3杯目:マルガリータ
「いらっしゃいませ」
扉を開けるとそこには、思わず「バルス!」と叫びたくなる程、イケメンなバーテンダーが笑っていた。
くっそう。イケメンはマジで滅べ!
「? お客様? どうかなされました?」
入り口から動かず、一人勝手にコンプレックスに落ち込んでいた俺を不審に思ったのか、笑顔にわずかな困惑を混ぜてバーテンさんが問う。
「いえ。何でもありません。ちょっと顔面の格差社会に嘆いていただけです」
「はい?」
正直に答えてみたが、当然、意味が通じるわけもなく、バーテンさんはさらに困惑。それでも、表情に笑顔を保っていたのは、さすがは客商売のプロ。
「いや、本当に何でもありませんから気にしないでください」
気にされて意味に気付かれても、俺が凹むだけなのでそう言って、俺はふわふわと妙に揺れる視界と足取りでカウンターまで歩く。
何か、上手く歩けないな。俺、ここに来る前に酒でも入れたっけ? そんな記憶はないんだけどな。
けど、この妙に揺れる視界と足取り、そしてバーテンさんがの笑顔のまま、俺が歩くのを心配するような目をしてるから、俺は傍目から見たら相当酔ってるのかもしれない。
でも、あと一杯。最後に一杯、飲まなくちゃいけないものがある。
やっとたどり着いたカウンターで、俺は椅子に座る前に注文した。
「すみません。マルガリータを一つ」
俺が席につくと、バーテンさんの表情から心配は消えて、ニッコリという擬音がぴったりな笑顔で応える。
「かしこまりました」
背を向けて後ろの冷蔵庫やグラスを飾った棚から、酒や氷、グラスを用意して、カウンターに並べるバーテンさん。……ちょっと待て。バーテンさん、酒瓶の数多くね?
「レシピは、レモンジュースと、ライムジュース。どれになさいましょう?」
俺の疑問は、バーテンさんの質問で払拭される。珍しいな。客にレシピのリクエストを訊いてくるバーなんて。
「カクテルはシェイキングやステアなどの技術ももちろん大事ですが、組み合わせとその割合が命。これらの良し悪しを判断するのは、結局のところ作るバーテンではなく、お飲みになるお客様です。
私にとってのバーテンダーの意義は、自分の誇りを掛けた配合のカクテルを提供することではなく、お客様が飲みたいもの、お客様にとって一番『美味しい』と思ってもらえるものを作らせていただくことだと思っております」
超能力者かと思うくらい良いタイミングで、不思議に思ったことは全部説明された。そんなに俺は、わかりやすい顔をしてたんだろうか……。
しかしなるほど、バーテンさんが試行錯誤の結果見つけ出した、酒のプロが一番うまいと思える組み合わせを出してもらうのもいいが、こういう気遣いも嬉しいな。
このバーテンさんの言うとおり、どんな酒のプロだって、好き嫌いはあるだろうし、そもそも酒は、アルコールに強いか弱いかで、飲んで「美味い」と思えるかどうかが、かなりはっきりと分かれるだろう。
いくら何千種類の酒の味を知り、何万通りの組み合わせを調べた結果の最高の組み合わせだって、酒が嫌いな人ならもう酒が入ってる時点でアウトだ。
「『美味しい』と思う気持ちに、国境も人種も貴賤もありませんが、個人の好みはありますからねぇ」
俺が一人で納得してると、やっぱりピッタリなタイミングで、ちょうどいい相槌を打ってきた。あんた、エスパーか!?
「いえ、ただのバーテンダーです」
その返答がエスパーの証だよ!
目の前のニコニコ笑うバーテンに底しれなさを感じながら、俺はライムジュースを選んだ。
レモンジュースの方が一般的だろうが、俺が始めて飲んだマルガリータのレシピはライムジュースだったせいか、レモンのマルガリータはどんなに美味くても、「何か違う」と思ってしまう。だから、レモンかライムを選べたのはちょっと嬉しい。
「かしこまりました」
材料の、テキーラ、オレンジのリキュールであるホワイトキュラソー、そしてライムジュースをそれぞれきっちり分量を量り、シェーカーに材料と氷を丁寧に入れながら、バーテンさんは俺に尋ねた。
「ところでお客様。『マルガリータ』の名前の由来をご存知ですか?」
「流れ弾に当たって亡くなった恋人を偲んで作ったカクテルに、その恋人の名をつけたんでしょ」
ドヤ顔即答で答える俺。
カクテルなんて洒落たものはめったに飲まないし、頭が悪くて必要なもの以外の知識を勉強して覚えるのは嫌だから、俺は人に語れるような雑学知識なんてほとんど持っていないけれど、これだけは唯一知ってるカクテルのうんちく。
マルガリータだけは、少し詳しい。
これは、俺にとっての思い出のカクテルだから。
「えぇ。その通りです」
しかし俺の雑学で、バーテンさんは驚く訳がない。当たり前だ。つーか、知ってるから訊いてみたんだろうが。
むしろ俺のドヤ顔が相当ウザかっただろうに、そんなのおくびも出さずに爽やかに笑っているバーテンさんはマジ客商売の鏡。
「一応、他にもスノースタイルであることから、どんな酒でも塩を舐めながら飲むガールフレンドの為に作られたなど、諸説は色々あるそうですが、それが一番有名で、ロマンがありますね」
しかもバーテンさんがほとんど音も立てずに、静かにシェーカーを振りながらした補足で、俺の知識の浅さが露呈される。マジかよ、他にも諸説があんのかよ。
俺が凹んでいる間に、テキーラ・キュラソー・ライムジュースがよく混ざり、氷で冷やされたマルガリータは、シェーカーから丸っぽい形のカクテルグラスに注がれる。
「この悲恋の由来からか、女性連れのお客様に注文されることが多いですね。うんちくで感心させて、由来のロマンを使って口説くのが典型です」
……凹みながら、透明感のない真っ白だけど、牛乳とは違うさらりとした水が、塩で飾られたグラスに注がれるのを眺めながら、バーテンさんの話を聞く。
「さっぱりとした酸味の為、女性に好まれるカクテルですが、度数は二〇後半から三〇ほど。やや高めなので、私はアルコールに慣れていない、または弱い女性にそれを知っておきながらこのカクテルを勧める方を、言いたくありませんが嫌悪します」
ニコニコとした穏やかな笑顔のまま、言いたくないと言いながら、キッパリはっきりと彼は言った。
言っちゃなんだが、そういうお持ち帰り狙いの男なんて、バーをやってりゃ嫌程見るだろう。それこそ、見るからに学生を連れて来たとか、泣いて嫌がってる相手に無理やり飲ませて酔い潰すとかでもしない限り、女の方も危機感がなかったせいと責任転嫁して、見て見ぬふりをした方が楽なはず。
けれど、このバーテンさんは顔こそは笑顔だけど、目が揺るがない。
バーテンさんは俺の目を見たまま、笑顔のまま、俺の答えを待っている。
俺が罪悪感に負けて目を逸らすか、俺がその場しのぎでお茶を濁すか、見定めるように真っ直ぐに俺を見ている。
居心地が悪い視線だった。
疑われているからじゃない。俺には、罪悪感があるから。
でも、だからこそ俺は真っ直ぐにバーテンさんを見返して答えた。
「……俺も、そういう奴は大嫌いですよ」
罪悪感はある。お前も同罪だと言われたら、俺は否定できない。
でも、この言葉は本当。今も昔も、これからもずっと変わらない本当だから。
俺の答えに、バーテンさんは柔らかく微笑んだ。
「でしょうね」
俺がどう答えるかを予測し、その答えが当たったことに喜ぶように笑った。
「どうぞ。ご注文のマルガリータです」
アクリルのコースターと一緒に、男も見惚れるような笑顔で彼はカクテルをカウンターに置いた。
「ありがとう」
礼を言って俺は、マルガリータを一口飲む。
一口飲んで、驚愕する。
俺が始めて飲んだマルガリータと同じ、レモンではなくライムを使ったレシピのマルガリータ。
レモンのマルガリータを飲んだとき、初めて飲んだ奴より甘いと感じた。同じ店で同じライムのマルガリータを飲んだことのある妻にそのことを話してみたら、ライムはレモンより苦みが強いからそう感じたんじゃない? と言われて、納得していた。
今ならわかる。あの店のバーテン、カクテル作るの下手なだけだ!
よくよく思い返してみたら、あのバーテン、このバーテンさんみたいにちゃんと分量、量ってたか? なんか砂時計みたいな形のメジャーカップなんか使ってなかったぞ! 目分量でシェーカーに直接入れてたのを思い出した!
あぁ、くそ。何であんなクソまずいものを思い出にしてたんだよ、俺。思い出にするんならこのマルガリータがいいわ!
グラスの縁の塩の量は、見た目も舐めるにしても、ちょうどいい量。そういや、あの店のスノースタイル、食塩でやってやがった! そりゃ、まずいわ! つーかしょっぱいわ!
始めて飲んだ時に感じたライムの苦みは、このマルガリータには感じられない。ライムの香りと酸味はしっかりと感じるのに、テキーラとホワイトキュラソーに調和させて、どれも悪目立ちさせてない。
いやー、思い出補正って奴は怖いな。あんなまずいものが美化されるなんて。
……美化しているのは、酒だけじゃなくて俺もか。
あれは、苦い記憶として、罪悪感として、本来は背負うものだ。
妻とのなれ初めなんて綺麗な言い方をするものじゃない。
大学時代、俺はバーのウェイターとしてバイトしていた。一人暮らしの貧乏学生が、先輩に割のいいバイトだと紹介されて始めたバイトだったが、そこのバーはこんな落ち着いた上品なものじゃなかった。
ボーイズバーとホスクラの中間。風営法におそらく思いっきり違反してるようなバーだった。
俺は残念ながら顔面偏差値は平均……だと思いたいというレベルなので、ホスト役のウェイターではなく、本当に注文の酒を机に運んだり、食器を片づけたり洗ったり掃除したりという雑用役だった。
居心地のいい職場ではなかった。それは、顔面偏差値がそのまま格差になるからってのもあったが、そのバーは本当に性質が悪い店だった。
客引きは当たり前、明らか未成年も引き込んでいた。ホスト役にモラルがなければ、プロ意識というものもなかった。あいつらは自分好みの可愛い子が客としてきたら、良い潰して持ち帰ったあげく、金も抜く。そういう事を自慢げに話す奴らだった。
俺は、そういうあいつらの犯罪行為を見て見ぬふりしてきた。その当時は、父親が病気をして、一時だが働けなかった為、本当に金がなかったから、どんなに周りが嫌な奴らばっかりでも、俺は割のいいこのバイトを手放したくなかった。
けれど、あの日は我慢できなかった。
違う。我慢してはいけない、逃げてはいけないと思ったんだ。
「知ってます」
キッパリとした女の子の声が聞こえて、俺は客よりもホストが飲み散らかしたテーブルを片付けながら、何気なくその声がした方を見た。
「マルガリータの由来は知ってます。そのカクテルの度数も。
私、お酒が苦手だからノンアルコールをお願いしましたよね? カシスオレンジとかを勧めるならまだしも、苦手な人に度数二〇度後半を勧めますか、普通」
化粧っ気がないのに、この薄暗い照明の下でも整った顔立ちがはっきりとわかる、そんな二十歳になったばかりくらいの女の子が、不愉快そうに眉を歪めながら、はっきりと言った。
あまりにも可愛い子だからか、彼女の周りにはホストが四人もいて、同じテーブルについてる他二人の女の子には、見向きもしていなかった。
他の女の子も化粧っ気がなくて、決して不細工ではないけど野暮ったい印象。そして、この場を楽しんでいるのではなく、明らかに戸惑っていた。おそらく、全くこういう場に興味がないのに、無理やり客引きで連れてこられたんだろう。
「うわー、きっつー」
「そんなことないってー。酒なんて、飲んで慣れるものなんだから、ほら一口くらい飲んでみなよー」
やたらと美人な一人の勝気な言葉に、ホスト達は顔を歪ませたが、すぐに軽薄な態度を取り戻し、グラスを彼女の口に突き付ける。
それを、怒りに滾った眼で睨みつけて、女の子は爆発した。
「いい加減にして! 人の腕を掴んで無理やりここに連れて来て、いらないって言ってるのに勝手にお酒注文してこっちに進めるなんて、押し売りよりも性質が悪いわ!
もう警察呼ぶ! 無理やり連れてこられて、取り囲まれてお酒も無理やり飲まされそうって言う! 事実だもん!」
そう叫んで、ケータイを取り出した瞬間、彼女の体は横に吹っ飛んだ。ホストの中で、特に性質の悪い、手の早い奴に殴られたから。
ホストに幸か不幸か無視されていた女の子たちが悲鳴を上げる。その悲鳴すら無視して、吹っ飛んだ女の子をやはり四人で取り囲み、あいつらは倒れた彼女を足蹴して怒鳴りつけたんだ。
「チョーシこいてんじゃねぇぞ、クソガキが!」
鏡に向かって言えばいいセリフを吐きながら、彼女の髪を掴んであいつらは彼女に無理やり飲まそうとしていたマルガリータを、顔にぶっかけた。
そんなことをされながらも、彼女は言ったんだ。
「逃げて!」
あの子は、友達に「逃げて」と言った。自分の危機的状況を顧みず、二人に逃げられたら、それこそ自分は何をされるかがわからない、そんな状況なのに、彼女は友達を優先した。
逃げてはいけないと思った。
人としてこの先の人生を生きていきたいのなら、見て見ぬふりをしてはいけないと思った。
気が付いたら、殴っていた。彼女を殴った、一番いけ好かない雰囲気イケメンを。
結果、四対一で俺はぼろ負けだったんだけど、あいつらの矛先が女の子から俺らに移ったおかげで、女の子たちは店から出て警察に通報することが出来た。
そのおかげで、俺がリンチで死ぬ前に警察がホスト達を傷害の現行犯で捕まえてくれて、ついでに店の風営法やら、今までの行いが芋づる式で露わになって、俺のバイト先は当たり前だけど倒産。
そして俺は一番収入が良かったバイト先を失ったことと、リンチで大怪我を負って入院したことで、他のバイトも行けなくなって首になるわ、治療費で金が無くなるわで、自分の良心に重荷を背負ってまで続けたかった大学をやめざるおえなくなった。
その代わりに得たのが、気が強くて、せっかく美人なのにお洒落に興味がなくて、真っ直ぐすぎて損ばっかりする恋人だった。
「ごめんなさい! 私のせいで!」
病院に搬送される俺に縋って泣いて謝って、入院中も何度もお見舞いに来て謝って、彼女が払う責任なんてないのに治療費を払うと言い張って、それを俺が何とか説得して、納得しない彼女がせめて身の回りのことだけでもと言って、入院中に俺の部屋の掃除や洗濯をしてくれた。
退院した後も、俺のアパートに毎日のように来て、飯を作ってくれた。大学をやめて働かなくちゃいけない、とりあえずまた開いてる時間を全部バイトに費やそうとしてた俺に、まともなバイトだけにして、資格の勉強をした方がいい。生活費が足りないのなら、自分が出すと言い張って、また俺はそんなことしなくていい、っていうかそんなヒモみたいな生活を俺は贈りたくないと説得に回ったけど、今度は言い負かされた。
結果として、それは良かった。その時に勉強して取った資格のおかげで、手に職をつけたおかげで、バイトではなく小さな職場だけど真っ当な職につけた。
採用通知をもらった日、もうほとんど同棲と言っていい生活を送っていた彼女に真っ先に報告した。喜んでくれると思った。
けれど彼女は、寂しげな顔をした。
「私、もう必要ないね」
同棲してるも同然だったのに、俺たちは清い関係だった。っていうか、どちらも告白してもなかったから、実は出会って三年ほどたっていたのに、俺たちは付き合ってすらいなかった。
寂しげな彼女の顔と言葉から、別れが告げられると思った俺は、この時になってようやく、自分の気持ちを口にした。
「結婚してくれ!」
告白をすっ飛ばしてプロポーズをしてしまった。
彼女は、俺の言葉にしばらくきょとんとしてから、告白はどうしたとキレた。キレながらも、笑って、泣いて、「はい!」と答えてくれたんだ。
ちなみに、両親に結婚の報告をした時は、どちらの親も俺たちが結婚を前提に同棲してたと思い込んでいたので、まさか恋人期間が正確にはゼロだなんて言えなかった。
そんなマヌケなプロポーズから五年。
俺たちはいつも、結婚記念日にちょっといいレストランで食事をして、出会ったあのバートは違う、落ち着いたバーでマルガリータを飲む。それが毎年恒例の決まりごとになっていた。
妻は本当は、酒が強かったのは結婚をしてから知った。酒が弱いから飲めないと言い張っていたせいで、俺が怪我したと思っていたから、酒が飲めると知ったら嫌われると思っていたらしい。そんなこと、今更どうでもいいのに。
俺があの時、君を助けたのは、酒が飲めない弱い子だからじゃない。友達を自分よりも優先して助けようとした、強い子だからなのに。
俺は妻と違い、弱い。嫌なものから見て見ぬふりをして、誰かに責任転嫁をして、生きてきた。
でも、彼女の前でだけは強くありたい。真っ当な人間でありたいと思っていた。
そしてこれからも、そうでありたい。
――あぁ。霞みかかっていた記憶が晴れていく。
思い出したよ。俺がここに来た理由。上手く歩けなかった訳も。
マルガリータを飲み干して、俺は自分の足を見る。
脳裏に浮かぶのは、車のライト。耳に残っているのは、つんざくようなブレーキの音。
結婚記念日、毎年恒例のレストランとバー。ほろ酔い気分で妻と二人、ゆっくり歩いて駅まで向かっていた。
あの車は、飲酒運転か。それとも危険ドラッグか。おかしな蛇行運転の末、歩道を乗り上げて、俺たちに向かって突っ込んできたのを覚えている。
咄嗟に、妻を庇ったことを覚えている。
その結果を、見る。
俺の足は、腿から下が無くなっていた。
ぶっつりと切断されてるとか、グロテスクに潰れてるわけじゃないのが救い。幽霊画によくありそうな感じで、腿から下が混ざったようにぼやけて、足の形になっていない。
気が付いていなかったとはいえ、よく歩けたな。そりゃ、バーテンさんも心配そうな顔をするよ。
「……思い出されましたか」
バーテンさんは相変わらず、笑っている。笑ってはいるけど、その笑顔はどこか痛々しい。
「……妻は、どうしてるかわかりますか」
俺はバーテンさんの質問に答えず、逆に訊く。この質問で、十分答えになるだろう。
「奥様は、あちらに」
バーテンさんが手で示したのは、青い扉だった。
「お客様がとっさに突き飛ばしたおかげで、かすり傷で済みました」
痛々しさを消して、バーテンさんは柔らかく笑って教えてくれた。
あぁ。それさえわかれば、もういい。俺も、もういかなくちゃ。
「……そうですか。どうも、ありがとうございます」
俺は笑って、立ち上がる。立ち上がるという表現は変な気がするけど、足がないことに気が付くと違和感が気持ち悪いけど、それでも俺は扉に向かう。
紫の扉に、向かう。
「……そちらを、選ばれますか」
背中でバーテンさんの悲しげな声がした。
「……こんな足になっておめおめかえっても、彼女の迷惑になるだけだ」
青い扉の向こうの俺が、どんな状態なのかはわからない。
ただ、両足が単純骨折しただけ、リハビリで元に戻るような怪我ではないはず。その程度の怪我なら、ここには来れないはずなのは、初めて来たくせにわかる。
死にたい訳じゃない。生きていたいさ。彼女と一緒に。
でも、俺はもう、愛さえあれば何でも乗り越えられると思えるほど若くない。そして、強くない。
怖いんだ。足を失って、これから生きていくことが。
その、足を失う原因だと、妻を責めて、憎み、嫌ってしまうことが。
俺は弱いから、自分のちっぽけなプライドを守る為に、彼女に理不尽な怒りをぶつけてしまう自分が、たやすく想像できる。
そんな俺に彼女が愛想を尽かしてくれるのなら、それでいいさ。自業自得なんだから。
でも、八年前と同じように、必要以上に責任を感じてしまったら?
自分のせいだと責め立ててしまったら?
彼女は強いからこそ、俺の理不尽に耐えることを選んでしまうかもしれない。
だから、俺はこちらを選ぶ。
きっと、どちらにしても彼女は自分を責める。
でも、自分の代わりに俺がこちらにいったと自責に駆られても、彼女は自分の命を無駄にするよう真似は決してしない。
俺が、何を、誰を守りたかったかをちゃんと彼女はわかってくれる。理解してくれる。
そして、俺の気持ちを無駄にしないと信じてる。
……ごめん。ごめんな。弱くてごめん。強くなくてごめん。……一緒に生きていけなくて、ごめん。
「……あの、バーテンさん。ありがとうございます。最後に、美味いマルガリータを飲ませてくれて。あれがなけりゃ、俺はライムのマルガリータはまずいものだと思い込んでましたよ」
滲む視界を拳で拭って、最後に意地で笑ってバーテンさんに礼を伝える。
「……最後とは、限りませんよ」
「え?」
バーテンさんの返答が理解できず、俺はマヌケな声を上げて聞き返すけど、彼はカウンターの向こうで穏やかに微笑んでいた。
もう、痛々しさも、悲しげな様子もない、安心するように、安心させるように笑って、彼は言う。
「忘れないでください。マルガリータの由来を。これは、愛した人、愛する人を悼んで、偲んで、そして想い続けたカクテルであることを」
その言葉の意味も、理解出来なかった。
理解できないまま、俺は紫の扉を開けた。
テキーラ、ホワイトキュラソー、そして自家製のライムジュースをシェーカーに入れて、氷も入れて、いざシィキング! というタイミングで、スカートが引っ張られる。
「ママ! きょーがやりたい! シャカシャカやりたい!」
今年で五歳になる、かわいい盛りの息子にこんなことを言われたら、でれっと笑ってシェーカーを渡すしかない。
「そっかー。きょーちゃんがやってくれるんだー。じゃあ、シャカシャカしてー」
息子にシェーカーを渡すと、ちっさい紅葉の掌でしっかり持って、元気に力いっぱい上下に振る。……あぁ、中で氷が砕けてるな。これは絶対に薄い。
今更だけど、うちはごくごく平凡な母子家庭。しっかり手に職をつけてるから、お水でもない。つまりは、シェーカーなんてあるわけない家庭。
なのに何でこんなものがあって、家でカクテルを作っているかと言うと、飲ませたい相手は店に連れて行ける人じゃなくて、飲ませたいカクテルはシェイキングで作るもの。なら、家で作るしかないでしょうという事で、シェーカーと、材料だけは家に常備してある。
一年で一度だけの為に、常備してあるマルガリータの材料。
「ママー! できたー!」
出ていない汗をぬぐう動作をして、私にシェーカーを渡してくれるかわいい息子。ただ、中身は予想通り、砕けた氷が溶けて、見るからに薄そう。
でも、まぁ良いでしょう。あの人も文句は言うまい。言ってもどうせ私には聞こえないと、変な開き直りをしながらグラスにカクテルを注ぎ、それを息子に渡す。
「はい。じゃあこれ、パパの所に持って行ってねー」
「はーい」
元気よく返事をして、零さないように慎重に、慎重すぎて逆に危なっかしい足取りであの子は、仏壇まで歩く。
……文句はないわよね、剛さん。
強一が、貴方の名前から字を変えて一文字もらった、貴方の息子が作ったものなんだから、少しくらい薄くたって喜ぶわよね。
心の中で夫に話しかけて、私は自分の分のマルガリータを作る。
貴方がいなくなってから五年、結婚一〇年目の結婚記念日に、乾杯。
多分、名前の由来が一番有名なカクテル。
本当はこれを二話目にする予定だったけど、こちらもスノースタイルだったので、スノースタイルをここで説明しないのは、カクテルに詳しくない読者にやさしくない、でもスノースタイルの説明をすると無駄に長くなると思い、「塩」が話のメインの一つになっていたソルティ・ドッグの方を先に上げました。
さらについでに言うと、四話予定の話はグリムさん視点なので、グリムさんが二連続で出るのを避けたかったからでもあったりする。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございましたー!
出来れば、感想の方もよろしくお願いします!!