一湯
一
後藤修が、五年二組の薄暗い教室の片隅に一人でいる姿が担任の目に留まった。
「お前、大丈夫か? 悩みあるなら聞くぞ」
さらに要らぬ心配までされ、修はますます居場所を失う。ランドセルの肩ベルトを無意識に強く握り締めていた。すぐに外に出られるようにPコートを着用している。本来ならとっくに下校している時間だった。
修はちらりと教室の時計を見上げる。四時に近い。今日は冬至で日が落ちるのが早い。通りで薄暗いはずだ。
修は人を待っていた。
居残った末、最後の一人になるまで待たされるとは思っておらず、どうにも弁明のしづらい状況に陥っている。
その最中、気まずい沈黙を破るような上履きの足音が、廊下を躍進していた。
「お待たせえー!」
走って来たのか、息をぜいぜい切らしながら和泉恭花が教室の扉を叩いた。
恭花と修は今の学年になり、初めてクラスが重なった。
そこでわかったことがある。和泉恭花は、ドッジボールが滅法強い。
心臓に特注のモーターでもついているように俊敏で、男子の投げる球を難なく避ける。しまいには男子も本気で投げるが、当たった所を修は見たことがなかった。
恭花はソフトボールをやっているらしく、投げる方も激烈だった。隙がない。
性格は活発。勉強は苦手なのか、同姓同名の作家、泉鏡花の小説を読んでゲロをはきそうになったことがあるらしい。
恭花は同年代の女子の中でも小柄で、修とは背の順で近くに並ぶことになる。その縁で話したことがある。
その程度の情報しか修は知らない。ゲロを吐いたかどうかも噂程度でよく知らなかった。
表層的な付き合いに終始しないと、危険だ。クラスの人間関係で落伍するわけにはいかない。対人関係に気を遣うスキルは大人よりも自信がある修だった。
そのため和泉恭花に、放課後教室で待てと言われ、単純に舞い上がる彼ではなかった。
修を笑いものにしようという罠の可能性に怯えていたが、恭花は一応約束を守った。その点に関しては評価できる。
「ごめーん、ちょっとあんたのこと忘れて帰りそうになったわ。あはは!」
並んで教室を出た際、悪びれもせずに大口を開けて笑う恭花を前に、修は眉をひそめた。
二
恭花は教室に修を待たせた理由を、一緒に帰った友達と別れてから学校に引き返したためと説明した。その念の入りようを修は責める気にならなかった。
それを納得した上で、学校を出て横断歩道を渡り終えても、恭花は果たしたいであろう用件を語ろうとしなかった。
ガードレールに片手を当てて歩道を歩く恭花の背中は今か今かと話したがっているように疼いている。
水色のダウンに派手なデザインのオニツカタイガーのスニーカーが、目にうるさく映る。
「いい加減何か話してくんない? 和泉」
お茶を濁されるのに我慢ならなくなり、修は恭花を急かした。
「何か」
「ふざけてんなら帰るよ、僕」
「あー、ワリ。待って、後藤。話すから」
縋るように飛び込んでこられ、修は目をそらす。
「実は、あたしんちの風呂が壊れた」
「うん。意味わかんない帰る」
「あーっ! NO! 待って。お願い、助けてよ。ヤバいんだって」
修を引き留めようと必死に腕を掴む恭子の手の力はそれなりに強い。払いのけることもせず次の言葉を待つ。
「何か水道管が壊れたらしくて、お母さんは明日には直るって言ってるけど、でも寒いし、入りたい。お風呂」
恭子の桜色の唇が震えている。修は彼女の女子らしい一面に驚かされた。
「ねえ? 聞いてんの? 後藤。あたし困ってるんだよ」
「あ、うん。事情はわかってきたけれど、どうして和泉が僕を必要としてるのかがわからないよ。僕は魔法使いでも水道業者でもない。力になれることは何もない。悪いけど」
「それ!」
和泉は息がかかるほど顔を近づける。
「あんたは他の猿みたいな男子とは違う。きっちり線引きができる賢い奴だって思ってる」
賢い。物は言いようだと修は思った。やはり恭花と自分には垣根がある。望みは叶っているため何も言わずにおく。
「あたしと一緒に」
恭花は、眼下の町中に一際伸びる灰色の石柱めいたものを力強く指さした。
「お風呂を探そう」
修も風の噂に聞いたことがある。銭湯という歴史的遺物がこの町に眠っていると。しかし、あくまで噂の域を出ておらず、クラスの誰もその場所にたどり着いたという話は聞かない。
「相撲取りが十人入る湯船があるんだって。あととてもおいしい飲み物があるんだよ。名前忘れたけど」
恭花は見てきたように話すと、喉をならした。つられて修もその光景を想像してしまう。
「……、って何で当然の如く僕も行くことになってるんだよ。僕は男だし、普通は女子の友達を誘って行かない?」
前述の通り、修と恭花はそれほど親しい間柄ではない。修が早とちりして二人きりだと思いこんでいたとしたら、かなりの失言だが、はっきりさせないことには埒があかない。
「女同士でも色々あんのよ。裸になるとかハズいし……、言わせんな」
「はあ、ごめん」
修にはとんと預かりしれぬ謎があるようだった。
「後藤はあたしに興味ないでしょ」
「ああ、うん。そうだね」
修も恭花も、色恋の危険を知っている。甘い蜜に引かれて、ひどい目にあった者が身近にいたためだ。それからというもの、クラスでは恋愛は御法度と暗黙りに定められた。こうして二人きりでいるところを写真でも撮られてネットに拡散されたら、一巻の終わりだと修も恭花も知っている。
「あたしも、あんたのこと別に何とも思ってないし、だからいいの。あんた口堅そうだし」
だからいいと言われても、修としては納得できるわけがない。修にうまみがないことは自明の理であり、こうしてリスクだけを抱え込んだ下校を一刻も早く終わりにしたかった。
修の及び腰を悟った恭花が、餌をちらつかせて引き留めようとする。
「おいしい飲み物があるって言ったでしょ。それ奢るから、一緒に来てよ」
存在の不確かな飲み物で、のこのこ釣られる修ではなかった。恭花を黙らせる潮時だと彼は幕引きを計る。
「混浴だったら行くよ」
街灯に照らされた恭花の顔はおもしろいように赤くなった。
「や、ちょ、それは……、まずいって、いうか、後藤、は、平気なの?」
修は表情一つ変えずに頷く。
「前に旅行で混浴の温泉に入ったことがある。みんな水着で入ったし問題ないんじゃない」
恭花は、動揺を隠そうと口元を手で覆った。
「ああ! そうだね、プールみたいなもんか。勘違いしてた。そうかそうか、うん」
安堵したのか恭花はしつこく頷いた。
修はそこからさらに揺さぶりをかける。
「そういえば、江戸時代の銭湯ってのぞき穴があったらしいよ。上から見放題だったんだってさ。多分、君の探している銭湯はないと思うけど」
恭花を横目で伺うと、白目を向いた状態で口元を弛緩させていた。
これで無益な冒険に駆り出されずに済むだろう。
危険は去ったと、思いきや。