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無かった事

 ガタっと椅子から立ち上がる。

 思い切りチハルを睨みつけてから私は台所を出て、階段を駆け上り自分の部屋に入ってドアを思い切り閉めた。そしてずっと使った事のなかった鍵をかける。

 鍵は私が中学1年の半ばくらいに母が付けてくれた。着替えたりしている時とかに使いなさいって。

 そっか!それってチハルが寝てる私にチュウしてたらしいのを母が見つけた時くらいなのかも…



 ベッドに腰掛けてじっとしていると、私の食いしばった歯を無理矢理こじ開けようとしてきたチハルの舌の感覚を思い出してしまう。胃がザワザワして、食道にらせん状の何かが入っているかのようにきゅるきゅるっと喉のあたりが突かれる。口の中にはさっき少し飲んだオレンジジュースの味が残っていて、唇を手で拭ってもやっぱりチハルの感触を思い出す。

 もう!

 …もう!ほんっとに!

 そして階段を上ってくる音にピクっと反応する。

 私のドアの前で足音が止まる。ホラー映画みたいじゃん…



 「姉ちゃん?」とチハル。

また姉ちゃんなんて呼びやがって!もう呼ばれても信じないからな。

「鍵かかってるから。早く食べてもう…帰ったらいいじゃん!」

「姉ちゃん」


 私のキツめの言葉にも何も変わらない普通のトーンのチハルが苛立たしい。

「ちょっともうわざとらしく呼ばないでよ!姉ちゃんなんて思った事ないって言ったくせに!」

「姉ちゃん」

「うるさいって!」

「なあ、いやだから」チハルがドア越しに静かに言う。

その後をなかなか言わないので「何が!」と催促してしまう。

「さっき言ったじゃん。女子が寄ってきてって話。オレはすげえ嫌だけどな、姉ちゃんに他のヤツが寄ってきていろんな事をしようとすんのが。ほんと我慢ならねえわ、そういうの考えただけで」

「…」

「姉ちゃんは全然嫌じゃねえわけ?オレが他の女子と一緒にいたりしたら」

「…」



 「なあ聞いてんの!?オレは嫌だつってんの。付き合ったりすんな他のヤツと。他のヤツとどっか行ったりして欲しくねえの」

「…」

「姉ちゃん!ちゃんと聞いてんの!?」

「聞いてる…けど…」

「じゃあここ開けて」

「それはちょっと」

ハハ、とチハルが笑う。「用心ぶけえ~~」



 「あんた…ふざけてんの?…さっきあんな事されたのに開けるわけないじゃん!」

 ガタっと音がして、チハルがドアにもたれかかって座ったような気配。でもその後黙っている。

嫌だ…いつまで居座るんだろう。

 しばらくして「なあ」とチハルが言う。

「何?今日はもう…」

帰ったらと言おうとしたらチハルが続けた。

「触りたい」

へ?

「聞こえた?」とチハル。

「…」胸がぎゅるうううっと変な風に縮んだ。


「今触りたいつったの聞こえた?」

 …聞こえた…聞こえたし、キスの感触も抱きしめられた時のチハルの匂いも、今抱きしめられているかのようにパッと蘇って来た。

「でもチハル…」

「でもじゃねえよ。なに、『でも』とかつってんだよ」


 ドアがガン!と叩かれてビクッとする。

「帰るわ」と言ったチハルが階段を降りていく音が聞こえる。どうしよう。これでこのまま帰られたらまたきっと、ずっとよそよそしい関係になる。どうしよう。今まで以上に私を避けるかもしれない。どうしよう。それだってチハルのせいだと思うけど…どうしよう!

 ああ、もう!


 

 鍵を開け階段を駆け下り、もうブレザーを着て玄関に向かおうとしていたチハルを止める。

「待って!」

チラっと私を見て、それでもそのまま靴を履こうとするチハル。

「ねえ!待ってって!」

「なあ?さっきの聞こえた?オレは触りたいつったのちゃんと聞いてた?」

「でも…」

「だから!でもじゃねえの!触りたいって言ってるやつがいるのにドア開けんなバカか」

 開けてっていったくせに!


 「バカはあんたじゃん!私は嫌だからね!こんなんでまた、あんたが中学の時みたいに全然関係ない他人みたいな感じになるのは私はもう嫌だからね!」

驚いた顔をして、そして笑うチハル。

「笑うな!」と私はもちろん怒る。「嫌なんだよ。お母さんに申し訳なくなるんだよ私。あんたが家に寄りつかなくなって、それでも私にすごくよくしてくれるから」

「お前こそ」とチハルは静かに言う。「『こんなん』とか言うな。オレはオレですげえ、ずっと我慢してたの!今日の事がなかった事になるなんて思うなよ」

「…」

少しの間見つめ合うが根性がないのですぐ目を反らしてしまう私だ。

 でもわかってるよ。どうやっても無しになるわけなんかないよ。



 はああっ、とわざとらしい大きなため息をついたチハルが仕方ない、と言った感じで言う。

「わかった。今日の事は無しにしよう」

は!?

続けて言うチハル。「普通に仲良くしよう」

 …本当に?

 ていうか『無しにならない』って言ったばっかじゃん!何言ってんのコイツ。

 手のひらを返したように今度はそんな事を言うチハルをまじまじと見つめてしまう。


 「あんたおかしいよね」とつい口に出してしまった。

「まあな」とチハル。「今日のは無しにしよ。焦り過ぎた。姉ちゃんだって今日の事無しにしたいよな?母さんにバレたりすんのも、オレが逆切れしてまた口きかなくなったらも嫌なんだろ?」

「あんたさあ、」引いた目で見ながら言ってしまう。「こういう事もお母さんに話そうと思ってたわけ?あんた何でも話すんでしょ、マザコンじゃん」

「バレんだよ!あの人にはすぐいろんな事がバレんの」

それって実の親子だからだよね、きっと。

「バカじゃん」とチハルが言う。「何ちょっとほっこりした顔してんだよ。ほんとバカだよな。自分のされた事わかってねえの?」

「…わかってる…けど…」

「『けど』とか『でも』が多い!…でもわかってるならいいよ。無しにはするけどな」

 それじゃ『無し』とは言えないよね。第一無かった事には絶対ならない。



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