オージュバルトの娘達④
なぜ人は滑るのだろうか。
なぜ空気は凍りつくのだろうか。
どうして俺は正座をしているのだろうか。
「いや別に内緒にしていたってわけじゃないんですよ。ただ言い出すタイミングがなかったっていうかここだっていうタイミングを逃し続けてきただけでしてね。いやもう本当にそれだけでして、他意はないっていうか……」
なんでお嬢様はさっきからずっと涙目で黙り込んでるの? 絶対にこっちを見ないのはナンデ?
空気が鉛のように重いんだけど誰か反応して……
「昨年結婚しました……」
「そうか、それは喜ばしいな」
閣下が気遣いの相槌を打ってくれた。他の奴らは何も言わない。英断すぎる。この空気の中で発言する勇気は俺にも無い。
「彼女が第二夫人ということは正室はやはりアシェル殿か?」
「あー、あー……」
そういや自伝に書いてるよ。アシェルとの間にクロノスがいるって書いてたよ。むしろ世界に向けて発信してんじゃんよ。
「そのぅ、正式に式を挙げたのはラクスという子でして」
「その年齢で第三夫人までいるのか」
感心したみたいな口調でありながらお前どの口でマクローエン卿を非難できるんだよみたいな空気を感じる。
事情を知っている側のラストさんがうふふと笑っている。そして彼女には空気を読む機能は付いていない。王族だからだ。王族とは自分が世界の中心にいると思い込んでる自分勝手な生き物だからだ。
「うふふ、カトリ様もいるわよね」
「ちょ……」
「四人か」
デブが無言でシーツを纏っただけのユイちゃんと俺がピースしてる写真を提出する。
「五人」
「みんな待って、俺を叩くモードに切り替えるのは待って!」
「そういえばリリウス君ってナシェカさんにも手を出してるよね」
「デブ! あいつとはそんな関係ではない! とは言い切れないんだけどぉ!」
「寮付き女中のアメリと約束をしたって聞いてるけど」
「誰から!?」
「七人か。日替わり弁当ではないのだぞ」
「誰が上手いことを言えと言いましたか。閣下ァ!」
「八人じゃ。この男はあちこちに出かける度に女を作ってきおる」
第二夫人からの密告!?
「幾ら何でも手を出しすぎだ。少しは慎め」
「ガーランド様もご他人のことをとやかく言えるとは思えませんが」
ラストさんの発言によりターゲットロックオンに変更が起きた。いけるか、いってもいい流れなのか?
「……ドロシーとの関係は妻殿の邪推を招くものではないと説明したであろうが」
「でも長年想い合っておられたのでしょう?」
「異母兄弟に恋情はないと言っているではないか。俺があの者を想うのは妹へと向ける情愛にすぎん」
今さらっと爆弾発言があったような。
お嬢様も気づいたようだ。いまたしかに言った。異母兄弟と言った。
ドゥシス侯爵家のドロシー。一時は白角隊の部隊長をしていた事もある才媛で、お嬢様にとっては尊敬する姉のような人物だと聞いた事はある。
「ドロシー様はそうは考えておられないようでしてよ」
「そう簡単に気持ちを切り替えられるものではないのだ」
「おにーさま、そのぅ、ドロシー様と異母兄弟というのは……?」
「聞き流せ」
「流せません。本当なのですか? ドロシー様はわたくしの本当の姉上だったのですか?」
「お前は関係ない」
「関係あります。どうしていつもわたくしだけを外に置くのです!」
「関係ないのだ。我が父アルヴィンの本当の子であるお前だけは立場が違うのだ」
空気がシリアスだ。ここは俺が一つ滑り芸でも披露するか。
場をなごませるダジャレを考えているとお嬢様が走り去っていった。追いかけようとしたが閣下に肩を掴まれて止められた。
「慰めは不要だ」
「ですが……」
「人には時に孤独に思い悩み自らだけの解を得る時間が必要なのだ。蝶よ花よと愛でられて育った者の心のなんと脆いことか。孤独と不安だけが心を鍛えるのだ。打たれなければ強くなれぬのだ。……ロザリアを思うならその強さを思ってやれ」
閣下がコテージの二階に目をやる。
この場にはラストとアーサー君の豊国組。俺やウルドといった外様組。純粋に帝国貴族と言えるのはデブとシャルロッテ様だけだ。
「この面子なら問題はあるまい。一つくだらない因習について話してやろう」
閣下が語ったのは帝国の闇の一つ。ドルジア皇室という強大なちからに寄生する人々の話だ。氷柱竜レスカの血がもたらす超絶のちからを恐れながらも我が物とするために行われた気持ち悪い陰謀の話だ。
一部の有力貴族つまりバートランドのような大きな家には一代に一人皇室から姫を下賜される。その娘を使って血統スキルガチャをやる権利だ。
見事引き当てれば太陽竜ストラの血族が手に入る。竜人のちからを手に入れるために貴族どもは貢物を抱えて挙ってクリスタルパレスに押し寄せたそうな。この政策が最初の内はうまく機能した。貴族どもは一つでも多く位を上げるために戦場での武功を求め、兵の供出に応じ、帝国の拡大に喜んで寄与した。
そんな歪な国で前バートランド公がくだらないことを言い出したのだ。どうせ貰うなら竜と竜が為した子が欲しいってね。
つまりは血統スキルホルダー同士の子を欲し、レギン皇帝とその姉に子供を作らせて妊娠した皇姉を我が子の妻として貰ったんだそうな。それがガーランド・バートランドなんだ。
「我が父アルヴィンは俺を憎んでいる。それもそうだろうな、十を一つ二つ越えた頃に突然見ず知らずの妊婦を寄こされてそれを妻と呼べと命じられたのだ。我が子ではないものを我が子として育てよと命じられたのだ」
「閣下に責はありません。大人の陰謀で生まれた子に全部背負わせるのはおかしいじゃないですか」
「だとしたら我が父の心はお前よりも小さいのだろう。いや他人事であり我が事ではないからそう言えるだけかもしれん。心は自由だ、憎まれようが疎まれようが俺にとっては些事にすぎぬ」
じゃああなたはどうしてバートランド公を我が父と呼ぶのですか。とは言えなかった。
誰にも気づきたくない真実はある。どんな聡明な人物であっても俺でさえ気づけるような事を気づけないことがある。
気づいてしまえば邪魔になるからとそっと蓋をした真実を無遠慮に開く気にはなれない。
って勝手にセンチメンタルに考えてたらウルドがこんな発言をするのである。
「お国柄というか社会形態の差かのぅ。ワシらは生まれた子は誰の子であれ集落全体で育てるからサッパリ理解できぬ」
「絶滅寸前で数百年に一人しか生まれない種族と一緒にされても困るよ」
「下の森の同胞の話じゃよ。子を区別し選別するという理屈から理解できぬ。増えすぎて個人の価値が下がっておるのじゃろうな」
なんか急に難しい話になったな。
「自分の家系を持ち自分の子を大切にするのが理解できないのか?」
「それは優生思想じゃろ。ワシらは誰の子であれ差別せずに大切にする。種の繁栄に比べれば些末な違いじゃ」
異種族の価値観だからたまに理解が及ばない時がある。それは当然向こうもそう思っているわけだ。こいつらナンデこんな事で悩んでるんだ?っていう素朴な疑問だ。
あまりの素朴さに閣下が苦笑している。
「我らの悩みなど森人からすればこの程度か。人の世の問題など他種族の価値観を取り入れれば消えてなくなるかもしれん」
「かもしれぬの。とはいえそのままというわけにもいくまい」
「でしょうな。だがそれは我らの考えることだ」
「そうしてまた同じ道に戻るか。おぬしはトールマンにしては聡明な男と見たが自分本位にすぎる。たまには他人の頭に期待してもみるがよい」
「古き森人の御教えならば聞く価値もあるのだろうな」
「頭の固いやつめ。価値こそが元凶じゃと言っておろう」
「だが森人の社会形態にも価値はあるだろう。長老衆が上位にあり彼らによって集落が運営されるのなら彼らは高い価値を有しているのだ」
「ワシも含めて長老なんぞは困った時の相談役というだけじゃ」
長くなりそうだ。森人に論戦を仕掛けるなとは有名な話であり、エルフってのは相手をどうにかして論破しないと気が済まない、絶対に負けを認めない種族なのだ。
意識の高い守銭奴VSロリババアの討論会が火がついたみたいに燃え上がる。アーサー君なんていつの間にか帰ってるもんよ。
解散の前にお礼を言っておこう。
「ウルドの治療に感謝を。少ないけどこれを納めてくれ」
「別にいいのよ。いいけどその分は帝都に帰ってから教会に寄進してちょうだい」
教会? アルテナ神殿のことかな?
この時の俺はまだ知らなかったのだ。ラストさんが帝国に来たことで布教の好機とばかりに聖アルテナ教会とかいう異端宗教が教会を構えていた事実を知らなかったのだ。
異端宗教とのバトルはまだ先の話さ。
「じゃあ現地解散ってことで」
「僕らの別荘ここなんだけど……」
それは守銭奴とウルドに聞いてくれ。
価値を争点に現代経済学から歴史をたどるみたいに時代を逆行しながら背高人と森人の価値観を議論していってるじゃん。教養のある人たちの会話って面倒くさいよね。
◇◇◇◇◇◇
お嬢様を探しに外に出て広域探査魔法を放つ。別に迷彩もされていない魔法力の反応が遊林道の方から返ってきた。
ジョギング感覚で迎えにいくと彼女の小さな背中を見つけた。
とぼとぼと歩きながら別荘から遠ざかろうとする寂しげな背中を抱きしめる。
「リリウス?」
「はい、あなたのリリウス君です」
「……奥さんを放っておいていいの?」
「守銭奴と討論を始めちゃったんで」
「そう」
しおらしいな。しおらしい美少女とかオラ大好物だぞ。
なんて冗談で笑える気分じゃねえよな。
「おにーさまは何て?」
「孤独と不安が心を鍛える。愛するならばお嬢様の成長をこそ喜んでやれと」
「本当にらしいセリフね。おにーさまが強いのはきっとご自身で悩み続けてきたからなのね。……どうして来たの、放っておけって言われたんでしょ?」
「何事もいきなりはよくありません。傷つくにしたっていきなり致命傷だと辛いでしょう」
「そこまで弱くないわ」
「そうは見えません」
抱きしめる俺の手に手を添えて俯いてしまったお嬢様が「うん、本当に温かい」って言った。言葉選びが謎なのでどんな心境なのかよくわかんない。
「肉親のいない家でおにーさまはどんな気持ちだったのかしら」
「案外気にしてないと思いますよ」
「そんなわけが!」
怒鳴ろうとしたお嬢様の勢いがすぐに萎んで、振り返った。腫れた目で可愛いんだ。
「気にならないの?」
「血のつながりなんてどうでもいいですね。ほぼ他人の家で育った俺が言うんだから間違いありません。漁食癖を一旦置けば親父殿はまぁ尊敬できないこともない父親でした。兄貴たちもやべーやつらでしたいつもケンカばかりしてましたが今じゃあ仲良しです。弟のアルドは可愛いやつです。余所にいる親父殿の隠し子もいい子ばかりです。母親がちがうなんて気にしたこともありません」
気にしたことが全然ないと言えばウソになるが今じゃあどうでもいい。
そんなのガキの頃だけの小さな悩みだ。そんな小さなことで悩んでいるやつがいたら声を大にしてこう言ってやりたいね。そんなの大人になるとどうでもいいぞ。両親なんて数年に一度会うか会わないかの希薄な関係の他人でしかない。悩む暇があれば勉強しろってね。そっちの方がずっと大事だ。
「例え俺が両親ともちがう人から生まれていたとしても親父殿のことは尊敬してましたよ。兄貴たちとも今みたいに仲良くなってます。アルドのことだって他の弟や妹だって大好きです」
「あなたは強いのよ。でもそうね、おにーさまも強いもの。わたくしとちがって」
「他人の気持ちを思いやれる以上の強さなんて必要ありません。それ以上は怪物の強さです。お嬢様もじゅうぶんに強いと思います」
「心配してきてくれたのに?」
「強くなりすぎると困ってしまいますので」
「ばかね」
涙目で笑いだした彼女が綺麗で思わず手を伸ばしかけてしまった。自制する。この手はなんだと引き戻す。不思議そうに見つめ返してくるこの美しい竜公女は未だ本当の愛を知らないのだ。
「リリウス?」
「もし人生を変える体験をなさりたいというのなら今からそこの茂みでどうです? 男女の世界を教えてあげましょう」
悪戯小僧っぽく舌を出しながら冗談にした。
呆れた感じでくすくす笑う彼女の様子に、俺自身にこれでいいのだと言い聞かせる。
「九人目の女にしてくれるってわけ~?」
「このリリウス・マクローエン、余人の百倍の愛情を注ぐと誓いましょう!」
「ばぁーか、わたくしはわたくしだけを愛してくれる人がいいわ」
「それは残念」
「うん、残念ね」
残念、この行く宛てのない、届けてはいけない想いの結末はこれでいい。
古代の王のように十人でも百人でも愛していい。だがこの御方にだけは触れないと決めたのだ。
「じゃあ俺はここで。ちょいと気に食わないやつをぶっ殺しにいくんで」
「クリス様と戦うの?」
「妻を殺されかけた代償を取り立てにいくだけですよ。命には命が相応しい」
止められると思った。だがそうではなかった。
付いて来てくれるから理由を聞いてみたくなった。
「止められるかと思いましたよ」
「皇族を恐れてへらへら笑って曖昧にしてしまうようなつまらない男を騎士にした覚えはないわ。騎士なら名誉のために戦いなさい」
この強さにこそ憧れ、愛した。
だがいつかこの強さこそが彼女を殺すのだと知りながら改めてもらおうという気にはなれない。鳥は飛ぶ姿こそが美しく、竜ならば誇り高くあるべきだ。
クリストファーの別荘に乗り込む。
庭を掃除していた女中が寄ってくる。邪魔だな。
「無作法な、どちらのご家紋の方であれ先ぶれの来訪はお断りしております。出直していらっしゃい!」
「死んでろ」
指先で顎を弾く。常人なら首が跳んでいたはずだが堪えた。魔法力か闘気かによって肉体の硬度を上昇できる程度の雑魚ではあるらしい。
「ちょっ―――」
お優しいお嬢様が慌てている。だが今は邪魔者に優しくできる気分じゃねえんだ。
膝が揺れて動けない女中を放置して玄関を蹴破る。
バルニデール王朝調の敷居のない屋敷の奥にクリストファーがいる。幾つもの柱と観葉植物のプランターを隔てて、ちょうどソファから立ち上がったばかりのクリストファーが呑気にも口を開こうとした。
遅いな。あまりにも遅い判断と温い行動だ。ウルドに手を出したらよぉ、もう戦争中なんだよ! 言葉で止まる段階じゃねえ!
全速で肉薄する。稲妻となってすれちがい様にやつの首を刎ねる。刎ね跳ぶやつの頭部に片手斧を振り下ろして床に叩きつけてやる。
「クソが!」
やつの頭を踏みつける。まったく頑丈な頭だ。何度踏みつぶそうとしてもボーリングの球を踏んでいるような手応えだ。
頭部を失ったやつの胴体が剣を抜いて襲いかかってくるが―――
その一撃を肩で受ける。神器ではない聖銀の代剣が俺の肩筋の弾力とやつの剛力に押し負けてバキンと折れて宙を舞う。……舐められたもんだぜ。
怒りが吹き上がる。憎悪が俺を支配している。王の怒りが我が身の全霊を引き出してこの一撃は王の行いとなる。死のちからを込めた足を振り上げ、下ろす。
踏みつけた踵がぐしゃりとイイ感触でやつの美貌の頭部を破壊してくれた。
「害獣がッ、最初からこうしていればよかったんだ!」
「リリウス、あなたなんてことを……」
遅れてやってきたお嬢様が呆然とし、ぺたんとしゃがみ込んだ。
ソファの並ぶ談話スペースにいる人達も悲鳴をあげながら呆然を表情としている。誰もが今眼前で行われた暴挙を信じたくないって面してる。
誰もがクリストファーが死んだと考えている場で、俺だけがやつの魔法力の高まりを感じている。
「この程度で死ぬようなタマじゃねえよな? いいや、もうとっくに死んでるのか」
クリストファーの肉体が光の粒子になって解けて消える。
これと同時に眼前に完全復活を遂げたやつの顔面に膝を叩きこむが腕で掴まれた。馬鹿め、こいつは二段攻撃だ。膝蹴りから首を狩る死神の鎌のように放ったつま先で後頭部を打ち据える。
あんま効いちゃいねえようだ。無理やり掴みにきたんで袖釣り込み腰にしてぶん投げてやる。すぐにマウントポジションに入れ替えて顔面に拳を叩きこむ。……いい目だ。俺を見る時はその目でいろ! 馴れ合うな!
「てめえの正体は死霊だ。いつくたばった? 俺達と出会う前だろ、竜の谷か? いいや、皇女クラリスを吹き飛ばした時だな? 仇を殺すつもりがてめえまで吹き飛ばしたってわけだ笑えるぜ!」
「答えが欲しいのか?」
「まさか。楽しい楽しい殺し合いの花だろうが!」
叩きこんだ右腕を掴まれる。左腕も叩きこんだら掴まれた。……腕がピクリとも動かせねえ。
竜人の剛力か。まったくこいつとの接近戦はやること自体が間違ってるな。
こいつは見かけは人でも中身は聖銀竜だ。長巨大質量体を凝縮したこいつは人間サイズの竜だ。どれだけ鍛えたところで人が竜にステゴロで敵うわけがねえってか。
「≪王よ、供物だ、さあ持っていけ 絶対の死を此処に≫」
わかってんだよ。人のままじゃてめえには勝てねえって最初からわかってんだよ。
十二の試練を十はずした。てめえはこれで殺す。
「≪殺害≫」
俺の影を伝って殺害の王の影が疑似降臨する。
でけえ骸骨の王が大ナタを振り下ろしてクリストファーの頭部を叩き割る。……殺せたって感じではない。大きく削ったという手応えだ。
再び肉体を再構成したクリストファーだが今度は距離を取っている。……いいぞ。
「そうだ、いいぞ、警戒しろ、全力で俺を見ろ! 俺を恐れろ! 馴れ合うな、話しかけてくるな、俺はてめえの敵だろうが!」
「わかった。本気なのだな?」
あぁ本当にお前は煽りが得意なんだな。
俺よりも俺をイラつかせるやつは初めてだ。殺したくて殺したくて殺したくて仕方ない! お前は美味そうで喰いたくて喰いたくて仕方なかったんだ。このけがれた世界をお前の棺に添えてやろう。お前が寂しがらないように従僕も送ってやるぞ―――
「おやめなさい!」
何者かに頭部をスパンと叩かれて、そいつの扇子がぽっきりと折れ飛んでいった。
邪魔者は殺そう。と視線をあげるとどっかで見た顔だ。
「アイリーンか、すっこんでいろ」
「だまらっしゃい! 何ですか若い男どうしで取っ組み合って騒々しい。これはいったい何なのですか!」
キンキン声でうるさい羽虫が煩わしい。殺そう。殺せば静かになる。
殺そう。この世界に唯一価値持つは死の静寂のみ。俺の眠りを妨げるものは殺さなくてはならない。
「何ですかその目つきは?」
「下がりなさい! アイリーン、この男は変です。狂っています!」
「やめて、やめてぇリリウス!」
邪魔をするなと腕に飛びついてきた小さな少女の首に手を添える。野花を手折るように簡単に折れそうな首なのに
なのに
なのに
なのに、どうして、この腕は動かない。
「お願いやめて。ちがうでしょ、こんなのちがうよ、お願いよリリウス、わたくしの剣なら誇りを忘れないで。こんなのちがうよ……」
何がちがうのか。何を言っている?
お前が何を知っていると? 闘争の果てに死がある。殺害のあとに死が訪れる。何が挟まる余地もない。
この意思こそが絶対の死。逃れるものを許してはならない。
「騎士なら誇りを忘れないで。あなたはわたくしの騎士でしょ。バートランドの騎士なら正々堂々と戦いなさいよ」
「……黙れよ」
「あの誓いは嘘だったの……?」
誓い……?
「本当は嫌だったの? こんな情けない主に仕えたくなんてなかった? せがまれたから仕方なく剣を捧げるふりだけをしたの?」
そうだったか?
記憶を辿るように情景が蘇る。降雪の日、誰もいない凍りついた都の広場に咲いた可憐な赤い薔薇と……
そうだった、そうだったな、この少女を守ると誓ったよ。
昔からだ。何度もだ。何度も誓って失敗してきた。自分が情けなくて逃げ出したこともあった。
「せがまれた覚えはない」
忘れちゃいない。忘れてなんかいない。
だから泣かないでくれ。貴女に泣かれるのは苦しいんだ。
「この剣を捧げると決めたのは俺の方からだ、そうでしょう?」
「そうだったかしら」
「そうですよ。まったく自分が嫌になる、この手で何をやらかすところだったのか」
「ほんとよ。殺されるかと思ったわ」
「申し訳ない。……キスをください、あの夜のように。こんな悪い夢からは早く目を覚ましたい」
「キスで目が覚めるの?」
「覚めますよ。愛が世界を救うってのは物語の定番です」
「これは物語じゃないわ。でも悪い夢なら終わりにしないとね」
彼女の唇がこの唇に触れる。
愛が世界を救えるかどうかなんて俺にも誰にもわかりゃしない。愛にそんなちからがあるなんて誰も信じてない世界で愛は野花のように儚く弱いからだ。
だが唇が触れた瞬間に俺の頭はパッカーンと真っ白になり、天上の鐘がリンゴンと鳴り渡る音を聞いた気がする。……???
あの夜ってほっぺにキスだったような気がしたが、いまだけは都合よく忘れておこう。




