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2杯目:ソルティ・ドッグ

新キャラが出てきます。

バーテンさんが狂言回しな、オムニバス式な話なのに、何故か新キャラが出てきます。


「いらっしゃいませ」

 扉を開けるとそこには、さわやかに笑うイケメンなバーテンダーさんと、


「あー、もう何なのよ!何で毎日毎日残業なのよ! 何で休日出勤が当たり前のようにあるのよ! 残業手当も、休日手当も出るったって、使う暇がないのよ、バカー!!」

 カウンターで社畜の悲哀を叫びながら、かき氷をかっ込んでるお客さんがいた。


「……すみません、グリムさん。他のお客様に迷惑ですから、叫ばないでください。あと、フローズン・ダイキリはかっ込むものではないと思います」

 バーテンさんは器用に、微笑みのまま困った様子を見せて、フローズン何とかというものをガツガツ食べるおねーさんに注意した。


「何よー。何をどう食べようが、何をどう飲もうが、あたしの勝手で……うっ!」

 かき氷っぽいものを食べていた、眼鏡に喪服みたいなスーツの真面目そうなおねーさんが、もうすでに出来上がってるのか、赤みの帯びた顔色でバーテンさんに食って掛かったと思ったら、うめき声をあげてカウンターに突っ伏した。


「!? だ、大丈夫ですか!?」

「あー、大丈夫です。大丈夫。確実に、アイスクリーム頭痛が起こっただけですから」


 思わず駆け寄って、声をかける私に、バーテンさんはやっぱり笑ったまま呆れたように眉を下げて、おねーさんの状況を説明した。

 うん。実際、近くで見たら、カウンターに突っ伏して、頭を抱えて「痛いー! キーンってきた! キーンって!」とうなってるだけだった。


 私が心配して損したとばかりに溜息を吐くと、クロも呆れたように「わふっ!」と小さく鳴いた。

 ……ん? クロ?


 自分の右手を見る。しっかりと握っているのは、3年間愛用している、散歩用の赤いリード。

 その先に繋がっているのは、今年で十五歳になる、我が家の愛犬、おそらくゴールデンレトリバーあたりが混ざってる、大型犬の雑種、クロがちょっと白っぽくなった目で見上げていた。


 私は何、ナチュラルに飲食店に犬、しかも大型犬を入れちゃってるのー!?

 このおねーさんを見て、「非常識な人だな」とか思う資格ないじゃん! 酔ってない、シラフな分、私の方が非常識で性質が悪いわ!


「す、すすすすみません! 犬を連れて入ちゃって! すぐに出て行きます!」

 とにかく私は謝って、クロを連れて出ようとするけど、クロはお店のフローリングに根でも張ったかのように動かない。何で!? あんた、聞き訳の良い子じゃん!


「落ち着いてください。構いませんから、どうぞ、ワンちゃんとご一緒にお楽しみください」

 私がクロを何とか連れて出ようと悪戦苦闘していると、バーテンさんが柔らかな声音で、苦笑気味に言ってくれた。


「え? で、でも外とかのテラス席とかならまだしも、飲食店の店内にこんな大型犬は……、しかもこの子、長毛種だし」

「こいつがいいって言うんなら、気にしなくていいわよ、おジョーちゃん。あたしも、気にしてないし。

っていうか、可愛いー! きゃー、癒されるー! アニマルセラピーさいこー!」


 バーテンさんの言葉は嬉しかったけれど、さすがに甘えるわけにはいかないと思っていたら、頭痛から回復したおねーさんがクロの頭を撫で回し始めて、もう何か別にいいかという気分になっちゃった。

 うん。お客はこのおねーさんと私だけだし、バーテンさんも良いって言ってるんだし、他のお客が来たら出ればいいや。お言葉に甘えよう。


 私は「すみません、ありがとうございます」と言いながら、カウンターに座って、メニューを見もせずに注文した。




「ソルティ・ドッグをください」




 言って、自分で首を傾げた。

 ソルティ・ドッグ? 聞いたことはあるような気がするけど、飲んだことないなぁ。


 っていうか、私そもそもカクテルなんて洒落たもの、ほとんど飲まないや。だいたい、ビールや発泡酒、たまに日本酒という、一応まだ二〇代前半なのに、おっさん臭いと言われる酒のラインナップだ。我ながら、どうよ、これ。


「かしこまりました」

 当たり前だけど、私が自分の注文に困惑しているなんてバーテンさんが気付く訳もなく、カチャカチャとグラスや氷、お酒の瓶を用意し始めた。


「あら、ソルティ・ドッグ? いいわね。あたしも好きよ、それ。ベースはウォッカ? それとも、オールドスタイルでジンにしちゃう?」

 床にかがみこんで、クロを撫で続けるおねーさんが、カウンターに座る私を見上げて話しかけてきた。


「え? ウォッカ? これ、もしかして結構強いカクテルですか?」

 だとしたら、私、さほどお酒強くないから飲めないかも。だから、日本酒も味は好きなのに、たまに、一杯程度しか飲めないのに!


「大丈夫ですよ。ソルティ・ドッグのレシピは、ウォッカとグレープフルーツジュース、それからレモンと塩ですから。オールドスタイルでも、ウォッカがジンに変わる程度ですね。正確には、もう少し違いますけど。

 どちらにしろ、グレープフルーツジュースの割合を多くして、度数の調節は出来ますので、ご安心を。」


 慌てる私に、バーテンさんはタンブラーグラスを、カットレモンで拭くように縁を濡らしている。

 それからそのグラスをひっくり返して、お皿に盛った白い粉っぽい物の上へ、カシュカシュとグラス回転させながら軽く叩くようにして、縁にその白い粉をつけた。


 あ、これ、カクテルの写真でたまに見る奴だ。何だっけ?


「スノースタイルのカクテルは初めて? っていうか、ソルティ・ドッグが初めてよね、おジョーちゃん」

 おねーさんがやっぱり、床に座ってクロの喉を撫で続けながら尋ねてきた。

 どうでもいいけどおねーさん、クロは猫じゃなくて犬なので、喉を撫でてもあまり喜びませんよ。 あぁ、何かクロも困った顔してる気がする。


「え、あ、はい。なんか、ここに座った瞬間、飲んだこともないのにも飲みたくなっちゃって。……不思議ですよね」

「不思議じゃないわ。よくあることよ」


 私の答えは、「へーそうなの。不思議ねー」という聞き流しに近い同意しか予想してなかった。まさか、否定されるとは思わなかった。


 びっくりしてる私なんか気にもかけず、おねーさんはクロを撫で続けながら、「スノースタイル」とやらの説明を始めた。


「スノースタイルっていうのはねー、グラスの縁に塩や砂糖をまぶすデコレーションのことよ。やりかたは、さっきあいつがやってた通り、レモンとかライムとか、基本はそのカクテルに合う果物を使って縁を濡らし、皿に盛った塩にグラスを逆さまにして均等にまぶす。砂糖でも一緒。

 まぶされた塩や砂糖は、カクテルを飲みながら舐めてもいいし、カクテルの中に落として溶かしてもいい、もちろん、いらなきゃ舐めなくてもいいし、初めにスノースタイルはやめてくれって、バーテンに頼んでもいいのよ」


 あ、舐めても舐めなくてもいいんだ。良かった。あれ、どうやって飲めばいいんだろうと、見た瞬間変な不安を感じてたから、その説明はありがたい。


「私の代わりにご説明、ありがとうございます」

「お礼なんかいいから、何か出して。何か美味しいカクテル出して」


 縁を塩で飾ったタンブラーに、氷とお酒とジュースを入れながら、客商売の鏡だなと思わせるくらい、さわやかにバーテンさんが言うと、おねーさんが全てを台無しする返答をし出す。

 この人、顔の造形は知的な美人なのに、中身はただの酔っ払いだ。残念すぎる。


 しかし、このおねーさんは常連で、バーテンさんは対応に慣れ切っていたのか、笑顔を崩すことなく、グラスの中をスプーンでカラカラと混ぜながら、即答した。


「では後で、プレーリー・オイスターでも。この後また、お仕事ですよね? 酔い覚ましにちょうどいいでしょう」

「何の嫌がらせよ、それ!?」

 ……嫌がらせなんだ。どんなカクテルなんだろう、そのプレーリー・オイスターって。


 バーテンさんの言葉に絶叫して、地べたに倒れ伏すおねーさん。それをどう反応したらいいかわからず、思わずクロの方に目をやると、クロも「どうしよう?」というように。小首を傾げた。


「可愛らしいですね」

 それを見ていたのか、バーテンさんの笑っている目が、さらに柔らかくなる。

 その、柔らかなまなざしのまま、私の前にコースターとグラスを置いた。






「どうぞ。ご注文のソルティ・ドッグです」







 タンブラーグラスには、氷とやや黄色をおびた白い液体で満たされている。

 おねーさんに言われた通り、スノースタイルというカクテルは初めてなので、まずはグラスの縁の塩を舐めてみた。


「……あ、思ったよりも、しょっぱくない」

「マルガリータ・ソルトという、特殊に加工された塩を使用しております。食塩よりも、味がマイルドで、見た目も粒子が大きくて綺麗でしょう? 味も見た目も、カクテルと相性が良いんですよ」


 バーテンさんの言葉に頷いて、私は塩と一緒にカクテルを一口飲んでみる。


「!?」


 美味しい! グレープフルーツで割ってあるから、酸っぱいかと思ったら、縁の塩で甘さが引き立てられてる!

 初めて飲むソルティ・ドッグが私の好みドンピシャだったからか、それとも気付いてなかったけど、のどがカラカラだったからか、私はグラスから口を離すことが出来ず、一気にそのカクテルを飲み干した。


「気に入られたようで、何よりです」

 バーテンさんの言葉を聞きながら。


「貴方の愛犬も、本望でしょう。……さぁ、後悔にばかり目を向けていないで、撹拌して、浮かび上がらせて、思い出してください。

 この子が貴方に何を望んでいるかを」






 ソルティ・ドッグなんて初めて飲むし、カクテルなんてそもそもお酒飲み始め、何がいいかわからない時期にカシス系やカンパリ系を飲んでみた程度。

 っていうか、最近日本酒もビールも発泡酒も飲んでなかった。


 理由は簡単、ダイエット中だから。

 別に太った訳じゃないけど、今年は大学の頃の友達と海に行く予定が出来たから。大学の頃から体重は 変わってないんだけど、運動量は明らかに減ったから、色んなところがタルタルしてると感じて、私はダイエットを始めた。


 目指せ、ウエストをマイナス5センチ!と目標を立てて、とりあえず始めたのはクロの散歩を兼ねたウォーキング。

 クロはもう歳だから、行先が家から1キロも離れていない公園でもだいぶへばっちゃうから、そこまで行ったらクロのリードを公園の遊具とか柵とか、邪魔にならない所に繋いで、私はひたすら公園をぐるぐる回る。


 三十分も回ったら、クロもすっかり回復してるから、クロを連れて帰る。それが、ここ最近の私に日課だった。


 そうだ。今日も私は、会社から帰って来て、クロの散歩に出かけて、公園でウォーキングをしてた。

 海に遊びに行くまで、あと一週間しかないのに、ウエストは全然減らないから、もっと運動量を減らそうと思って、いつも降りる駅より二つも前の駅で降りて、歩いて帰って来たんだった。

 しかも、家に買ってすぐ、ジャージに着替えてクロの散歩に行った。


 ……私が今日、最後に水分補給したのはいつだっけ? 記憶が確かなら、お昼ご飯の時くらいで、仕事中は飲んでなかった気がする。

 あぁ、お昼ごはんもそういや最近、サラダオンリーだ。朝晩も、肉類や炭水化物をなるべく減らしてた。


 疲労、栄養不足と重なって、水分不足。

 私が、ウォーキング中に倒れるのは、当然の結果だったんだ。


 夏とはいえ、時間は19時を過ぎてたから外は暗い。なのに、気温は高い。昼間よりはずっと涼しいかもしれないけど、30度以下には決してならない気温が、倒れた私からさらに体力を奪っていく。

 けど、私にはどうしようも出来なかった。だって、倒れた時にはもう、暑ささえも感じていなかったから。


 からっからに口の中が乾いて、痛かった。目の前の景色が、ぐるぐる回り続けていた。

 誰か助けてと叫びたかったけど、声なんて喉に張り付いて全く出てこない。かすれた息だけが、かろうじて出せた。


 どうして、こんな時に鍵って誰もいないの!? 誰か通って! 誰か、助けて!!

 私は、心の中で叫び続けた。


 でも、私の心の声を聞いてくれる人なんか、一人もいなかった。


 ……心の助けを訊いてくれる人間はいなかった。


 人間以外なら、いた。






「あぉん! がう! がうがうがう!! うぉぉぉーんっ!!」

 公園の柵にリードを繋いで、待たせていたクロが、必死に鳴いていた。




「ぎゃう! うぉんおんおんおん!!」

 何時もは大人しくて、無駄吠えなんて絶対しない子なのに。




「がう! ぎゃんぎゃんぎゃん! あおぉぉぉーん!!」

 もう、歳なのに。もう、15歳なのに。人間でいえば、お前はもう70歳を超えているんだよ?




「あう! うぉん! がうがうがう! うぉぉーん! うぉぉーん!」

 なのにあの子は、鳴いた。私の代わりに、喉が裂けそうな勢いで鳴きながら、私に駆け寄ろうとしている。




 やめて。私とお前の距離は10メートル以上離れてるの。リードを外さないと、首輪が外れないと、届かないの。これないの。


 そんなに暴れないで。首輪が締まって、苦しいでしょ? 痛いでしょ?


 お願い。やめて。


 私が倒れてるのは、情けなくて恥ずかしい自業自得なの。お前は、バカな飼い主だなーと思って、自分の心配だけしておけばいいの。


「ぎゃうん! あう! あうあう!! おぉーん! おぉぉーん!!」


 おねがいだから、こっちに来ようとしないで。そんなに鳴かないで。

 お前は、もう歳だから。無理な運動はダメだって、病院で言われたから、ゆっくり、ゆっくりいつもここまで来てるのに。

 散歩ももうあまりさせない方がいいって言われたけど、お前は未だに散歩が大好きだから、私も、クロとの散歩が好きだから……だから……だから、続けてるのに。


 お願いだから、鳴かないで。


 なかないで。


 泣かないで。






 私だって、まだまだクロと散歩を続けたいよ。






 グラスを叩きつけるようにカウンターに置いて、同時に立ち上がる。

「……帰らなくっちゃ」

 今やっと、ここがどういう場所なのかを理解した。

 どうして私がここにやってきてしまったのか、わかった。

 思い出してしまった。


「帰る! 私、帰ります! クロ! 帰ろ! 一緒に帰ろう!!」

 バーテンさんに味の感想も、カクテルのお礼も言わないままにただ叫んで、私はクロのリードを掴んで、しっかり握って、走る。

 青と紫の扉の元へ。青の扉を選んで。


「ほら、クロ! 行くよ! ……え?」

 しっかり握っていた、店に入ってからずっと離していなかったリードが、いつの間にかなくなっていた。

 私の後ろについて来ていると思っていたクロはいない。


 クロは、扉の前にいる。

 喪服のような黒いスーツをきたおねーさんが、リード握って傍らにいる。


 紫の扉の前に、クロはいる。


「な……んで……」

 どうしてなの? どうして、お前は「そっち」にいるの?


「……本来なら、この子はここに来ることはできないわ。だって、何も迷っていなかったのだから。何もかもわかって、納得して、満足した上での定められた終わり。

 貴女が今日、あそこで倒れなくても、この子は近いうちに、『こっち』にいくことが決まっていたの」


 さっきまで、酔っぱらって床に突っ伏していたおねーさんが、別人のように悲しげな顔をして語る。

 決まっていた? クロが? 「そっち」にいってしまうことが、決まっていたの?


「数日しか変わらないのなら、例えその数日を縮めても貴女に、『そっち』を選ばせたかった。自分のせいで、貴女が『こっち』を選んで欲しくなかった。

 この子が、ここに来れたのはその想いだけ。この子は、何も選べないし、初めから決めて、後悔なんてしていない。するとしたら、貴女が『こちら』に来てしまう事だけ」

 やめて。そんな言葉、聞きたくない。そんな後悔しないで。するなら、お前を「そっち」にいかせる原因になった私が飼い主だったことを後悔して!


 やだよ。やだよ、クロ。やだよ。

 私一人で、「こっち」にいきたくないよ。

 クロと一緒がいいよ。


 私がどんなに呼びかけても、クロは私の元には来てくれない。ただ、悲しげに、困ったように「くぅん」と鼻を鳴らすだけ。


「熱中症で倒れた場合の水分補給は、水だけではなく塩分も重要です」

 唐突に、カウンターから声がした。

 私が飲み干したソルティ・ドッグが入ってたグラスを洗ったのか、それを布巾で丁寧に拭いながら、バーテンさんは言う。


「ソルティ・ドックをスノースタイルにしないものを、テールレス・ドッグやブルドッグとも言います。

 ……お客様だけで来店された場合はおそらく、そちらをご注文されていたでしょうね」


 ……やめて。お願い。私は、クロと一緒がいいの。

 クロと一緒にいたいの。


「お客様」

 柔らかなまなざしで、けれど何かを願うように、バーテンさんは尋ねた。


「貴女の後悔と、罪悪感と願望に、あの子の『望み』は、混ざって溶け合わないものですか?」


 ……嫌だ。嫌なの。ずっと一緒にいたの。中学の頃に、学校の帰りに拾って、お父さんとお母さんに拝みこんで、泣きじゃくって、家出までして、「家族」と認めてもらった子なの。


 他の家族も大好きなくせに、まるで拾われたことに恩を感じてるように、私が悪くて親に怒られてる時、親に向かって唸ったり、私が落ち込んでたら、鼻を鳴らしてずっと傍にいてくれたの。


 クロと一緒にいたい。


 クロと一緒にいきたい。


 ……でも、クロのいく場所はもう決まってて、クロと一緒にいるなら私は「そっち」にいかなくちゃいけない。


それは、クロが残り少なかった時間を捨ててまでして、私に「こっち」を選ぶことを望んだのに、私がクロの捨てた時間を無駄にするという事。


そんなこと――






「決まったようですね。お客様の、心のカクテルの名前が」

 私は、扉のドアノブを握った。




 青い扉のドアノブを。




「……ごめん。ごめんね、クロ。ごめん、本当にごめんなさい」

 泣きじゃくって、子供のように、クロを元いた場所に捨てて来いと言われた時のようにしゃくりあげて言う。

 私が作った、あなたの「望み」決めた、カクテルの名前を。





「――ありがとう」





「良い、名前ですね」

 バーテンさんの言葉に、クロが同意するように、自慢するように「わん!」と元気良く鳴いた。






「! 目が開いた! おい! 大丈夫か!? 気が付いたか!? 自分の名前が言えるか!?」


 ペちぺちと、軽く頬を叩かれる。目の前にいる人は、知らない人。知らない人が何人か、私を取り囲んでいる。

 視界が霞んでよく見えないけど、周りの人たちは慌てた様子で、口々に何かをしゃべってる。

 熱中症で倒れてたとか、もう少しで救急車が来るとか、犬の鳴き声がうるさかったから来てみたら、あんたが倒れてたとか、何か飲むかとか、あの犬は君の犬かとか、家族に連絡するかとか、何かをいっぱい言ってたけど、私にはよく理解できない。


 理解できるのは、出来ているのは、私が今は公園の芝生の上で、頭に濡れタオルを置かれて寝かされていることと、……手を伸ばせば届きそうなところにある黒い塊が、クロだという事だけ。

 その、ピクリとも動かない、首輪で擦った傷が痛々しい、私を助けようとして、助けを呼んでくれて、私に駆け寄ろうとしてくれたあの子が、もういないという事だけ。


 わかりたくもないのに、わかってしまった。


「…………く……ろ……」

「! おい! 何してる!? 無理するな!」

 起き上がろうと体に力を入れるけど、頭がわずかに浮いただけで、それもすぐに落ちた。


 体が起こせないのなら、せめてと思って手を伸ばす。

 そのことに、何かを言う人はいなかった。何も聞こえていなかっただけかもしれない。


「…………クロ」

 真夏の熱帯夜なのに、体温のなくなった前足に、指先が触れた。

 生きる上で最低限の水分と塩分しか今はないからか、涙も出ない。


 なのに、何故か口の中で塩の味がした。






 涙の味がした。






 飼い主を見送った忠犬が、名残惜しげに「くぅん」と鳴いた。

 慰めるように、あやすように、その犬の頭をグリムさんは撫でながら、溜息と一緒に愚痴を吐き出した。


「あー、残業も、休日出勤も嫌だけど、これだからこの仕事は嫌なのよ。自分が悪者になった気分」

「お気持ちは察します」


 察しはしても、慰める気はない。嫌だ嫌だと言いながら、彼女は決してその仕事をやめないことをよく知っているから。

 どんなに憎まれても、恨まれても、必ず来る別れ、必然の摂理、それがあるからこそ迷って傷ついて後悔しながらも、人が生きていくことを知っているから、彼女は自分の仕事をやめないと、私は知っている。


 それを知らない黒い老犬は、グリムさんを慰め返すように尻尾をぱたぱたと振って見上げた。

 私は満足している。と、言うように。

 グリムさん自身もそう思ったのか、眼鏡の奥の瞳を細めて、彼女はリードを引く。

 紫の扉を開けて、その先に連れて行く。


 出て行く直前、彼女は振り返って言った。


「じゃあ、この子連れて行くわ。それが終わったら戻って来るから、何かカクテル、作っておいて。そうね……」

 少し考えるそぶりをしていたが、彼女が何をリクエストするかなんてわかっていた。






「ソルティ・ドッグを用意しておきますよ」

 私の答えに、死神が満足そうに笑って出て行った。


作中で「プレーリー・オイスター」をグリムさんが嫌がってますけど、相当な変わり種ではありますが、まずいものではありません。

ネタはできてるので、そのうち出てきます。

「プレーリー・オイスター」が好きな方がいらしたら、まずいものと思われる表現をしてごめんなさい。


そしてどうでもいいことですが、グリムさんのフルネームは、グリム・リーパーです。

本当は最後のバーテンさんの一人称は、入れる予定がなかったんですが、あのまま終わるとグリムさんが最後にかっこつけただけの酔っ払いでしかなかったので、入れました。

どっちにしろ、最後にかっこつけただけの社畜で酔っ払いな残念美人ですけど。補足の意味がない……。


それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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