

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― 新着の感想 ―
[一言] アシェラは過去の恋愛だったって言いそうなのに今も好きなんですねー
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