早く帰って来い
チハルが言ったとおり2階の、私たちの部屋から遠い方の階段の端の方の窓から見える景色は、夕食の後で通った温泉街の灯りが見えて、そして少し離れた小高い丘の上のお寺もライトアップされているのも見えて、幻想的な雰囲気。綺麗だな…。
綺麗だね、って思ってチハルを見ると、チハルも私を見て「な?」と言う。
「さっき温泉一緒に来てくれてありがと」と改めてお礼を言ってみる。「夜に露天風呂なんて入った事なかったからさぁ、なんか良かった。だってやっぱ一人だとちょっと怖かったもんねぇなんとなく。岩とか木の陰とか気になってソワソワしてきたんだよね。今もこれ見て綺麗だなって思うけど、一人で見てたら綺麗だけど寂しいって感じがすると思う」
…
あれ?ありがとうってわざわざ改めて言ったのにチハルの返事がない。しかも景色見たままこっちは見ないし。
もう!せっかくお礼言ったのに。「ちょっと、私の話聞いてる?」
「…聞いた聞いた」
もう~~。
「ほんとはまた外歩きたいけどな」とチハルが言う。
「あ~~うんそうだね。なかなかこんなとこ夜とか歩き回ったりは出来ないもんね。でもお母さんたちが帰って来た時部屋にいなかったら心配するから部屋に戻ろっか」
「…うん」
なにコイツ。『うん』だって。素直だな。ちょっと気持ち悪い。
そして部屋に戻る。
…布団!
やっぱ…どうかな…布団を見たら急激に我に帰って来た…
「なあ」とチハルが言うのでビクッとする。
「なに?」
冷蔵庫を開けたチハルに出来るだけなんともない返事をする。
「なんか飲みたい感じのが入ってねえわ」ガチャッと冷蔵庫を閉めるチハル。「ちょっと自販機行ってくる。姉ちゃん何がいい?」
「えっ…となんでもいい」
「そう?じゃあ鍵かけて行くからな」
…なんか怖いくらい素直で優しい感じがしなくもない。
でもこれからこの布団が敷いてある部屋でしばらくは二人きりだよね…普通にするって言ってるチハルを信じないわけじゃないけど…
そしてチハルが小銭と鍵を持って部屋を出てすぐに私のケイタイが鳴った。やっぱりお母さんたちにすぐ帰ってきてもらおう!
母からの電話だと思って慌ててバッグから取り出すとヒロセから!
わ~~…
どうしよう…こんな時にヒロセから!5つ敷かれた布団を見てしまう。
なんで電話?なんでくれる?どうしよう…良くない事を言われたらどうしよう!今日の気のないラインの返信を思い出して電話に出るのが怖い。しかもこれからチハルと、この布団の敷いてある部屋で二人きりでしばらくテレビを見るていう、そんな時にヒロセから電話…
どうしよう!出ないと切れちゃう…
でも後でこっちから電話するのも怖い。それにやっぱり出たい…!
はい、と小さな声で出ると、「ん?どうしたん?」とヒロセが聞く。
いや、どうしたん!、て私も思ってるけど…「…ヒロセは…どうしたの?」
少し焦った声でそう言うと、「いやオレはどうもしねえけど。なんか元気ねえ声出してどうした?」ヒロセが聞いてくれる。
「あ、ううん元気なくないよ」
「なんだよそれ…そうなん?ならいいけど。今喋って大丈夫?」
「うん。どうしたの?」
「いやどうもしないけど。どう?旅行、っていう電話だよ、かけちゃいけないのかよ」
少しふざけた感じで言ってくれたので、「うん!」と、ちょっと元気になる現金な私だ。
「ありがと。おばあちゃんがすごく喜んでくれてる」
「そっか、じゃあせっかくみんなで楽しんでるとこ悪かったな」
「ううん。みんなカラオケ行ったから」
「へ~~」と言ったヒロセが少し間を開けてから、「弟は?」と聞いた。
うっ…と思う。今日一日、私たちはまあまあ普通だった。はず。ほぼ普通だった。夕食後の散歩で手を繋ごうって言われた以外は、ここ何年かでいちばん普通に姉弟っぽかったと思う。あの時だってすぐ手を離してくれた。
でもチハルも同じ部屋なんてわかったらヒロセは今度こそ私の事が嫌になるに決まっている。
「…チハルは…」どうしようかと思いながら、ズルい私は嘘をつくしかないと思う。「別の部屋だからわかんない」
「そっか」
ビミョーなトーンで『そっか』と言われる居心地の悪さ。
「サキちゃんにね、ショッキングピンクの犬の形の石鹸をお土産に買ったんだよ?ここね、赤犬温泉だから赤い犬のお土産物がいっぱいなんだよ」
ウソをついた居心地の悪さからサキちゃんへのお土産の話でどうにかごまかそうとする私。
嫌だ…こうやってどんどんどんどんヒロセに対する後ろめたさでいっぱいになっていく。
「へ~~そうなんだ」とヒロセが言った時に、がちゃっとドアに鍵を差し込む音がした。
チハルが帰って来た!
「ごめんヒロセ!お母さんたち戻ってきたから切るね」
「お~~…じゃあ、なあ、明日また何か写真送って。…ビミョーなんだよオレ的に。今日の送ってくれた時、なんかムカついたんだけど、その後なんも来なかったら余計イライラして来たし」
「…ごめん」
「ごめんて言うな。…早く…」
「…」
「早く帰って来いよ!じゃあな!」
ドアを開けたチハルと目が合って目を反らしてしまった。スマホを持つ私の手を見るチハル。
チハルが少し笑って聞いた。「ヒロセさん?」
言い当てるよね…
なんだろう…なんだろうこの、どっちとも付き合ってないのに二股かけているような気分…しかもこんな私の分際で。『早く帰って来い』とかものすごく嬉しい事言われたのにこの後ろめたさ。チハルと部屋が別だとウソを付いた事で、どんな嬉しい言葉にももう全く喜べない。
「ヒロセさんよな?」近寄りながら私の手の中のスマホを指差し、もう一度確認するようにチハルが聞く。
「…うん」そっとスマホをバッグになおす。
「姉ちゃんがかけたの?オレが出て行った隙に」
「違う。かけて来てくれた」
「なんて?」
なんてって…『早く帰って来い』って言ってくれた。でもそれをチハルに教えたらまた変な感じになる。
「何も別に…」と口ごもる。
「秘密なん?」と笑うチハル。
「別に秘密じゃないよ。たいした話じゃないだけで。旅行どう?って聞いてくれただけ」
「へ~~」
「…あんたは?ハヤサカマイちゃんから連絡ないの?」
「オレがヒロセの事聞いたらその名前出すけど、それは何のつもり?」
「…いや、別に…ごめん」
変な感じで謝ってしまった私をじっと見下ろすチハル。やっぱり目を反らしてしまう。
が、「ま、いいや」とチハルが言った。「テレビ見よ?テレビ。はい、ソルティライチ」
そう言ってペットボトルを渡してくれて、私と1メートルくらい離れて座った。
「どこリコモン」と探すチハルに「あ、ここ」と言いながら私がプチっと電源を入れたら、画面はどこかの街の景色なのに、『ほんとはずっと!ずっと好きだったの!』と叫ぶ女の子の声。
え?と思ったとたんに画面は急に見つめ合う男女の顔のアップ。
…これ、サキちゃんが少し前に面白いって言ってたマンガが原作のドラマなんじゃ…ていうかこの男の子の方、露天風呂で一緒だったおばちゃんたちが言ってたチハルに似た俳優っぽいけど、あ!
『もっと早く言えよ。いつまでも待たしてんな』とイケメン語を発しながら女の子を抱きよせるチハル似の俳優。あ、やっぱチュウした!
ピッ!とチャンネルを変えてしまった。