お茶ちょうだい
チハルに言いたい事を言ってしまって、ほっとした、でも照れた顔をしている父だ。それでも父はまだ続けた。
「あのまま、…僕とチナと二人きりになったまま、チナが大きくなっていたら、きっと今よりずっと引込み思案で人見知りになってたよね?チナ」
うるさいわ、と思う。
「そんなのオレもです」とチハルがかしこまって言うのでドキリとする。
父は今窓際の椅子にかけ、チハルはその近い壁に背を持たせて座っている。
「オレもあのままあの母親と二人だったら、今よりずっと変な風に曲がってたかもしれなかったし」
「チハル君は僕の自慢の息子だよ。あ、チハル君くらいの歳頃の子が親にこんな事言われたら気持ち悪いかもしれないけど。いいよね?本当の親子じゃないし。僕の本当の息子だったらチハル君みたいに優秀には育たなかったよ」
チハルは何も言葉を出さず、ただゆっくりと、恥ずかしそうに首を振った。
何だこれ…どうして父はこんな所に来た上で、こんなシチュエーションで、こんな事を言い出した。
「ねえ、チナ?」と父が私に振るが、それは私が優秀ではないと言う事だよね?
「チナは本当は、」と父がまだ言うので、もう余計な事は言わないで欲しいと思う。私まで巻き添えにしないで欲しい。それに今褒めてるコイツは私に無理矢理チュウしたんだからね。
一緒の部屋に寝るなんて、親がいたって、そしてチハルがいくら普通にしたって、どうやったって気になるに決まっている。
「チナは本当はお兄ちゃんが欲しかったんだよね。でもチハル君は半年くらい年下なだけだし、チナよりよっぽどしっかりしてるからお兄ちゃんみたいだよね」
「そんなわけない」と、ムッとして答える私。
「ハハハ」と笑う父。
いや、全然おかしくないけど。
父が腰かけていた窓際の椅子からすっと立ち上がった。
あれ?ちょっと…「お父さん!どこ行くの!?」
部屋から出て行こうというのかドアへ向かおうとした父が「ぐすっ」と鼻を鳴らしながら振り返った。
え、今笑ってたじゃん!なんで泣いてんの!?
「ごめんチナ」と鼻声で言う父。「感極まった。まだ旅行出足なのに」
そう言うと瞬間移動のようにドアから出て行ってしまい、残される私とチハル。うそでしょ?と思う。こんな序盤から二人きりになる?
私はチハルから2メートルくらい離れたテレビの前に座っている。テレビをピッ、とつけてみる。
「なあ」とチハルが言った。
「…なに?」
テレビの画面を見たまま聞く。ローカルな食べ物屋さんを紹介する旅番組だ。
「そんなにオレと二人になるのが嫌だったら、しばらくオレ、出とこうか?」
思わず見つめてしまった。
「なんか、」とチハル。「きょどってるじゃん」
「きょどってはいない」ときっぱり否定する私だ。「じゃあ私がどっか出て来るよ」
「なんで?」と少し笑うチハル。「オレは別にどうもないのに?」
「…」
「さっきも言ったけどオレは姉ちゃんがいてもいなくても普通に出来るから」
「…あんたさぁ…」
「そんなんだったら姉ちゃんは、オレらがキョーダイで付き合ったりして別れたら気まずくなるのどうのこうの言ってたけど、もう結構気まずそうじゃん。付き合ってもいねえのに。ちょっとチュウしたくらいで」
「あんた、なんでそんな事笑いながら言ってんの?」
「笑ってねえし」
「いや、ちょっと笑ってる。ムカつく」
「ムカついてもいいよ。姉ちゃんが今オレの事すげえ気にして、旅行中どうしようかってソワソワしてんのもオレは逆に嬉しいかも」
「…」
「すげえ気にしてくれてると思って」
なんでコイツはこんなに優位に立って私にモノを言うんだろう。
「あんた…気持ち悪い」嫌な声で吐き捨てるように言ってみる。
するとパッと笑顔になって「そうだよな!」とチハルは笑った。
やっぱり私だけが気にしているのだ。なんだこのあっけらかんとした態度。
…ていうか…なんかちょっと…気持ち悪いっていうより怖いかも。…そうだ、あの時も確かに怖いと思ったのだ。あの、私の部屋で抱きしめられてキスされた時にも。
すっとチハルが立ち上がってドキっとする。そんな私をほんの少し口の端で笑って、チハルは窓際のテーブルの父が腰掛けていた椅子に移動した。
ダメだこのままじゃ…
部屋に備え付けの洗面所に行く。
鏡に映った自分の顔を見ながら思う。確かにきょどってるかもダメだよね。
…私は今弟と部屋にいる。弟…私の弟…弟だ、くそ生意気な弟…
よし。
大丈夫。
が、洗面所のドアを開けたら、すぐチハルがいて思い切りビクッとしてしまう。
「「うわ」」と言い合う私とチハル。
「なに?」と慌てて聞くと顔をしかめるチハルだ。
「ほんとにイヤで閉じ籠ったのかと思ったじゃん」
「そんな事ない」
「チハル」、とさっきまで父が座っていた椅子に腰かけたチハルを呼ぶ。「私にもお茶ちょうだい」
私も座ってサービスのお菓子食べよう。
「ん?」と、チハル。
「私の分もお茶」言いながら私も窓際のチハルの向かいの椅子に腰かけた。
私は姉である。私だって普通に出来る。
ここで普通の生意気な弟だったら、『自分で煎れろや』、だと思う。それで『煎れなさいよ弟のくせに』とか姉ちゃんが言って、『うっせぇ、なりたくてお前の弟やってんじゃねえわ』とか?そこまではどうかな。でもきっとそんな感じだ。仲の良い弟だったら素直に入れてくれるのかな。『今日だけサービスだからな』とか?
が、チハルは「ふん」と言って自分の飲みかけのお茶を渡して来た。
飲みかけ!飲みかけ渡すかな…
「新しいの煎れてよ」
「ふん」
さっきと同じ調子で、旅館の名前の入った湯飲み茶碗を私に渡して来ようとする。
コイツこそ普通じゃない気がする。
…いや一つ一つを気にし過ぎか私…
と、そこへドアが開いて母と祖母が帰って来た。向かい合って座るチハルと私を見て「「ん?」」と顔を見合わせる祖母と母。
面倒なので「ありがと」と言って、チハルから飲みかけのお茶を受け取り普通に飲む。
飲みかけだって事は二人にはわからないし、渡されかけてるお茶を向かいに座ってんのに受け取らないって…
ダメだ。一つ一つを気にし過ぎだ。こんな事じゃいけない。
「お母さん」と座ったまま母に言う。「何個買ったの!?」
母は大きめの紙袋を二つ下げていたのだ。
「石鹸は10コ。でも赤犬せんべいと赤犬サブレも買った」
祖母は紙袋一つだ。
「お父さんは?」と聞く母。
「えっと、どっか出て行ったけど」
「どっかでどこ?なんで?」
チハルを見るがチハルは答えない。
「なんか、」と仕方ないので私が答える。「チハルと話しててそれで」
「どういう事チハル」と母。
「別に何も」といつもの素っ気ない返事のチハル。「帰って来たら自分で聞きゃあいいじゃん」
ちょっと顔を曇らせる母だ。「あんた、お父さんになんか変な事言ってない?」
「変な事って?」と逆に聞くチハル。
「違うの、お母さん」と私が口を挟む。「お父さん、チハルと来れたのが嬉しかったみたいで」
「嬉しかったら一緒にいたらいいじゃん」と母。
「だから」と私は続ける。「お父さんの事はチハルに任せとけばいいよ。私たちは先に温泉行こ」
そしてチハルから渡されたお茶を全部コクコクと飲み、しれっとしているチハルにも言う。
「あんたがお父さん探してきなさいよ?その間に私たち、浴衣に着替えてもう先に温泉巡りするんだから」
ほら、と言って立ち上がりチハルの腕を掴んで立たせ背中を押しながらドアの方へやる。
「ほらほらほらほら」
私はチハルをそのまま追い立て、ドアを開けて追い出した。
私の急な対応に「ちょっ…止めろって」と面倒臭そうに言いながらもそこまでは抵抗しないでくれるチハル。
弟のチハルだ。私の弟。
姉の私。
弟のチハル。
チハルは私の弟。




