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月屋(つきや)

 山道とまでは行かないが、隣町に続くバイパスをそのまま母は運転する。左右が山に挟まれた2車線の広い道だ。

 真ん丸にちょっと足りない月が、左手の山の端から上がって来たところで、前にも後ろにも他に車がいない心細さに、幻想的な光景が相まって、この車だけ、この世から浮きあがっているように感じる。曲が何曲か変わるが母が何も話さないので私も話さない。

 どこまで行くんだ母。

 そして本当はどういう気持ちなんだろう。チハルにすればいいじゃんて…



 曲がワンダイレクションの『ハッピリー』に変わった。

「お母さん…早く帰んないと、」やっと言ってみる。「お父さんとチハル戻って来てるかもよ?チハルおばあちゃんとこ帰ったの?ねえ、お父さんかチハルに連絡してみようか?私忘れてきたからお母さんのケイタイ貸して?」

「…」

「ねえお母さん…」

「…」

「家に帰ろうよ」さらに心細い声を出してしまった。

 母は無言のままウィンカーを出し、左手に見えた小さいコンビニの、その建物の広さに不釣り合いな広い駐車場に入って、その端に車を駐車した。

 広い駐車場に車は3台だけ。辺りに民家は1軒もなくて、正面がガラス張りの、コンビニの灯りだけがやけに白々しい。

 こんな所に建っていてお客は来るんだろうか。


 建物の正面の自動ドアの上には青い三日月のマーク。

 その三日月を挟んで同じく青い文字で『月屋』と書いてある。こんな名前のコンビニ初めて見た。この地区のここにしかない、個人でやっているコンビニかも…

 ちょっと不気味だ。よくこんな所に入ろうと思ったな母。見た目ちょっと…異世界への出入り口、みたいな感じさえする。車の位置から、中の様子はほとんど見えない。

「お母さん帰ろうよ。なんかここ、ちょっと不気味じゃん。あぶないとこかもよ?」まだ心細い声を出してしまう。

「大丈夫、来た事あるから」と母は言う。「ここね、ものすごいイケメンの店員さんいるよ。行って見る?」

イケメンの店員さんが?ていうかこんな辺鄙な見た事もないようなマークのコンビニに来た事があったの?

「私はちょっと…入りたくないな。もう帰ろうよお母さん」

「いや、まだ帰んないよ」

「…」



 そして、「じゃあちゃんとロックして待ってて」と言ってコンビニの中に一人で入った母は、温かい缶入りのココアを買って戻って来た。

 缶を開け一口飲んでため息をついた母が、「…ねえチナちゃん」、と語り始めた。

「チナちゃんのお父さんと結婚して、チナちゃんも私の娘になって、私はとっても嬉しかったけど、でもそれはチナちゃんのお母さんが早くに死んでしまって、チハルのお父さんも早くに死んでしまったから出会えた、みたいなとこあるでしょ?」

「…」

「でもそれだって私とお父さんの職場が一緒じゃなかったらお父さんとは出会いもしなかっただろうし、別の人と結婚してたかもしれない。ここには住んでないかもしれない。もう誰とも結婚しないでチハルと二人きりで過ごしたかもしれない。お父さんじゃない人と結婚して、その人の子どもを産んでたかもしれない」

「…」

「でもこうして今、チナちゃんと私は一緒に車に乗って、普段は通らない道を通ってこんなとこにあるコンビニの駐車場でココアを飲んでる。…チナちゃんココア冷めるよ?」

「…うん」

「私が何が言いたいかっていうとね、全部今こうなってる、って事。いろんなもしかしたらがあって、ほんのちょっと違う事情が入りこんでいたら、今の私たちはこうしてはいないんだけど、でも今こうしてるわけでしょ?」

「…うん」

「実際にね、チナちゃん、私たちにある『時』は今だけなんだよ。今よりほんの少し前の事だって私たちは変えられない。今よりほんの少しの事をとれだけ推し量ってもそれは確実じゃない」

「…うん」

なんかすごい話になってきたな…

 それで母はいったい私とチハルの事を本当はどう思っているんだろう…


 「イライラする」と母が言うので、母の話を聞きながらぼんやり口に運んでいた温かいココアの入った缶をきゅっと両手で握った。

「あ~~チナちゃんの事じゃなないよ。チハルの事。もっとゆっくり、チナちゃんが警戒しないようにしてけばいいのに…。出来ないもんね~~あの子はそういうの出来ないから。離れていようとしたんだけど我慢できなくてチナちゃんと同じ高校に行くようにして、それでもおばあちゃんとこに住んで、だんだん、って思ってたところにヒロセ君と仲良くしようとしてるチナちゃん見たから、もう我慢ならなかったんだろうな」

「…お母さんは嫌だと思わないの?義理の娘と自分の子どもが、血がつながってなくても姉弟なのに、そんな…付き合うようになったりしたら嫌じゃないの?気持ち悪くないの?」

「どうしてチナちゃんは私が嫌かどうかを気にするの?そういう事聞くって事はチハルの事が気になって来てるんだよね?」


 気になるよそりゃ!気にならないわけがない。あんなに露骨にヒロセとの事邪魔されて、チュウまでされて…

 と思っているところへ母が聞いた。

「もうチュウされた?」

「へ!?」

「チナちゃん、ココア冷めるよ?」

「…」

「チュウとかされた?」

「されてない!」

「ヒロセ君にだけど?」とニヤッと笑う母。

「…されてない。まだ全然何にも進んでない。今日うちに来てくれたのも奇跡っぽかった…」

「ヒロセ君のどこが好き?感じが良いのはすごくわかったけど」

「…相手によって態度を変えないとことか、でもそれは誰とでもうまくやるっていうんじゃなくて、…まだあんまりそこまで私もわかってないんだけど、目の前にいる相手の事を、他の人から聞いた事とかではなくて、ちゃんと自分で見て判断してくれるっていうか…うまく言えないけど。部活とか勉強もすごく出来るわけじゃないけど、きちんとカッコ良く頑張ってるっていうか…真っ直ぐな感じだけど、それがムキになってなくて普通にやってるって感じでやれるところとか…」

ほんと、うまく言えないな。

「じゃあ」と母が言った。「チハルのどこが嫌い?」

「…」




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