神棚の貧乏神 (短編15)
台所に古くてちっぽけな神棚がある。
オレが置いたものではなく、以前の住人が残していったものだ。
このアパートに移り住んで、三か月。
取りはずして捨てるのはめんどう。あっても邪魔にならないので、今もそのままにしてある。
この神棚。
拝むどころか、一度だってのぞいたことがない。天井近く――見上げる位置にあるので、イスでも使わなければ顔が届かないのだ。
ある夜。
コンビニのバイトから帰宅し、冷蔵庫から缶ビールを取り出したときだった。
「なあ、ワシにも」
背後から、かすかに声が聞こえた。
――えっ?
ふり向くもだれもいない。
いるはずがない。
オレは独り暮らしなのだ。
ところが……。
「そいつをワシにも」
またしても声がした。しかも今度は、はっきりと耳に届いた。
――となりの住人?。
おんぼろアパートだ。薄い壁ごしに、たまに隣人の声が聞こえてくることがある。
缶ビールを一気に飲みほした。
冷えたビールがハラワタにしみわたっていく。
「あっ、ワシにも……」
また、さっきと同じ声が聞こえた。しかも頭のすぐ上からである。
――まさか?
神棚を見上げるに、なんとそこには手の平ほどの老人がいた。神棚にちょこんと腰をかけ、足を前後にブラブラさせている。
目をこするとは、まさにこうしたときのことをいうのだろう。
オレは目をこすって見直した。
老人は消えなかった。それどころかオレに向かってしゃべった。
「みんな、飲んでしまったのか?」
「ああ」
つい返事をしていた。
「そうかあ」
老人がいかにも残念といった顔をする。
神棚に現れたのだから、この小さな老人はおそらく神様なのだろう。それにしては、なんともみすぼらしい身なりである。
オレは確かめるようにたずねてみた。
「もしかしたら貧乏神?」
「あいにくだが、そのとおりだ」
老人が肩をすくめ、ちょこっと笑ってみせる。
「やっぱり」
今の状況を考えると、オレはこの現実を受け入れざるをえなかった。
勤めていた会社が倒産。預金も底をつき、コンビニのバイトでもって、その日暮らし。この古いアパートに引っ越したのも、負担の大きな家賃を節約するためだった。
「ここにはずっと前から?」
「ああ、このアパートができたときからな。住み始めて、もう三十年近くになる」
「ではこの神棚って、前の住人のものではなかったんですね?」
「これは五年ほど前の住人のものだ。だがな、こんなものはなくてもかまわん。ワシらはな、雨風さえしのげれば、それでいいんだよ」
「でも、今はそうして神棚に……」
「なに、ここにおると、たまに食い物がもらえることがあるのでな」
貧乏神が照れくさそうに口元をゆがめる。
「すみません」
これまでまったくの無関心。食べ物どころか、オレは水さえ供えたことがなかったのだ。
「気にせんでいいぞ。人間というものは、おおかたそうしたものでな。こまったときにだけ、ワシらに頼みごとをするものだ」
「こまったときの神頼みですね」
「そういうことだな。だがワシらは、どんな者に対しても分けへだてはせん。望みがあれば、オマエも言ってみるがいい」
そう言われても……。
うれしさがちっともわいてこない。なにしろ相手は貧乏神、頼るほど貧乏になってしまいそうだ。
「で、どうして貧乏神のあなたがここに?」
「理由などない。ただ、そういうことになっておるからだ。そしてオマエが、ワシのいるところに引っ越してきたまでだ」
「じゃあ、たまたまってことに」
「たまたまというのはちょっとちがってな。オマエが貧乏だからだ」
「ですよね」
そのとおりなのだ。金さえあれば、こんな古いアパートは選ばなかっただろう。
ようは、金のない者は貧乏神に行きあたるようになっている。そして、さらなる貧乏になるのだろう。
だが、オレとしては受け入れがたい。といって、今さらよそに引っ越す金もない。このさい、貧乏神の方に出ていってもらうしかなさそうだ。
「申しあげにくいんですが……」
あとからやってきた弱みで、つい言葉がつまる。
「なんだ、望みか?」
貧乏神がブラブラさせていた足をとめた。
「もし、もしもですよ。ボクがこれから先、ずっと貧乏だったら、それはあなた様のせいでしょうか?」
「なんだ、そんなことを心配しておるのか」
「はい。だって、あなた様は貧乏神だと」
「貧乏人のささやかな望みをかなえる。それがワシら貧乏神の仕事だ。貧乏にするために、こうしているわけではない」
「では、貧乏になるのはあなた様のせいではないんですね」
「もちろんだ。金持ちになるも、貧乏になるも、すべてオマエしだいだ」
「すみません。あなた様がそばにいると、てっきり貧乏になるのかと」
「なにを言う。ここに来る以前から、オマエは貧乏だったではないか」
「ですね」
そう、オレは貧乏だ。預金もない、その日暮らしの立派な貧乏人だったのだ。
「オマエら貧乏人は、自分の貧乏をワシらのせいにしておるだけだ。そうやって努力をせんから、いつまでも貧乏から抜け出せんのだ」
貧乏神にさとされた。
そのとおりなのかもしれない。
金は金を呼びこみ金を集めるというが、貧乏人は自らの手で貧乏を引き寄せているのではなかろうか。
「ささやかな望みをかなえる、それがあなた様の仕事だと、さっきそうおっしゃいましたよね」
「ほんのささやかなことしかしてやれんがな」
「なら、ひとつお願いが」
「えんりょせんでいいぞ。金を出せと言われても、そいつはできんがな」
貧乏神が笑ってみせる。
「じつは母さんのことなんです。近ごろ体調をくずして、入退院を繰り返してるんです。いえ、ひどくはないらしいんですが、それでも気になって……」
貧乏なら自分が我慢すればすむ。しかし、遠く離れて暮らす母親のことはどうにもできない。
「くわしく話してみろ。できるだけのことはしてやるつもりだ」
貧乏神はうなずいてくれた。
オレは独り田舎で暮らす母親のことを話した。できることなら健康で長生きをさせてやりたいと。
「どうもタチの悪い疫病神が、そこに住みついておるようだな。むずかしいかもしれんが……」
貧乏神は考えこむように腕を組んだ。
「かなえられますか?」
「わからんが、できるだけのことはやってみよう」
「ありがとうございます。これから毎日、水とマンジュウをお供えしますから」
「できたら酒を」
貧乏神がニヤッと笑う。
次の日。
バイト先のコンビニで酒を買って帰った。さっそく神棚にお供えする。
だが、その晩。
貧乏神は姿を現さなかった。おそらく母親の暮らす町に行ってくれたのだろう。
――うまくいけばいいが……。
オレは心配だった。
ことがうまく運ばなければ、母親はいつまでも健康になれない。
――帰ったほうがいいのかもな。
母親といっしょに暮らすため、ここを引き払って田舎に帰ることを考えた。
だが、ためらう。
そこは小さな町なのだ。働き口など、たやすく見つかるとは思えない。かえって金銭的な迷惑をかけてしまう。
三日間。
オレは田舎に帰るか帰るまいか思い悩んだ。
そんなこと、これまで一度だって考えたこともなかったのに……。
三日目の夜。
貧乏神が神棚に現れた。
「あの疫病神、なかなかしぶといヤツでな。説得するのに苦労したよ」
開口一番、うまくいったことを教えられた。
「それでは、母さんは元気に?」
「もちろんだ」
「じつはボク、母さんと暮らすことに。やっぱり心配なもので」
この三日間、悩んだ末に出した結論を貧乏神に伝えた。
「そいつはいい。なによりもいいことだ。おふくろさん、たいそう喜ぶだろうよ」
貧乏神は手放しに賛成してくれた。
「あなた様のおかげです」
「いや、決めたのはオマエだ。ところで、ここに酒があるが」
神棚に酒が供えられていることに、貧乏神がやっと気づいた。
「お酒がいいからって」
「おっ、そうだったな。何年ぶりかな、酒にありつけるのは。これまで、よくて水だったからな」
貧乏神が苦笑いを浮かべる。
「すみません。ボクは水もお供えしなくて」
「いいんだ、気にするでない。ところで、オマエの新たな門出に乾杯しようではないか」
貧乏神が酒の入ったおチョコを手に取る。
「はい、やります」
オレは冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「カンパーイ」
オレはビール、貧乏神は酒、二人声をそろえ乾杯をした。
「よろしかったらいっしょに、ボクの田舎へ行きませんか?」
貧乏神をさそってみた。
「いや、ワシはここに残るよ」
首を横に振ってから、貧乏神は言葉を続けた。
「ここには、ワシを必要とする者がかならずやってくるのでな。それにオマエは、ワシがおらんでもだいじょうぶだ」
「でも、ボクがいなくなったら、お酒、たぶん飲めなくなりますよ」
「かまわんさ。酒を飲むために、ここにいるわけじゃないからな」
「そうでしたね」
「だが、やはり酒はいいな」
貧乏神はグイとおチョコを飲みほし、それからゴーカイに笑った。