三湯
修と恭花は、電柱から向かいの瓦屋根の建物を見据える。
恭花は興奮を押さえきれず、修の腕を掴んで揺さぶった。
「ねえ、絶対あれだよね?」
「騒ぐなよ、和泉。まだそうと決まったわけじゃない。確かな証拠を得られるまで動くのはやめよう」
ここに至るまで道のりは容易なものではなかった。言い出しっぺの恭花が銭湯の場所を知らず、修がスマホで調べた。運よく町内で一件だけ随鳳の湯という銭湯があるのを発見した。そこは隣町に接する場所にあり、バスで行くべきだと修は提案した。だが、恭花は聞き入れない。
「せっかくだから歩いていこうよ。バスは帰りだけでいいでしょ」
一見、無目的な反発に思えたが、恭花の懐が寒いのではないかと修は察した。恭花の家はあまり裕福ではないという噂がある。
煙突を目指して歩きだしたが、恭花は足が痛いと文句を垂れ修の忍耐を試した。
それらしい建物をようやく見つけた時には二人は、不仲を忘れハイタッチした。その後、二人は銭湯に入る機会を狙って電柱に隠れている次第である。
「てゆうか、あんたビビってるだけなんじゃ……」
「……」
修は咳払いし、不服を訴えた。物怖じしているのは図星である。それを誤魔化す意味もあった。
トラックが目の前の通りを通過し、ライトで恭花の赤らんだ頬が露わになる。修は決意を固める。
「行くぞ。ここにいても寒いだけだ」
「う、うん……」
修は自然と恭花の手を握っていた。恭花もそれを頼みにするように握り返す。
「あ!」
恭花が驚きの声を上げる。修は手を離し、辺りに注意を払う。
視線の先には、道路を横切る何の変哲もない三毛猫がいるだけだ。恭花は目を潤ませその動向に目が釘付けになっている。
「ヤバイヤバイ! 猫だ。カワイー、写真撮らなきゃ」
黄色い声に、修は辟易とした。女子の考えはよくわからない。
「たかが猫くらいで。ほら、もう行くよ」
「あーん、ちょっと待ってよ。カワイイよ。後藤も触ってみなよ」
三毛猫は恭花のことなど意に介すこともなく通りを横切り、銭湯の方に近づいていく。そのまま見送ると銭湯の木戸の下に備えつけられた猫用の小さな出入り口から中に進入していった。
「ねえ! 見た?」
恭花に揺さぶられ、修は我に返る。
「猫でも入れるんだ。なら僕らだって」
音を立てないように引き戸を開け、中に踏み入る。
正面に番台があり、左右に、男、女と大きく書かれたのれんが掛けられている。男の暖簾は藍染、女の方は朱色だった。
番台の上に先ほどの猫が丸くなっている。紫色の小さい座布団に違和感なく収まっていた。
「ねえ、後藤、何かヤバいんだけど」
小声でうろたえる恭花をよそに、修は落ち着いた様子でげた箱に靴を仕舞った。
「ヤバいって何が?」
「あたしどうすればいい。何も持ってこなかった」
修は嘆息した。
ここからは恐らく別行動になるだろう。修が導くには限界がある。だから同姓と来ればいいと忠告したのに、今更後悔するように、助言を求められてもどうにもならない。
「君が言い出したんだから、下調べくらいしてくるのが普通だろ」
押さえつけるような正論に、恭花はこれまで以上に反発した。
「うるさいうるさいうるさい! グー○ル先生がいないと何もできないくせに! エラそうにすんな! マジありえない。何でそういう言い方しかできないわけ? ほんと最悪……」
恭花の目に涙が滲んでいる。修は気勢をそがれて顔を背ける。
「喧嘩はおやめ」
二人の頭上から高飛車な声が降ってきた。番台にいるスウエットを着た老婆のものだった。
「ここは銭湯だよ。ここでは敵性外国人だろうと同じ湯船につかるのさ。レーガンとゴルバチョフもうちに来たことがあるんだよ」
修と恭花はそろって、あんぐりも口を開けた。
「……、あんたらには早かったかね。まあ肌を見せ合えば、わかりあえることもあるということさ。さ、二人ともさっさと服を脱いで暖まっちゃいな!」
老婆とは思えぬ身のこなしで番台から飛び降りると、恭花の服を脱がしにかかる。
「いやああああっ! 後藤、見るな! 見るなあ!」
恭花の断末魔の悲鳴に修はいたたまれなくなり、男湯の暖簾に駆け込んだ。
恭花のすすり泣きがしばらく聞こえてきた。あの老婆は、この銭湯の主であろう。命を取られはすまい。
暖簾の奥には籠の入った棚が左右にあり、そこに衣服を入れるようだ。体重計の側のガラス戸からいよいよ湯殿となる。
修は恭花のことを一時忘れ、服を上から一枚ずつ脱いでいった。恭花とは違い、あらかじめシミュレートした通りだ。問題ない。
タオルを持ち、肋骨の浮いた細い体を前かがみにしながら、湯殿への扉に手をかける。湯気が鼻と言わず、目を覆う。
修の視野は壁に描かれた富士山の絵と、奥の湯船に吸い寄せられた。
家の湯船の倍はあろうか。何層かに仕切られているが、左奥にはジャグジーが備え付けられていた。
修はふらふらと誘われるように湯船に近づこうとしていた。
「こら」
裸のおじさんが、修の頭を桶で小突いた。トドのように体の肉がたるんでいる。
「体を洗ってから入るんだ。知らないか?」
修は忘れかけていたルールを思いだし、赤面した。
「す、すみません。初めて来たもので。そうします」
シャワー台に座ると、修を叱ったおじさんはどこにも見あたらなかった。少しほっとした。
「あちっ!」
シャワーから出るお湯が熱くて驚いた。どのように調整するのかわからないので、隣の人のするのを見よう見まねで真似た。
タオルで背中を流し終えると、いよいよ湯船に浸かる。手を入れて温度を確認してから全身を入れた。肌が痺れるほど熱い良いお湯だ。寒天を歩き通して浴びたためか、全身が震えた。
修の体積を加味したように、お湯が湯船からだくだくと溢れだす。
「ラッキーだよね」
修は左右を見回す。六十代くらいの男性がすぐ隣にいた。目を閉じている彼が話しかけたのかと思ったが、そうではなかった。
「今日、冬至じゃん。ゆずが一杯浮いてるよ」
声の言うとおり、修の目の前を不格好なゆずが何個か横切る。
「もしかして和泉?」
左手の壁に小さく訊ねた。
「結構壁薄いね。そっちはどう? 後藤」
忘れかけていたが、恭花も無事に湯船にたどり着いたようだ。くつろいだ会話が続く。
「快適。ちょっと熱いけど」
「あたし超ヨユー。後藤は、やっぱママの所がお似合いなんじゃね?」
先ほどのことを根に持っているようだ。せせら笑う声が勘に障る。
「じゃあ和泉は僕より長く浸かってられるんだな」
挑発に対し、しばらく返答はなかった。ややあって、
「当然でしょ、お子さまの後藤になんか負けないんだから」
売り言葉に買い言葉。こうして我慢比べが始まった。
このお湯は、修が普段入っている風呂の温度に比べ熱い。43℃以上はありそうだ。
既に茹で蛸のようになりつつある修には過酷な試練となった。
「和泉ー? やめるなら今のうちだからな」
「……」
修は心頭滅却すれば火もまた涼しという言葉に拠り所を見いだそうとした。しかし五分もせずに己の限界を悟り、腰を上げてしまった。
「僕の負けでいいよ。和泉ものぼせないうちに出た方がいいぞ」
恭花の返事を待たずして、修は意識をもうろとさせながら脱衣所に向かった。
体を拭っている間も、万一恭花が倒れたらどうしようという不安が沸き起こっていた。
負けず嫌いで、さらに修に対抗心を燃やしていた恭花なら無理をしかねない。
「すみませーん」
修は番台にいる先ほどの老婆に、恭花の様子を確かめてもらった。
「あの子ならあんたより早く上がって、いちご牛乳を飲んでるよ」
修は心配をして損をしたと思った。
「あんたも何か飲みな。顔真っ赤だ」
「余分なお金ないです。あとそうだ、ここの料金まだ払ってないんですけど」
老婆は、ひびわれた鏡餅のような顔を綻ばせた。
「サービスしとくよ。その代わりまた来ておくれ」
修はお礼を言って、コーヒー牛乳の瓶を受け取って飲み干した。薄い苦みで、けだるい熱気が少し晴れる気がした。