ご飯だよ
「ちょっとそこで待ってなさいよっ!」と言い置いて玄関にチハルを待たせ、食べかけになっていたチハルの分のパンをまとめ紙袋に入れて乱暴に渡した。
「ほら!ちゃんと食べてよ!あんたが買ってきてっていうから、わざわざ買って来たんだから!」
それには応えず、チハルは嬉しそうに笑ってみせてから黙って帰っていった。
なんであんなに笑うんだろう。腹立つ。
…ていうか…ていうか私、チハルと…
玄関を閉めてその場にしゃがみ込んでしまった。
ああ、と思う。したよね。チュウした。された。初めてにしては結構ながめのチュウだったんじゃないかな…
手の甲で唇をブギュウっと押さえる。
どうするんだろう。どうしたらいいんだろう。
私は母の前でどんな顔をしたらいいんだろう。
「ほらやっぱり」って母に言われる。「ほら、やっぱりされちゃったじゃない。チナちゃんがチョロイから」って。
違うよね!私がチョロイのが悪いんじゃない。
それに母の前だけではなくて、ヒロセに話しかけてもらえても、また誘ってもらえても、絶対普通にはもう喜べない気が確実にする。
私はヒロセの事を好きになってきていたのに…
この、誰とも付き合ってもいないのに、そして私が悪いわけでもないのに浮気してしまったかのような後ろめたさ。
そりゃ後ろめたいよ。だって弟にされてんだから、あんな事。
あんな事…またチハルの腕や胸や唇や舌の感触まで思い出して「うわああああ~~~」と声を上げてしまう。
ダメだ。ダメだよね私。私がダメだ。私が悪い。
私がチハルを拒絶すればいいだけの話だ。ヒロセの事を好きなはずなのに。もっと怒ったって良かったはずだ。殴っても良かったと思う。
なんでそこまで私は今、怒っていないんだろう。
どうしようともは思っているのに怒ってはいないのだ。
それでも2階の自分の部屋に戻ると、さっきの事を思い出して今さら体がふるふると揺れた。
結構怖かった。殴ろうとしても殴れなかったんだろうな。抱きしめられても、それを全然引きはがせなかった。力強かった。
ベッドに腰をおろし、そのまま後ろへ体を倒し、もぞもぞと体を移動させベッドにうつ伏せになる。
…はじめてのチュウが弟とだよ。
…違う、今度のが初チュウじゃなかった。中1の時にすでにチハルにされてるんだった。頬っぺただし私は覚えてないけど。
あいつは…あいつは他の子にはしてないんだろうか。だって無理矢理舌入れてこようとしてたし。あんな事はじめから出来るのかな…
体がデカくなってた。だから怖かったんだね。
見た目デカいのはわかってたけど、抱き締められたら見た目よりずっとがっちりした感じで…むかしチハルが寝るまで隣で本を読んで上げてたりした頃と全然違った…あの頃はまだ私より小さい子どもだったのだ。
しかも『無かった事にはならない』って言いながら『無かった事にしよう』って。
意味わかんない。
『姉ちゃん』て呼びながらこんな事をしてきたように、『無かった事にしよう』って言ったらもしかして、今日の事を私がすぐに許すとでも思っているんだろうか。『チョロい』って言ってたもんな…
あれ?
…私何回かそのまま寝た事あったかも…むかしチハルに読み聞かせして上げながら、チハルが先に眠ってしまったら、仕方がないから私がチハルの部屋のベッドに移って寝る事がほとんどだったけれど、何回かは読みながら私の方が眠くなって先に寝てしまった事もあったような気がする…
…いや、確かにあった。それで夜中に母に起こされてチハルが隣の自分の部屋に連れて行かれるのを見た事もあった。
…私、もしかして…あの頃からチハルに何かされてたのかな…ていうか、今日だって私がまあまあ受け入れたら、受け入れなくてもチハルがその気だったら私はチハルに…
いや、いやいやいやいや、それはもう絶対ダメだ、考えるの止めよう!
もしも…チハルが今日の事をヒロセに言ってしまったら?
それを考えると胃がズクッとする。もともとヒロセと私が一緒に出掛けるのが嫌で、今日私にあんな事をしてきたようなものだし、ヒロセに話してしまうかもしれない。
ヒロセに知られるのが一番嫌だけど、他の誰に知られてもダメだ。ここは全てを許して、チハルが言ったように『無かった事』に無理矢理私も話を合わせた方がいい。そうしているうちにきっと状況は変わる。チハルにも他に気になる子が出来て、たぶん彼女がちゃんと出来たらもっと思いやりのある子に戻って、私との関係だって本当の、普通の姉弟のようになれるかもしれない。実際チハルに彼女が出来たら寂しいような気もするけれど、下手してキョーダイで恋人同士になって、人に変な目で見られて、それでもいつか嫌い合って別れるような事になったらもう取り返しがつかない。
バカなチハル…ほんとバカ…後先考えずに勢いであんな事してくるなんて…
バカチハルバカチハルとずっと頭の中で思っているうちに私はそのまま眠ってしまった。きっと神経がとても疲れていたんだろう。
ドアが叩かれた音を頭の端で聞きながら、「チナちゃん」と言う母の呼び声で目を開けた。
ドアの向こうから「入っていい?」と聞く母の声。
「…う…ん…」ともっそり答える。
ドアを開けたとたんに母が聞いた。「チナちゃん、ご飯だよ。今日チハル来た?」
俯いて寝ていたままの姿勢からガバッと起き上がりベッドの上に座った。
いきなり!いきなり『ご飯だよ』からのチハルが来た事を言い当てるって…
恐る恐る聞く。「…どうして?」
「チハルの気配が残ってるから」
気配?
それは何?チハルの気配が本当に残っていて母はそれを感じ取ったって事?それか何かの痕跡が残っていて目ざとく見つけたって事?かまをかけてるって事?それか最悪チハルが今日会った事を母にもう言っちゃったって事?
わかった!グラスだよね、オレンジジュースのグラスが二つ。私はそれを片付けていなかったのだ。
「チナちゃん?」母が私の顔をじっと見る。
私の顔色から何かを読み取ろうとする母だ。でももうすでに読み取った後かもしれない。見られて困る私は1回両手でバッと顔をこすって「何?」と出来るだけ普通の感じで返事をした。
「チハルに何されたの?」
もう完全にチハルが来た前提で、しかもチハルに何かされた前提なんだな。
「何も」と私は答える。「今日バスケ部行ったらしくて、昼、何か食べたいって電話来て、私その時ちょうどパン買ったとこだったから、チハルの分も買って持たせたの」
「一緒に食べたの?」
「…ううん。すぐ帰るって言ったからチハルの分、持たせた」
今のところ嘘は付いていない。
「ふうん…そっか」母がニッコリと笑った。「じゃあもうすぐご飯だから降りておいで」
あれ?今日はあまり詮索されないんだ…
良かった。母に嘘をつくのは嫌だ。隠している事はあるけれど私の答えに嘘はない。たぶんそれは母が好きだという思いもあるからだけど、それよりも嘘がバレた時に心から許してもらえないかもしれない事を私が恐れているからだ。




