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最終章 『春のマリア』  作者: 松島 雄二郎
聖と魔のフロントライン
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行商人ヘレナの受難⑤ 神と勇者と人によって神話は紡がれる

 大儲けした日くらいは大好きなワインを、それも搾りかすの混ざった濁り酒なんかじゃない赤く透き通ったワインを飲むと決めている。今夜は随分と深酒をしてしまった。……酒を飲んだ理由はやってられなかったってのもある。


 ナシェカという少女を知ってしまったからだ。


 自分では届かない高みがあることは漠然と感じていた。それはまだ会ったこともない大商会の会長とかそういう人物であり、心のどこかで彼らだって同じ人間なのだし自分だって直接交渉をする機会があれば負けたりはしないなんて密かな自信もあった。

 でも根拠のない自信なんて一発で打ち砕かれてしまった。


 自分よりも年下の冒険者の女の子に、あぁこれは勝てないって心底から思い知らされた。


 口のうまさも、表情から余裕を読み取るすべも、知識も、もしかしたら経験も、何もかもが隔絶している本物の才能と出会ってしまったから酒に逃げた。

 彼女のような才能には一生勝てないと本能が認めてしまい、上にいくのは彼女のような人なんだとわかってしまった。


「あー、ちくしょー」


 なんて鳴き声が自分から漏れているのをとめる余裕もない。

 愚痴らないとやってられない夜もあるなんて言葉もあるが今夜がまさにそうだ。


「あんなに可愛くて商売もうまいなんてずるいー」


 ベッドに潜り込んで浅く眠っては起きて、まどろみながらゆっくりと眠りに落ちるのを待っている。


 酔っぱらって鈍化した神経に懐中時計の音だけがやけに耳障りに響いて、どうしても眠れない。酒が足りない。

 キャビネットの寝酒は全部飲んでしまった、でも眠るにはもう少し必要だ。……でもベッドから出たくない。


 眠れない怠惰な時間をシーツをかぶって過ごしていると、ドアノブが回る音がする。


(え、夜這い?)


 誰が?


 最初に思い浮かんだのはシャレードだが彼がそんな不埒なまねをするはずがない。高潔にして神聖なる聖勇者さまだ。聖務シャンカーレの果たすためだけに存在する人でありながら人ならざる聖人さまだ。夜這いなんてするわけがない。


 となると他の四人だ。

 クロードは……しそうもない。あの爽やかなハンサムがそんなまねをするわけがない。

 アーサーもしそうもない。女性に興味がなさそうだ。ナルシストなのかもしれない。

 ウェルキンはナシェカにメロメロだ。一番しそうだ。


 リリウスもしそうだ。そういう顔をしている。でもたまに聖人のような言葉を用い、遠くを見つめている時がある。シャレードも言っていた。彼もまた私と同じような存在なのかもしれないと。


 思考の合間もドアノブがガチャガチャ音を立てている。鍵を掛けているせいだ。

 すぐに諦めてくれる。そう思っていたが……


「うざったいのよ!」


 甲高い女性の声とともにドアがバラバラに吹き飛んできた。

 ドアの破片と一緒に圧力がやってくる。突然空気が重くなってそれはたくさんのシーツを被せられたみたいな感覚がして、指一本動かせなくなってしまった。


 空気がキラキラに輝いている。一つ呼吸をしただけで目が回ってしまった。 


 足音が近づいてくる。恐ろしいまでの怒りを込めた足音は床を壊すつもりに聞こえる。


「ナシェカ…ナシェカ? お前が?」


 声を聞いた瞬間に震えがとまらなくなった。

 声も出せない。ただ涙だけが出てくるのは抗えない死がやってきたからだ。


「端女ごときがよくもわたくしのフェデルを……! お前なんぞ千も万もあろうが届かぬ価値のわたくしの寵愛をッ、よくも!」


 死んだ、そう理解した刹那―――


「間に合ったか」


 自分はシャレードの腕の中にいた。

 けっして崩れぬ凛々しい表情にやや焦りを露わにした聖勇者さまが、あの恐ろしいモノと対峙する。


「恐ろしいのなら見ない方がいい。だが恐れる必要すらない」


 彼の鋼の声が勇気をくれたのか、自分を圧し潰そうとしていた空気の圧力がすっかり消え去っていた。


「約束をしたね、私の手の届くところにいるかぎりはヘレナを脅かす脅威は存在しない。目を閉じていてくれ、目を閉じている間に怖いモノはいなくなるよ」


 彼は誰よりも優しく、高潔で、最強の、自分の相棒だ。


「シャレード、その…また御願いします」

「ああ、頼まれた!」


 シャレードが聖剣デュランダルを構える。煌めく緑の空気が黄金の光の波動に押し返されていく。

 ヘレナは緩和した恐怖を勇気でねじ伏せながらこの光景を見知り、感じた。


 いま自分は神話の中にいるのだと。

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