水彩度
「以上が、貴方―――――連城水樹のここまでの人生の話です。何か質問があれば答えますが?」
白衣を着たカウンセラーを名乗る人物は私にそこまで話すと、大きく溜息を吐いて、手に持っていたバインダーを膝の上に置いた。
私は渇いた喉を動かそうとしたが、まるで糊を塗られたかのような感触があって、上手く動かせなかった。
「……これからの貴方のことをお話ししても?」
高圧的で事務的な声音が私に向けられた。
それだけで目の前の男の神経質そうな内面が透けて見えるようで、私はびくりと身体を震わせて、警戒した。
酷く、自分の身体が疲弊していた。
「先生、待って下さい。もう少しゆっくり進めた方がいいと思います」
室内に居たもう一人の人物が、私の真横から良く届く大きな声を上げた。
私は緩慢に首を動かし、その声の上がった方を見る。
窓からの光を反射する亜麻色の短髪が特徴的な少年だった。少し勝気そうな釣り目と着古した黒いタンクトップシャツからむき出しになった二の腕の日焼け跡がとても活発そうな印象を与えてくる。
華奢で、今にも儚く折れそうな印象を与える色白のカウンセラーととても対照的だと私は思った。
「貴方が口を出すことではないでしょう?」
「そうかもしれません。でも、気になります。先生の話し方はとても一方的に聞こえます」
はきはきと彩人と呼ばれた少年がカウンセラーに捲くし立てた。
音量はとても大きく、その響きには熱さと力強さがあるのに、その声はどこか優しく私には思えた。
安心を覚えてしまうのはここ最近一番聞いた声だからだろうか。
「分かりました。確かに少し焦り過ぎたかもしれませんね」
「まずは、彼女の回復を待った方がいいと思います。全てはそれからだと思います」
そこまで話を進めて、彩人は首を横に捻り、私の方を向いた。
そうして、彩人の両眼がゆっくりと真っ直ぐに私を捉えた。
あまりに真っ直ぐに私を見るので、私は少し身体を強張らせた。
誰かにこんなにも直視されたのはどれくらいぶりなのだろうかと私は自問する。
答えは私の中のどこにもなかった。
当然のことだった。
私は今、私が何者なのかすら分からないのだから。
―――――発端は一週間前の嵐の夜のことだったとカウンセラーと少年は私に説明した。
地元で漁を営む彼――――白瀬彩人が一日の仕事を早めに終え、自宅に帰ろうとしたところで、砂浜にずぶ濡れで寝転がっていた私を見つけた。
すぐにこの界隈で最も大きな病院であるここに私は運ばれた。
大きな外傷はなく、肺に水も入っていなかったため、私はただ気絶して、浜辺で倒れていたものと診断された。
三日後、私は無事に意識を取り戻した。
無事に、箸を使い、文字を書き、トイレに行き、テレビのリモコンを操作し、日本語を話せた。
しかし、問題はここからだった。
私は私のことを何一つ覚えていなかった。
その結果、記憶喪失というフィクションの中でよく聞く単語が私に告げられた。
ただ幸運だったのは、私は私の身分を証明するものを幾つか持っていた。
私の服のポケットに入っていた財布の中から健康保険証と学生証、そして大手銀行のキャッシュカードも見つかった。
すぐに病院から連絡を受けた警察が私の身元を調べて、私が何者であるかを証明してくれた。
連城水樹、21歳、女性、県立の芸術大学の四年生、両親は13歳の時に他界、18歳まで施設で育つ。現在は、県内都市部のアパートに一人暮らし。両親の遺産を相続しているため、預金残高は結構な額が残されている。
様々な自分のことと思えない情報がここ数日、私に一方的に告げられた。
それはまるで、興味もなく知らない物語を他人から聞かされるような感覚だった。
ちなみに、お見舞いに来てくれるような間柄の人間は私にはいなかったようで、今日に至るまで、彩人を別にすれば、誰も私を見舞ってくれていない。
そのことに少し寂しさは覚えるが、やはり他人事に思えてならず、そこまで悲観的に私は考えられなかった。
自分のことが分からないのは怖くありませんかと病院のスタッフや彩人少年は私に尋ねたが、私は強がりでも何でもなく、怖くなかった。
ただ、漠然とした虚無感と何かを忘れてしまったような喪失感のような微妙な疼きだけが私の中に残っているような感触があった。
目覚めて二日して、私はその感触を確かめたくて、彩人少年に私を探す手伝いをして欲しいと小さな声で頼んだ。
人のいい彼は、もちろんと頷き、二人で私を探す作業を始めた。
まずは、私の持ち物をもう一度一つ一つ改めることにした。
そうすることで、何か私を取り戻す切っ掛けになるかもしれないと彩人は提案した。
私が財布意外に持っていたものは地味なクリーム色をしたトートバックだけだった。
その中に入っていたものは主に水彩画を描くための道具だった。
砂と海水に塗れて傷んだ朱色の手帳もそこに入っていた。
中を読んでみようと思ったが、水性のペンで書いていたのか、ほとんど何を書いていたのかが滲んで読めなかった。
かろうじて、読み取れた日付や記述からおそらくは私の日記兼予定表のようなものだったということが掴めた。
最後に、頑丈に糊付けされた背表紙を私はカッターナイフで切った。
とある病院の診察券がその中には入っていた。
私には当然覚えのない物だったけれど。
連絡してみると、すぐに担当のカウンセラーを名乗る人物が私のいる病院へとやって来てくれた。
彼にはここ二年ぐらい、患者として私はお世話になっていたということだった。
そうして、彼は私の知らない私のことを語ってくれた。
それは他人の物語だったけれど。
それから私の日常が始まった。
目に刺さる太陽の光が車椅子に座った私の気分をささくれ立たせた。
病院内の中庭には沈丁花と何本かの向日葵が植えてあり、訪れる者を歓迎するかのように微風に揺れている。
昼食時のため、人気は余りない。
私はすぐに美味しくも楽しくも無い食事を済ませて何の気も無くこの場所に来ていた。
何となく、この場所は私に似合っているようで、つい、足が向いたのだ。
ただ、と私は思う。
この場所はあまりに光に溢れている。もう少し光の明度は控えめでいいと私は思う。
「あ、ここにいた」
明るく良く通る声が私の耳に届く。
「何か思い出せた?」
気配が近づいて来て、傍らで彩人は私に問いかける。
何が楽しいのかその声は今日の天気のように曇りなく明るかった。
私は嘆息して、いつものように微笑を浮かべる彩人に応える。
「……貴方はいつも楽しそうね」
攻撃的になる声を私は抑えられなかった。
その声に込められた感情を知ってか知らずか彩人は唇を綻ばせて答えた。
「そうかい? これでも君のことを心配しているのだけれど」
「……別にそんなこと頼んでいないわよ」
「そうだね。頼まれてもいないからね。でもどうするかは僕の自由だ。違うかい?」
そうねと唇だけを動かして、私は押し黙った。
彼と出会ってまだ数日なのに、私はすでに会話のイニシアチブをずっと彼に奪われている。
「それで、何か思い出せたのかい?」
「……いいえ。何も」
膝の上で重ねた手に力を込めようとして、ぴくりと左手首が微かな痛覚を訴えた。
無意識にそちらに私は目を遣って、気分が悪くなった。
無数の刃物による裂傷の古傷。
古いものもあれば、新しいものもあり、その傷は私の身体の歴史を文字通り刻み込んでいた。傷は全て塞がっているのに、疼く様な痛みだけが生々しく鮮明に体に残っていた。
はっきり言ってその感覚は、とても気持ち悪い。
自分にはまるで覚えのない傷なのに、痛みだけが旧知の友達のようにそこに居て、何かを訴えてくるかのような感覚。
まるで、他人の身体のようと、私は他人事のように思う。
いや、他人事か。私にとっては。
「そうか。ねえ、君、これからどうしたい?」
彩人の声が耳に届き、私は意識を外界へと戻す。
ひゅうと生温い風が舐めるように私の頬を撫で、頼んでもいないのに、太陽の暑さと世界の輪郭を明確にしていく。
「どうって?」
私は首を傾げる。
黒い長い髪がさらりと肩と首筋を撫でて、こそぐったかった。
どうして私はこんなにも長く髪を維持していたのだろうと我がことながら恨めしかった。
「記憶、本当に取り戻したい?」
「……さあ?」
「さあって、君のことだよ」
「違うわ、連城水樹のことでしょう?」
「君のことじゃなかったっけ?」
「そうかも知れないけど、そうではないでしょう?」
私の言葉に彩人は首を傾げた。
「うん? 君は自分が連城水樹だと思っていないと? そういう解釈で合ってるのかな?」
「そうね。だって、それは情報だけだもの。私が私であることの認識の納得にはならないと思うわ」
私は私であるという確信を心中に何も得ていないのだから。
目を丸くして、彩人はふむと腕を組んだ。
「とても哲学めいた話だね。何を持って自分を自分とするかみたいな話かな? これは」
「もしかして馬鹿にしてる?」
「おいおい、どうしてそうなるんだよ? 僕はいつだって真剣だぜ」
「そうは見えないわ。悪いけれど」
「うわあ、酷いなあ。少し傷つくよ」
明るい声はそのままに、彩人は肩を竦めた。
「ねえ、貴方、自分って何だと思う?」
「そりゃあ、僕は僕のことさ。それ以上でもそれ以下でもないよ」
何の迷いもなく彩人は私に応えた。
その答えは真っ直ぐそうな彼らしいと嘆息交じりに私は思う。
「単純ね。聞く相手を間違えたわ」
「でも、あながち的は外していないんじゃない?」
「貴方が狙っている的は私が狙っている的の反対側にあると思うわ」
あるいはきっとよく似た別世界の同じ的。
「反対側? よく分からないな。君ってやっぱり面白いね」
「貴方こそ。とても変わっていると思うわ」
「そうかな? これでもすごく真っ当な人間としてこれまで生きてきたつもりだったけれども」
「そうでしょうね」
彼の曇りのない笑顔を見て、多分この人は自身の存在理由を問うような悩みとは無縁だったのだろうなと思った。
今日も悪夢を私は観る。
衝撃は重く、痛みは鮮明で、恐怖は深かった。
殴られたのだと気が付く頃には私の身体は固く冷えた床の上に投げ出されている。
ゲラゲラと私を傷つける黒い二つの影達は笑う。
楽しそうだ、とても。
「こんなことをして、何が楽しいの?」
私はその笑いの理由が理解できない。
生理的にこの手の笑いは受け入れ難い。
「あら、貴方は知っているでしょう?」
声と共に、彼女は私の前に何の前触れもなく現れた。
これもいつものことと思いながら、私は胃の中にどろりとした気味の悪いものが流し込まれた感覚を覚えた。
黒く真っ直ぐな髪、冷たく光る双眸、病的な白貌。
それは周囲が私だと言う私だった。
「……何を?」
震える声で、私は私に問う。
いや、連城水樹に私は問う。
「また、逃げているのね」
短い手足の私は傷つけられている。
「逃げてなんかいない。いいえ、むしろこんなことから逃げない方がおかしいわ」
もぞもぞと芋虫のように這いまわり、力のない子犬のように丸まって。
「貴方はそうやって自分から逃げてきた」
「だって、こんなこと正面から受け止められないでしょう!?」
我慢できずに、私は頭を抱えて叫んだ。
「それが逃げているのよ」
「逃げてもいいじゃない! 痛いのよ! 怖いのよ! 気持ち悪いのよ!」
「それじゃあ何も変わらないわ」
「変わらなくていい!」
「変わらなければあなたはずっとこのままよ。ずっと虐められて、殴られて、奪われるだけ」
「そんな理不尽なことってある!? 私が何をしたのよ?」
「何もしていないわ。だから奪われるの」
ばしんと大きな音が響く。生々しいその音を私は直視できない。
「したわ! 抵抗もした。謝りもした。擦り寄りもした。でも、何も変わらなかった。止めてくれなかった。誰も助けてくれなかったし、私も救われなかった」
「本当に?」
「したのよ! 何でもした!」
その小さな手足と、幼い頭で必死に考えていたのだ。
「何でも? 本当は解決策が分かっていたのに?」
「それは……、だって……」
私の状況に対する助けを誰かに求めてしまったら。
「だって?」
「そんなことをしたら、この人たちが捕まってしまう」
それだけは駄目だ。そんなことはできないのだ。
「捕まってしまえばいいと、死ねばいいと、いなくなってしまえばいいと思っていたのに?」
「違う! そんなこと思っていなかった」
だって、家族なんだもの。
「思っていたのよ」
「そんなことない! 私は、愛されていたの! だって、ほら、絵上手だねって褒めてくれ……」
目の前で二つの影にクレヨンで描いた三人の人がバラバラに破れていく。
最後の楔を失って、私は言葉を失ってしまう。
「愛していたのは自分だけよ?」
「愛されていた! 愛していたし、愛されてた。私はこの人たちに必要とされていた」
きっとそれだけは私の中にある真実で、穢れのない思いだった。
でも、私は私を許さなかった。
甘い夢と理想だけに浸かることを否定した。
「そう思いたいだけよ?」
「嫌! 違う! 違う! この人たちは私にこうすることで愛情を表現していたの」
頭を殴られる鈍い肉感を持った重い音。
きっとそれはとても痛かった。
「これが?」
「そ、そうよ」
髪の毛を引っ張られる神経を直接傷つけられるかのような嫌な感触。
「こんなものが貴方は愛だと思うの?」
「だ、だって、愛情の表現はそれぞれだもの」
鉄錆の味が口いっぱいに広がっていく。
「話にならないわね、どこまで逃げるの?」
埃と唾液の香り。冷たい床の感触。そして、耳を劈く怒声。
「もう、こんなもの見せないで! 私は……」
私は逃げてなんかいなかった。
持てる五感の全てであの人たちの全てを受け入れようとしていた。
勿論、そんなものはただの間違いだったけれど。
意識が現実という名の酸素を求めて、浮上する。
それが無ければ生きられないのに、過剰に摂取すればそれは毒となる。
はあはあと私は荒い息で呼吸を繰り返す。
両手で胸を押さえて、心音を確認する。
心臓の鼓動は海の音色。
胎内のような、原初の安心の音響。
そんなフレーズをいつか聞いたことがあるような、或いは自分から沸き上がった言葉なのか、とにかく私は自分の音を確認して、平静を奪い返す。
汗なのか涙なのか分からない温い雫が顎を伝い、白いシーツに落ちた。
その瞬間、がらりと部屋のドアが開き、私ははっと顔を上げた。
「おはよう。……どうしたの? そんな固い顔をして」
何の緊張感も無い童顔がそこにあった。
すっと身体に張り付いていた恐怖が解けていく。
「……おはよう。今日も観たわ」
「おやおや、ここのところ毎日だね。大丈夫かい?」
手に持った手提げ袋を漁りながら、彩人はベッド横のパイプ椅子に腰かけた。
「これは何なのかしら。とても不愉快だわ」
一度深呼吸をして、私は額に手をやって、汗を拭った。
「先生には話をしたの?」
「ええ。でも、とても尤もらしいことを言われてそれだけよ。それは貴方の潜在意識が何とかで、記憶を整理しているのだって」
「実際その通りなんでしょ?」
「違うわ。これは連城水樹の記憶だもの」
私は目線を落としながら吐き出した。
「そう、それはとても辛いね」
「分かったようなことを言うのね」
「だって、他の人の過去みたいなものを毎晩のように夢に見るってきっといい夢でも、とても気持ち悪いよね。君の場合は更に辛いことに、あまり気持ちの良い夢ではないみたいだし」
心底心配しているかのような口ぶりに私は少し、気が楽になった。
「……そうね」
「リンゴ持って来たんだけど、食べる?」
彼の手には赤い果実が握られている。
「……いただくわ」
面食らって、私はそう零す。
にこりと嬉しそうに彩人は笑い、慣れた手つきで果物ナイフで皮を剥いていく。
惚れ惚れするほど鮮やかな手際だった。少なくとも今の私に同じことはできない。
あっという間に赤い皮は剥かれ、白い身が露わになる。
そして、無事に剥かれた一欠片を私は口に入れた。
甘味と酸味、そして潤いが寝起きの口いっぱいに広がった。
鉄の味が消えていく。
「おいしい?」
「うん」
素直に私はこくりと首を動かす。
「それは良かった。まだあるからいっぱい食べてね」
心底嬉しそうに、彩人はリンゴを剥く作業に没頭する。
テーブルに置かれたリンゴを見て、私の頭が一度白く光った気がした。
「……ねえ、それ、よく見せて」
「もう一つ食べるの?」
「違う。これって……」
私にとって、馴染んだ風景ではなかっただろうか。
「何か思うところがあるみたいだね」
「……私、リンゴを見ていたことがあるみたい」
私の答えに、彩人がふっと破顔する。
「君の言い回しだと何でも抽象的で難しい話になるね」
「ねえ、描く物ある?」
彩人の言葉を無視して、私は手を差し出す。
呆れたのか、嘆息して、彩人は手提げ袋から鉛筆を取り出した。
「はい」
差し出された彩人の手から鉛筆と紙を受け取ると、私の手は何の迷いもなく、リンゴを白い世界に映し取っていく。
その行為の一つ一つがとても手に馴染む。
「私、何百枚もリンゴを描いたわ」
こうしてコピー機のように映し取れるくらいには。
「記憶が戻ったの!?」
彩人が驚いて、声を上げた。
「いいえ、手と目が覚えているだけ。これは」
驚いた彩人に私は目線を戻さずにリンゴの自動描写を続けた。
「一歩前進かな?」
三枚程描き終えたところで、鉛筆の先がすっかり丸くなってしまう。
鉛筆を置いて、私は顔を上げた。
「果たして進んでいるのかしらね?」
「或いは戻っているのかも。……しかし、上手いもんだね」
彩人は描かれたリンゴの絵を見ながら、感心した様に首を振った。
それは、何の嫌味も無いような称賛に聞こえ、悪くなかった。
「どうなのかしら?」
「僕は絵のことは何も分からないけど、僕にはこんな風にリンゴを鉛筆で描けない」
「ねえ、私ってどんな絵を描いていたのかしら?」
「ああ、そうだね。そういう方面から君の記憶を探す方法もありそうだね。待ってて、先生に聞いてみるよ」
「あ、ちょっと……」
私の返事を待たず、彩人が素早く病室を出て行ってしまう。
「まだ、見たいとも言ってないわよ、私」
ぼそりと呟くが、彩人の姿はすでにない。
お節介だと恨ましく思う反面、その行動力に少し羨ましさも感じる。
「うっ……」
少し、頭痛を感じて、私の意識が夜の悪夢とは違う場所に持っていかれる感触がした。
ああ、これもやっぱりセットでくるのねと諦観して、私の意識は白い光の中へ移動する。
きっとそれは過去の話。
人間が描けない。
結局私の絵には感情がない。
まるで人が描いたものではないかのよう。
言葉の刃が私に突き刺さる。
何枚描いても、どんなものを描いても似たような評価を受けた。
命を見つめていないのだ。
逃げているのよ、自分の中の気持ちから。
技術力は買おう。だが、そこまでだ。
皆、思うがまま好き勝手に私自身を犯した。
私はされるがままだったのに、それでも私の絵に皆の言う命や感情は宿らなかった。
あんなに、嫌だったのに。
何度もやめてと言ったのに。
助けてって叫んだのに。
私は私の世界を救えなかった。
それはきっと大きな罪。
大きな広がる世界で生きたいがために、私は私を手放した。
惨めに這い蹲って許しを乞い、そう思わなくてもそう思うと迎合した。
吐き気を催すような醜悪で、安い人間だ、私は。
そんな自分が嫌いだった。
そんな自分が生きる世界が嫌いだった。
でも、捨てられなかった。
だって、自分はここに居て、世界は広がっている。
逃げ場所なんかどこにもない。
だから、生きるために私は私を何者かにきっと売ったのだ。
数日後、彩人はいつものようににこにこと笑って、私の病室を訪れた。
「君の絵が届いたみたいだけど、見るかい?」
彩人の手には病院食を乗せる用のトレイと同じくらいの大きさの小包があった。
「……うん、見せて」
一息分、間を空けて、私は口を開く。
「よっと、はい」
「ありがとう」
手渡された絵には、青色と白色の世界が広がっていた。
白い砂浜と青い海、白い雲と青い空。
そして、全体に表現された日光。
他の一切が描かれていない、単純ゆえに幻想的で強固な世界がそこには存在していた。
まるで、写真のようだと私は思う。
船も無く、海の動きも無く、鳥もいないし、魚もしない。
明るい色彩の絵なのに、生命の気配がその絵からは一切感じられなかった。
どこにでもあると思える世界ではあるが、実際にこんな風景は肉眼で中々見られない。
どんな世界にも命はある。
この絵を描いたときに、人を含めた生き物やその気配が目に映らなかったのだろうか。
何でもないはずの海の風景が今の私にとっては不気味だった。
そこにある命の気配を否定したかのような完成された冷たく無機質な世界。
この絵から一番に感じるのはそんな感想だった。
「綺麗な風景だね」
私の身の内に広がる恐怖を一切察さず、彩人はその絵を見て微笑んだ。
「綺麗?」
「うん、何て表現したらいいんだろう? きっとこの風景の美しさがそのままここにあるみたいに感じるよ」
もう一度、私はその絵に目を向ける。
一体この絵を描くときにどんなことを思っていたのだろうと夢想する。
急激に、頭痛がする。
あ、まただと思った時には、白い光が私の脳内を犯していく。
人肌が恋しかった。
自分だけの価値が欲しかった。
この世界に私が居ていいんだって、思いたかったし、思って欲しかった。
愛情と言う麻薬が私には必要な成分だった。
それを知れば、私は私の絵を、私の世界を、私自身を守れるんじゃないかと思っていた。
でも、それは甘ったれていじけた子供の夢物語だった。
勿論、一面を見ればそれだけでそのことは美しいし、世界が自分の手の届く範囲であるのだったら、全ては成立していたのだろう。
だけど、違ってた。
手の届くものは陽炎のように曖昧で、掴み取れるものは夜空の星のように小さくて、握ったものは砂のように軽かった。
現実はいつだって私に甘く、苦く、刺激的で、世知辛かった。
アルコールの蒸発する匂いや、乾いた汗の温度や、自分のペースと違う呼吸音や、煙草の鈍い味や、冷えたシーツの皺がそんな私を嘲笑っているかのような気がした。
愛されたかったし、愛したかった。
自己の世界しか愛せないような勝手な私にできるはずも無かったのに、そんなことを必死で求めた。
求めたふりをしていた。
そうすることで、きっと救われると信じていたから。
唐突に、世界が変わる。
連城水樹さん、診察室へどうぞ。
ぼんやりとした頭に、柔らかいが事務的な声が響く。
何度目かの通院で、慣れたはずの呼び出しの声なのに、私は未だにこの表面だけが優しさで包まれた声に嫌悪感を感じてしまう。
「呼ばれているわよ?」
連城水樹の声がして、私は立ち上がって、受付に向かう。
「分かっているわよ」
案内の人に連れられて、私は白い建物の廊下を歩く。
ところどころに置かれた観葉植物がその統一された目障りだった。
案内の人の腫れ物に触るかのような細かな気遣いがわざとらしく感じられて不愉快だった。
「そうやって、人の親切を正面から受け取れないのはどうかと思うわよ?」
「だって、こんなの誰にでもやっていることじゃない」
私が患者だからこう接しているだけという気持ちを全く拭えない。
「それでも親切に違いはないわ」
「貴方、まるで子供ね。何も分かってないわ」
お金さえ払えば親切なんて買えるのよと私は毒吐く。
「それでも誠意を受け取るのが大人なのよ」
「そんなのが大人だと言うなら、私は大人じゃなくていいわ」
「強情ね」
「正直なだけよ」
私は苦笑してドアを開ける。
例のカウンセラーに私はここ数日の報告をする。
食事は摂れているか、しっかり寝ているか、不安はないか、周囲の環境はどうか、処方した薬は飲んでいるか。
「もううんざりだわ」
私は大きく溜息を吐く。
「しっかり聞きなさいよ。貴方のためを思って言ってくれているのよ」
「仕事だからでしょ?」
「でも、貴方のためだわ」
連城水樹の声も、カウンセラーの声の両方が耳障りだった。
そんなこと分かっていると私は心の中で叫ぶ。
そんなこと誰よりもよく知っているのだ。
だって、私のことなんだから。
「そろそろ時間ですね」
誰の声か分からない声がして、ああ、やっと終わりかと私は一息つく。
世界が崩れていく感覚がして、私の意識が離れていった。
今日も私は連城水樹の絵を眺めている。
特に理由があるわけじゃない。しかし、心がこの絵に意識を浸すことをどこか望んでいるような気がするのだ。
「ねえ、海に行ってみない?」
光を透かす白いカーテンを開きながら、彩人はそう私に提案した。
私は絵の中の世界から意識を戻す。
相変わらず、その笑顔が私には眩しかった。
「……行ってどうするの? 唐突に都合よく私の記憶が戻るとでも?」
その眩しさが怖くて、少しだけ羨ましくて、私の声は温度を失う。
「別に。気分転換みたいなものだと思えばいいさ」
彩人の顔はそれ以上の含みを持っているように思えなかった。
そういう気遣いや含みを言動に持たないのは彩人の長所だと今は思う。
だから、決して嫌な気はしない。
提案に乗ってみようかと思えるほどには。
「……いつ行くの?」
「お、珍しく乗り気じゃないか? 君が良ければすぐにでも許可を取って来るよ」
白い歯を覗かせながら、彼は本当に楽しそうに私に笑った。
「……別に。やることもないから」
表情が変化しないように気をつけながら、私は言葉を放った。
果たして彩人はどう捉えたのか分からないが、その表情に特に変化はなく、笑顔だった。
「そうと決まれば話は早いよ。ほら、早く支度して。僕はその間に先生に許可を取って来るから」
「……分かった」
私の返事をほとんど聞かずに、彩人はさっと部屋を出て行った。
胸に感じる鼓動が少し高鳴るのを感じながら、私は苦笑して、着替え始めた。
喫茶店に呼び出されたとき、嫌な気はしていた。
裏切られたと私は思ったし、世間的に見ても相手に非があるのは間違いなく、法で裁かれたのも彼だった。
「結局、この時のようにまた繰り返すのね」
上がったはずの気分が急速に冷えて、どろりとした泥のような暗鬱な気分が下腹に溜まっていくのを私は感じた。
「また、貴方? 今日は気分がいいの。少し黙っててくれる?」
相手と配偶者の争う声が聴こえる。
他人事だなと私は冷えた視線を向ける。
やがて、憤怒と嫉妬の混じった甲高い耳障りな声が私に向けられても霜の降りたような張り詰めた私の心は何の反応も起こさなかった。
「何度繰り返しても、貴方は誰にも救われないわよ?」
偽物ばかりの世界で、本物が欲しかった。
目の前の人なら、それを与えてくれるんじゃないかと期待していた。
「彼とはそういうのじゃないわ」
でも、結局そんなものは私には相応しくなかった。
「どうかしら? 本当に望んでいないと思う?」
手に入らないと誰かに言われたように感じて、誰のためのものなのか分からない涙を流して、そうして私は傷を増やして生きてきた。
「貴方に何が分かるの」
喫茶店から帰る道で、新しい相手を見つけた。
「私が分からなかったら、きっと世界の誰も分からないわね」
何も前の相手と変わらない行為なのに、確かな違いを感じてしまうような自分が恨めしかった。
「勝手に私の気持ちを決めないで」
吐き気を感じて、眩暈を覚えて、それでも体は消えて無くならない。
「決めているのではないの。知っているのよ」
生きている感触が欲しくて。
「嘘」
死なない理由を探して。
「だと本当に思うの?」
私は絵を描いていた。
「私の気持ちは私だけのものよ」
何も得られないと知りながら。
「自分でも分からないものを自分のものだと主張するの?」
何も成せないと諦めながら。
「それは……」
それでも。
「貴方はそうやっていつも誤魔化しているの」
私は私の世界を表現することがやめられない。
「誤魔化してなんかいない」
結局、私はこうすることでしか有り得ない。
「いいえ、私は知っているわ。だってずっと見てきたもの」
例え、絵の中にこの気持ちを表現できないと知っていても。
「そんなこと、ない……」
私自身を傷つける刃が自分自身だと分かっていても。
「弱弱しい返事ね。結局貴方はいつもそう」
死ぬことが出来なかった。
「私は……」
私自身を殺せなかった。
悪夢の終わりは始まりと同じように唐突だった。
両目を見開く。
嫌な汗が背中を伝って気持ち悪かった。
「ほら、起きて。着いたよ」
彩人の声がすぐ隣から聴こえた。
辺りを見渡す。
白砂、蒼穹、紺碧、水色、透明、橙光、雲海。
世界は生きた色で溢れていた。
私の心がその景色に軋む。
ああ、どうして、私はここで泣きそうになっているのだろう。
この美しい世界に私の居場所なんてどこにもないのに。
「ほら、早く来なよ。いい天気だよ」
彩人の声が世界に響く。
「……どうして、貴方は私にここまでしてくれるの?」
立ち尽くして、私は震えながら呟く。
「どうしたの? 急に」
彼の表情は柔らかく、優しかった。
まるで遠い。遠すぎて、私には触れられない。
「……何でもない」
だから、私はその光に触れるのを止めようとする。
だって、きっとそんなものに触れてしまったら私は消えて無くなってしまうから。
「うん? 大丈夫かい?」
「何でもないったら」
悔しいから半眼で睨んでやる。
気圧されて、彩人ははいはいと苦笑した。
そして、私はその光景を直視した。
瞬間、白色が私を包み込む。
夏の世界に私の意識がゆっくりと溶けていく。
ああ、知らなかった。
こんな世界に私が居ただなんて。
でも、その時も私は思ったのだ。
世界は何も汚れていなかった。
汚れていたのはきっと私。
受け入れられなかったのもきっと私。
だから、この世界を観たときに、連城水樹は自分を殺そうと思ったのだ。
自分を生かすことがこの素晴らしい世界で怖かったから。
どこにも自分の居場所なんてなくて、この世界と自分を好きになれる自信がなかったから。
でも、やっと分かった。
知らなかっただけ。
この景色を改めて見て、そう思えた。
彼女ではない私がその景色を見れたから。
それだけで自分の価値はあるんだってことに気が付けた。
世界が急速に輪郭を失っていく。
私の中に、私の世界が刻み込まれていく。
この世界は私のものだと今はそう思える。
一度その美しさと素晴らしさに負けて、私は殺そうとしたから。
だから、ようやく私はこの世界を愛せるのだ。
世界が繋がっていく。
私が私を掴もうと手を伸ばす。
何もなくなっていく世界で、最後に連城水樹が私の前に現れた。
それは、鏡で見る、私の顔。
「……ねえ、貴方はこの世界が好き?」
「その質問に意味はないわね」
臆病そうで、脆弱そうで、希薄な私。
「あら、大事なことだと思うけれど?」
でも、いいんだよと私は思う。
「だって、どうやっても私はこの世界で生きていくのだもの。好きか嫌いかなんて些細な問題だわ」
世界の誰がそんな貴方を否定しても。
「ただ、結論を投げているわけではないようね?」
「ええ、どんな私でも私は私。酷いことがあろうと、気に入らないことがあろうと、何とかやっていくしかないの。今は、そう思えるわ」
きっと私が受け入れてあげるから。
「それは、その場しのぎね」
「きっと誰もがそうよ。そうやって一日一日を生きていくしかないの」
視界が滲む。
世界が歪む。
自分が霞む。
「そんな考え方だと、前みたいな絵はきっともう貴方描けないわよ」
「いいわ。私は貴方とは違う絵を描くから」
「いいの? きっとこれから貴方大変よ。これはこれで完成されたものなんだから」
命を否定した連城水樹の作り上げた究極の世界。
他を肯定しないがために、それは求道の一つの到達点であり、在り方は儚く、同時に比類なく美しい。
「でも、私はもっと違う世界も欲しいの」
けれど、それは一点の究極。
世界は一人だけで終わらせられるけれど、一人では作れない。
「じゃあ、これで私はお役御免ね」
だから、私は覚悟する。
「いいえ、あるべきところに戻るのよ」
私が私を受け入れる覚悟を。
「どこにも私の居場所なんてない」
両手を広げて、全てを開け放って。
「あるわよ。ほら、全部受け入れてあげるわ。貴方は私で、私は貴方で。最も古く、最も親しく、最も気を遣わない友達なんだから」
「……本当に、いいの?」
「いいわ、貴方の全部を頂戴」
「欲張りなのね、貴方」
そうよ、知らなかったと私は私に笑う。
何かの感情が世界に溢れて、涙が堰を切って、私達の瞳から零れ出した。
「おかえり、私」
「ただいま、私」
そして、私の世界は終焉を迎え、息絶える。
でも、それは新たな世界の始まりと産声を同時に孕んでいる。
陽光の木漏れ日の中で、私は目を覚ます。
頬に心地よい体温と感触があった。
「あ、ごめん。起きちゃった?」
見上げると、彩人と目が合う。
変わらず、人の好さそうな笑顔を私に向ける。
今はその笑顔もとても好意的に受け取れた。
「おはよう、今日もいい天気だね」
「……ん」
頬にあった彼の手を握る。
「あ、その、泣いてるみたいだったから」
「……別に」
別に関係ないでしょという言葉を奥場を噛んで我慢する。
困ったように彼は慌てて顔を背ける。
まあ、今は放っておくことにしよう。全てを見られてしまうのは、今更だもの、何もかも。
涙で少しぼやけた世界を私は観る。
向日葵と沈丁花の中に浮かぶ夏の世界。
温かさと眩しさが私を祝福する。
これから、私は私をちゃんと愛せるだろうか。
多くを愛そうと思った私はきっとその何も愛せずにいた。
きっとそれはとても寂しいことだ。
でも、今は違う。
私は私を見つけたから。
反抗していた記憶を、新しい私は受け入れられたから。
いつか、私以外に私が愛せる人を見つけられたら、私はいつか連城水樹のその全てを話すことだろう。
そして、私はこの世界をきっとたくさん絵に残す。
水が光るように鮮やかで、彩られた私の世界を、何度でも。
自分を殺そうとしていた私を愛せたのだから、きっとそれはそのことよりも遥かに容易だろう。
私はこの世界を祝福する。