どうって事なかった
私が立ち上がるとチハルは手を離し先に歩き始めた。私はまだ立ち止まったままチラッと母の顔いろを伺う。
母は私たちにピラピラッと手を振ってみせた。
「ねえ!」先を行くチハルを追いかけ、その背中に声をかける。「お母さんに昨日の事話したりしてないよね?」
チハルが1回立ち止まり、私と並んで歩きながら言った。「話してねえけどあの人ならいろいろ気付くんじゃねえ?」
昨日の事を?
嫌だな絶対。
「わざわざ話したりしないよね?」と念を押す私。
「お前ん中でどんだけマザコン設定してんだよオレの事。でもまあまあバレてんじゃね?オレは信用ないからな。二人きりになったらすると思われてんだろ。昨日みたいな事。実際したし」
「ちょっ…」言わないであんたが、と思う。
じゃあなんで母は今、私とチハルを二人で行動させるんだろう。わざわざヒロセの名前まで出して。
ほんと嫌だな最近のお母さん。
睨む私をチハルが笑うので私はイラつく。
「なんであんた笑ってんの!?なんでそんな平気そうなの。どこに笑える要素があるわけ?」
「笑ってるつか、嬉しいだけ。親が一緒だけどデートだから」
「…何言ってんの?」
「これからこういう風にする事にした。昨日の事はほんと悪かったって。オレもほら、高校生男子だから。あんな風にもなるって。いいから行こう。むかしさぁウサギ飼いたいって一緒に言って却下された事あったよな?」
…あったけど。
「名前まで決めてたのにな」とチハル。
決めてたけど。
「でも良かった飼わなくて。ウサギは1匹だけだと可哀そうだし、オレは家出たし」
そうだよね。飼わなくて良かった。一人でなんて面倒見切れなかった。
チハルが言う。「でもばあちゃんが猫飼いたいつってる。近所の仲良い友達の猫が子ども生んだのもらおうかって」
今日はやたらほんとに良く喋るな…
「飼ったらさ、姉ちゃんも遊びに来ればいいし」
「…ありがと」
チハルが言った通り、昨日の事は『無かった事』になっている今日のチハル。悪かったってさっきは言われたけど…
でも…
昨日の事をそんな風に謝られただけでは釈然としないし、今のこの感じも、私は慣れ慣れしいチハルには全く慣れていないから、今のチハルにも違和感を感じる。
「チハル…」
「なに?」チハルが横から私を見つめる。
「…」
本当に無かった感じに持って行こうとしてるのがムカつく。『悪かった』くらいの謝りですむと思ってるんだろうか。けれど、そんな事もちろん言わない。
が、「オレは別にいいけど」とチハルが言った。
「姉ちゃんが昨日の事を無かった事には出来ないって思ってくれてんなら、オレはそれはそれでいい」
「どういう事?」
「自分で考えろ」
後は喋らないまま、私は半ばムカついたまま、ふれあい広場のウサギ小屋のあるところへたどり着く。 小屋と言ってもテニスコートくらいの広さがあり、そこが半分に区切られていて、半分は人間が入れないウサギが暮らす空間、もう半分は人が入る事が出来て、ウサギは真ん中の穴を通ってそこを行き来できるようになっている。小屋の回りには農薬を使っていない草が植えてあって、小屋を散らさない程度にウサギに草を上げる事が出来るのだ。
ウサギは全部で何匹だろう。15匹くらいかな。隅っこで草を食べているのや中途半端に掘った穴で休んでいるものもいる。白いのが3匹、黒いのが2匹、あとはブチと茶色だ。
二人で少しずつ草を取って小屋の中へ入る。先にそこへ入っていたサッカーのユニフォームを着た男子小学生数人に「カップル来たカップル来た」とざわつかれた。中学生くらいの女の子二人組はチラチラとチハルを見て何かささやいている。
仕切りのところから草をチラつかせるが、ウサギはこちら側にはなかなかやって来ない。
「チナ」とチハル。「猫の名前、チナが付ける?」
「…なんで急に名前で呼ぶの?」
「せっかくカップルに間違われてるから」
「…」
「私…私本当は昨日、ヒロセとここに来るはずだった」
「…あそう。何にしたい?猫の名前」
「…知らない」
そこへ黒色のウサギが穴から顔をのぞかせた。ほんのチラッと覗かせて顔を隠し、またチラッと覗かせる。そしてしばらく動きを止めこちらの様子を伺っている。薄桃色の鼻先をピクピクさせて可愛い。
「キイ」とそのウサギに呼びかけるチハル。「こいつ、むかしうちで飼ってた黒猫に似てる。話したよな前。オレが幼稚園の頃に飼ってた黒猫のキイ」
「…似てるって、黒い色だけがでしょ?」
「まあそうだけど。姉ちゃん、ちょっとそこにそのままいてみ?」
言ってチハルはジーンズの後ろポケットからスマホを取り出し私と黒ウサギを撮る。チハルが私の写真を撮るのなんて初めてだ。送っとくとわ、とチハルが言いながらスマホを操作し私を見て声を上げた。
「は!?なに?なんで泣いてんの!?」
「泣いてない」と言いながら鼻水をすする。
「なに!?」狼狽するチハル。「ゴミ?虫?何か入った?」
うなずきながら目をこする私の手をチハルが止め、自分のパーカーの袖で拭ってくれる。
「ウソだな」とチハル。「でも泣く要素なかったよな?今朝からの事で。…なぁごめん。悪かったって」
「うるさい。泣いてないからもう黙っといて」
「なあって。今になって泣くなって。昨日は泣かなかったくせに。やっぱ昨日の事だよな、泣いてんの?」
「泣いてないって!!昨日の事だって全然気にしてない!あんなのどうって事なかった私」
一瞬驚いた顔をしたがすぐにチハルは笑った。「…へ~。あそう。なら良かったけど」




