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1杯目:カシスオレンジ

どうも、酎ハイ一杯で視界が回るほど下戸の浅海です。

下戸のくせに、なんでカクテルバーが舞台の話を書いてるんでしょう? 作者本人も謎です。

そんな作者が書いている、色々と不安な話ですが、どうぞよろしくお願いします。


「いらっしゃいませ」


 扉の開けるとそこには、にこやかな笑顔が素敵なイケメンバーテンダーさんがいた。

 え? 何これ? 天国?


「? どうかなされました」

 入り口から動かない私はかなり不審だったはずなのに、バーテンさんは私を怪しむような様子は見せなかった。

 ただ、笑顔のまま困った表情を浮かべ、首を傾げた。器用だ。


「あ、えっと、ごめんなさい、何でもないです」

 まさか、「あなたがイケメン過ぎて呆けてました」と言えるはずもなく、とりあえず謝って、私はカウンター席に座る。

 そして、メニューを見るどころか渡される前に、注文を口にした。




「カシスオレンジをください!」




「カシスオレンジ……ですか」

 バーテンさんは笑顔のまま、自分の指を顎に持って行って考えるような仕草をする。


「? もしかして、メニューにありませんか?」

 だとしたら、失礼だし恥ずかしいし、何よりもこんなイケメンがいる店なら長居したいけど、他のお店に行かなくちゃ。


 カシスオレンジじゃなきゃダメ。

 それ以外、今の私はお酒どころか水すら飲みたくない。


「カシスオレンジがないカクテルバーは、むしろ見てみたいですね」

 バーテンさんは苦笑しながら、後ろのお酒の瓶がいっぱい並んだ棚から、二つの瓶を用意した。


「? あの、私が頼んだのはカシスオレンジだけですけど……」

 別のお酒の瓶に疑問を持って尋ねる私に、バーテンさんは初めて笑顔を消して不思議そうな顔をする。


「? はい。ですから、カシスオレンジを今からおつくりさせていただきます」

「え? 作る? お酒を今から?」

 お酒って、言ってみれば納豆や味噌と同じく、発酵させて作るものだよね? 今すぐに作れるものじゃないよね?


 私にとって、疑問に思って当然のことだったけど、バーテンさんからしたら予想外の言葉だったらしく、バーテンさんは十秒くらいポカンと口を開けて固まった。


「……もしかして、『カシスオレンジ』を、ワインみたいなものだと思っていません?」

「……違うんですか?」


 私が質問に質問で返した瞬間、バーテンさんの姿が消えた。

 実際に消えたわけじゃない。カウンターの向こうで、座り込んだだけ。

 けど、いきなり座り込んだので、私が慌てて椅子から立って、カウンターの向こうを除いてみると、バーテンさんはその場に座り込んで肩を震わせていた。

 お腹を押さえて、泣いてるような苦しそうな息をしているけど、どう考えても腹痛とか、泣いているとは思えない。ううん、ある意味、泣いているのかもしれないけど。


 ……どうやら私は、お酒についての知識は、プロの腹筋を崩壊させてしまうレベルで、無知だったらしい。






 バーテンさんの腹筋が回復したのは、一分後ぐらい。


「……大変失礼いたしました」

「……いえ。むしろ私の方がなんか……すみません」

 二人して、何故か謝りあう。もう状況がわからない。


「お客様は、お酒をあまりたしなまれないのですね。見た所、だいぶお若いですし、もしかして成人されて間もないところですか?」

 気まずい空気を、バーテンさんは清涼剤のような笑顔と柔らかな声音で、払拭してくれた。いつまでも恥ずかしがっているのも何なので、私はその話に乗る。もういいや。恥はかき捨てて、イケメンとの会話を楽しもう。


「はい。実は今日、誕生日で二十歳になったところなんです。それで、アルコールデビューしちゃおうかなーと思い立ちまして……」

「おや、そうなんですか。おめでとうございます。

 では、お祝いの気持ちを込めて、おつくりさせていただきます」


 背景に星や花が見えそうなくらい綺麗に微笑んで、バーテンさんはお酒の瓶を二つ、私の前に並べた。


「あれ?」

 目の前に並べられて気付く。その瓶は二つともお酒だと思い込んでいたけど、片方はアルコールなんて入っていない、果汁一〇〇%のオレンジジュースだという事に。


「カシスオレンジは、日本酒やワインのように、単独で存在する酒類ではなく、『クレーム・ド・カシス』という、ブラックカラントを原料としたお酒をベースに、オレンジジュースを混ぜた、『カクテル』ですよ」


 カクテル……。その単語は聞いたことも見たこともことがあるけど、私はそれを「ワイン」や「日本酒」といった、大雑把なお酒の種類的な呼び方だと思っていた。


「カクテルとは、シンプルに言ってしまえば、ベースとなるお酒に他のお酒、またはジュースなどを混ぜて作ったお酒のことです。お酒を全く使わない、ジュースだけで作るノンアルコールカクテルも存在しますけど」

 ポカンとした私の顔が、「カクテルって何ですか?」と語っていたんだろうなぁ。優しい微笑みのまま、バーテンさんは疑問に答えてくれた。

 答えつつ、バーテンさんが手に取ったのは、ワインよりも色が黒っぽい赤色の液体が入った瓶。これが、さっき言ってた何とかカシスってお酒なんだろう。


「こちらが、『クレーム・ド・カシス』という、リキュールです。リキュールとは、蒸留酒という、アルコール度数の高いお酒に、果物やハーブなどを漬けて香料や味を移し、砂糖やシロップで甘味をつけたお酒です。身近なもので言えば、梅酒もリキュールの一種ですね」


 背の高いグラスに、氷を丁寧に入れながらの解説。私の疑問を、口に出す前に答えてくれるのはありがたいけど、バーテンさんからしたら私、めんどくさい客だろうなぁ。知識なさすぎでしょ。

 けれど、バーテンさんの笑顔からは、そういう感情は見当たらない。客商売のプロだ。


「リキュールは先ほど言いましたように、果物を使用した上で、砂糖やシロップなどを加えるので、一般的に甘味が強いものが多く、特にこの、『クレーム・ド・カシス』は甘味が強いので、お酒に慣れていない、甘いものが好きな女性の方に好まれております。

 なので、お客様がご注文したカシスオレンジは、初めてお酒を飲まれるのなら、飲みやすいでしょうね。……ただし、飲みやすくてもお酒はお酒。アルコール度数も低い方ではありますが、飲みすぎてはいけませんよ」

 人差し指を唇に当て、内緒話をするように注意される。美形は何をやっても絵になると、この時私は思い知らされた。


「カシスオレンジはこのリキュールに、オレンジジュースを加え、混ぜれば完成です。ただそれだけなので、材料さえあれば、ご家庭でも楽しめます。

 リキュールとオレンジジュースの割合も、お好みでどうぞ。本日は、初めてのご飲酒とのことですし、ジュースの割合を多くしましょう」


 グラスの中に、赤黒い液体と、濃いオレンジが注ぎ込まれ、バーテンさんがマドラーにしては大きい、柄がかなり長くて細いスプーンでかき混ぜる。氷のカラカラという音が、小さく響いた。

 初めは二層だった赤とオレンジがマーブルを描き、バーテンさんが五、六回かきまぜたら、グラスの液体はやや暗くて赤っぽいオレンジ色になった。


 スプーンを抜いて、バーテンさんはアクリル製のコースターをカウンターに置く。

 そしてその上に、グラスを置いた。




「お待たせしました。どうぞ。ご注文の、カシスオレンジです」




 一口飲んで、思わず声が出た。


「! 美味しい! すっごく味が濃いのに、酸っぱさがさわやか!」

「ありがとうございます」

 にっこり笑顔で返答するバーテンさん。普段の私ならこの時点で、もう関心がカクテルからイケメンバーテンさんに移ってるはずなんだけど、今は違う。


 お酒の知識がなくて、今日、成人したばっかりの私でもわかる。

 このお酒は、カクテルはすごく美味しい!


 ……私の遠い記憶の中の、「カシスオレンジ」とは違って。


「……カクテルを作るには、主に『シェイク』という技法と、『ステア』という技法があります。『シェイク』は言葉の通り、シェイカーという入れ物に、カクテルの材料や氷などを入れて、上下や左右に振って混ぜること。『ステア』は、先程のこのカシスオレンジを作るのに使った技法で、グラスに材料を入れて、この『バー・スプーン』などで混ぜることです。

 カクテルとは、本来混ざり合わないものを混ぜて、溶けあわせ、材料となった元の飲み物とは違うものを作り出すことです」


 作ってくれたカシスオレンジは、すごく美味しかった。

 美味しかったからこそ、私は最初の一口から飲めなくなった。

 急に黙り込んで、グラスを握って中の液体をただ眺める私に、バーテンさんはとうとうと語る。


 カクテルの作り方。

 別々の「何か」を、混ぜ合わせる方法を。


「『フロート』という、何もしないで、ただ注ぐだけという技法もありますが、それはむしろ、混ぜ合わせない為の技法です。

 何もしないで、別々の存在が混ざり合うことはありません。長い時間を掛ければ、可能かもしれませんが、その時間がない場合は、誰かや何かの力を借りて、かき混ぜてない限り、それらは別々に存在を主張し、反発しあうだけ」


 カクテルの話、無知な私に対する説明。

 そう思って、聞き流していればいいだけだった。


「お客様」

 けれどそれは出来なかった。


 カウンターから身を乗り出して、俯いている私の顔を覗き込む。

 優しい柔らかな微笑みのまま、バーテンさんは言った。


「酔いに任せて、かき混ぜて、溶かしてしまいなさい。貴方の中に存在する、愛憎を」


 彼の言葉は、私の心を撹拌させるバー・スプーンになった。






 私は今日、二十歳になったばっかりだけど、お酒を飲んだことはある。

 ただそれは、六歳か七歳くらいの時に、父親にわがままを言って一口だけという、たぶん誰でも経験したことのある体験。


「うわっ、甘すぎるな、これ」

 そう言って、顔をしかめた父。手にしていたのは、オレンジ色の缶。

 子供の私には、缶のデザインや、「甘い」という父の言葉で、それがお酒だと思わず、ジュースだと思い込んで、「いらないのならちょーだい。あたしが飲みたい。パパだけジュース飲むのずるい!」と言って、駄々をこねた。


 もちろん父は、「これはお酒だから」と言って、飲ませようとはしなかったけど、あまりにも私が駄々をこねるので、最終的に折れて、「一口だけだぞ」と、私に缶を渡してくれた。

 父が言うまでもなく、私は一口で飲むのをやめた。子供の私には、低い度数でもお酒の味がまずかったし、炭酸も酸っぱいのも苦手だったから。


 私からしたら全然甘くなくて、父に「嘘つき!」と八つ当たりをしたのを覚えている。


 父は、私が一口飲んだ瞬間、まずそうに顔をしかめたのも、私の八つ当たりも微笑ましそうに笑って、私の頭を撫でた。


「こういう缶に入ってる奴は、変に甘すぎるか、水っぽくて薄いかで、まずいんだよなぁ。本当のカシスオレンジは、全然違うぞ。

 お前も、もっと大きくなったら、たぶん好きになるよ。その時は、お父さんと一緒に、飲みに行こう。こんなのとは違う、甘くておいしい、カシスオレンジを飲ませてやるよ」

 父は笑って、私の頭を撫でて、そんな遠い未来を約束した。


 ……その数年後、父の浮気が原因で母と離婚し、私と離ればなれになることなんて、きっと父自身も予想していなかったはず。


 両親が離婚したのは、小学五年生の時。

 ただでさえ多感な時期に、両親の離婚は大ショックだというのに、原因は父の浮気だと知って、私には父親が汚物にしか見えなくなった。


 反抗期で、父親が理由もなく嫌いだったことも合わさって、私は母と一緒に父を罵倒し、責め立てて、死んじゃえと泣き叫んで、父を追い出し、母と暮らし始めた。

 母と暮らし、中学に進学して、高校に入って、大学生になるまで、父親には会わなかった。

 父からの連絡も、なかった。


 なのに突然、九年ぶりに手紙が届いた。


 二十歳の誕生日を祝いたい。子供の頃の約束を果たしたい。

 手紙には、シンプルにそれだけ。あとは誕生日に、会ってもいいと思ったら、どこそこのバーに来てくれと、そこの住所が書かれていただけ。


 私に対する、謝罪や心配、進学への祝いの言葉もなかった。


 腹が立った。

 何故かはわからないけど、その手紙を読んだら、苛立ちが止まらなくなった。

 苛立つのは、腹を立てているのは、今更、連絡なんて電話の一つも入れなかったくせに、何で今更、大人になった私に会いたいと思ってることか、浮気して、私と母を捨てたくせに、私が忘れていた約束を未だに覚えていることか、父の存在そのものかは、わからなかった。


 わかりたくもなかった。


 だって本当は、わかっていたから。


 大人になって、大人になっていくことでわかってしまったから。知ってしまったから。






 父が、浮気した理由。


 それは母が、病的なヒステリーで、少しでも機嫌を損ねたら、そこらにあるものを投げてぶつけるような人で、父はずっと母と離婚したがっていた。

 離婚に応じず、疲れ果てた父は、幼馴染みの女性と体の関係を持ってしまった。


 ……ううん。ただの幼馴染みじゃない。本来なら、その人が奥さんになるはずだった人。


 父に一目ぼれした母は、父に強いお酒をだまして飲ませ、酔った父を襲って、「子供が出来た!」と迫り、結婚した。

 私のせいで、父は本当に好きな人とは結婚できなかったんだ。


 父は、私を可愛がってくれた。母のヒステリーから、私を庇って怪我をしたことなんて数えきれない。

 私は、父親は責め立てた。母親が嫌いだったくせに、味方だと思っていた父が私を裏切って、他の女の所に逃げたと思って、父を罵って、二度と会いたくないと叫んだ。


 大人になることで少しずつ私は、自分の母親は異常で、父に非は確かにあるけど、責めるのは酷だという事を知った。

 父は別れた後もちゃんと、私の養育費を払い続けていたことも知った。

 母は、養育費と父への嫌がらせで私の親権を手放さないだけで、父は私を引き取りたがっていたことも知っていたんだ。


 今なら、わかる。

 父は私を捨ててなんかいない。






 私が、父親を捨てたんだ。






 そんな私が、どんな顔をして父に会えばいいかがわからない。

 手紙には、謝罪も、心配も、祝いの言葉もなかった。


 まるで、嫌われ切っている自分がそういう事を言う資格なんてない、言っても私に嫌な思いをさせるだけだと思っているかのように。


 恨み言や、責め立てる言葉なんて、なかった。


 今も私を、もう養育義務なんてない私を、娘と思ってくれているように。


 罪悪感と後悔。

 これだけなら、良かった。これだけなら、父親を好きだという気持ちに簡単に混ざってくれたから。


 混ざってくれない、感情があった。


 それは、大人になりきれていない幼い私のわがまま。


 酷い言葉で責め立てて、死んじゃえとまで言ったくせに。

 浮気のことがなくても、理不尽に父を嫌って避けていたくせに。

 私は未だに恨んでる。父が私を、無理やりにでも母から引き離して、私を連れて行ってはくれなかった事を、恨んでる。


 もちろんこれだって今なら、実の親子でも誘拐になってしまうから出来なかったという事はわかってる。


 それでも、心の中で小さな私が叫び続けてる。


 どうして、私を置いて行ったの?


 どうして、浮気なんかしたの?


 私なんて、いらなかったの?


 混ざり合わない気持ち。愛情と憎悪、罪悪感と後悔、逆恨みと自己嫌悪。

 そこに一つの、新しく生まれた感情が足された。


 始めて飲んだものとは違う、味が濃くて、甘くて、美味しいカシスオレンジ。

 お父さんが、きっと私も好きなると言ったお酒。


 うん。

 お父さんの言った通りだよ。美味しいよ。私、このお酒を好きになったよ。


 ……なのに、どうして?






 どうして、お父さんが隣にいないの?






「父親に対する愛憎と、大人になって真実を知ったことに対する罪悪感と後悔、それでも納得しきれない子供の恨み言と、そんな自分に対する自己嫌悪。

 さあ。かき混ぜ、溶けあい、一つになった貴方の心のカクテル。

 それに貴方は、何と名付けますか?」


 カシスオレンジのグラスに、私の涙が一粒零れて混ざる。

 バーテンさんの言葉が、頭に響く。


 答えは、決まっていた。


「――会いたい。……私、お父さんに会いたい。お父さんと会って、約束通り、このお酒を飲みたい!」


 あぁ。やっと、一つになったよ。

 臆病で、自分勝手で、ずっと逃げていたくせに望んでいた答え。


 私は、お父さんに会いたい。

 会って何がしたいか、何が言いたいか、何をしてもらいたいか、何を言って欲しいのかはまだわからない。


 でも、会いたい。ただもう一度だけでも会いたい。そして、約束を果たしたい。


「……それはとても、いい名前ですね」

 バーテンさんは微笑む。

 ずっと笑っていた人だけど、その笑顔が一番、優しかった。


「それでは、どちらの出口から出るかも、もう決まっていますね」

 カウンターからバーテンさんは出てきて、私の席の後ろに立つ。

 そこで、軽く両手を広げる。二つの扉。青いドアと、紫のドア。二つの、別々の出口を指し示す。


 どちらがどこに繋がっているか、それを何故か私は知っていた。

 ここがどこかだって、本当は初めからわかっていた。


「はい」

 私は答えて、グラスを煽った。

 かなり濃い味なので、一気飲みには明らか向かない飲み物だけど、スルスルと水のように私の喉に流し込まれ、飲み干せた。もったいない飲み方だとは思うけど、何もかもわかった今では、時間が惜しい。


「ご馳走様でした! バーテンさん、ありがとうございます!」

 飲み干すと同時に私は立ち上がって、扉まで駆けた。


 青い扉を、躊躇いなく選ぶ。


 この扉を選んで、バーテンさんがもう一回、柔らかく笑ってくれたような気がする。


「どういたしまして。

 それでは、お客様。もう二度とご来店なさらないことを、心から祈っております」


 すごく丁寧に、バーテンさんは頭を下げた。

 客商売ではありえない、見送りの言葉のかけて。

 けれど、それが優しさであることはわかってる。


「ありがとう。でも、それはそれでちょっと残念」

 だから私も笑って、答えた。


 貴方に会えて良かったと。


 笑って、私は店を後にした。


 川からグラスで水を汲む女性が描かれた看板、カクテルバー「Mnemosyne」、「ムネモシュネ」という変わった名前のお店を後にした。






「何これ、綺麗なグラス。こんなのあんた、持ってたっけ?」

「お父さんがくれたの。二十歳の誕生日のプレゼントだって」

 私の好きな桜が描かれたタンブラーを見つけて、友達が尋ねた。


「へー、いいな。可愛いじゃん。良かったじゃない。誕生日に車にはねられた甲斐があって」

「もう! その話はやめてよ!」

 私の父親の話で、少し友達は気まずそうな顔になったけど、今になっては笑い話な誕生日の悲劇のおかげか、重い空気にはならなかった。


 そう、私は誕生日に車にはねられ、一時生死の境をさまよった。

 しかも、はねられたのは私の不注意。運転手さんに本当、申し訳ない。

 誕生日の数日前、離婚して9年間音信不通だった父から、二十歳の誕生日を祝いたいと手紙をよこした。


 それから私は、父親に会いたい気持ち、会うのが怖い気持ち、父に謝りたい気持ち、父を許したくない気持ちが整理できず、ずっと不安定で、誕生日当日も父が待つと手紙に書いてあったバーの近くまで行ったくせに、バーに入らずひたすらその近くをウロウロして、信号をよく見ずに横断歩道を渡ろうとして、車にはねられた。


 2日間、私は意識が戻らなかった。

 意識が戻った私が、最初に見たのは、母ではなく父だった。

 母は、私が入院しても見舞いになど来てくれず、むしろ死ぬんだから大学の授業料を返せと、大学に無茶苦茶な要望を突き付けていた。

 私の意識が戻ることを、心から望んでいたのは、9年前に酷いことを言って追い出した、父親だった。


 そんな父を見たからか、私の中の反発しあって、混ざり合わず、溶けあうことのなかった気持ちが一つになった。

「お父さんに会えて良かった」という喜びにまとまった。


 そんな父から送られた、誕生日プレゼントが、このタンブラーグラス。


「ちょうどいいや。カシオレ飲む? 最近、これの美味しい割合を見つけたんだよねー」

 友達に尋ねながらも、私はすでにリキュールとオレンジジュースを取り出している。


 ……父から退院後、ひと月遅れで果たした約束。

「美味しいカシスオレンジを飲む」も果たした。


 そして今は、同じ家で暮らしてる。

 私より、お金を優先した母親にキレて、父は私を引き取ってくれた。

 大学だって、ちゃんと通えてる。元々、父が母に払っていた養育費で通えていたんだから当然だ。

 父の幼馴染みである義母はいい人で、血の繋がらない私を娘として扱ってくれている。実母の行いにも、父と同じくらい怒ってくれた。


「うん。飲む飲む。それにしても、あんたはカシオレが本当に好きね」

 今の幸せを噛みしめながら、私は自分が一番と思う割合で、リキュールとジュースを注いで、かき混ぜた。


「うん。思い出のカクテルだし、お父さんに連れて行ってもらったバーのカクテルがすごく、美味しかったんだ」

 均等に混ざって出来上がったカクテルを、友達に渡して、自分の分も一口飲む。

 うん。お酒を飲むようになっても、やっぱり私はオレンジジュース多めのカシオレが一番好き。


「へー、どこのバー? 今度連れて行ってよ」


 友達の要望に頷きながら、私は心の中で謝る。

 ごめんね。

 お父さんに連れて行ってもらったバーのカシオレも確かに美味しかったけど、本当はもっと美味しいカシオレを知ってるんだ。今、作ったのもそこのカシオレを再現したくて、たくさん試して見つけた割合。


 そこに友達も、そしてお父さんやお義母さんも連れて行ってあげたいけど、どうしてもそこがどこだったのか、いつ行ったのかさえも思い出せないの。






 カシスオレンジの味だけを、覚えているの。


下戸の私が、ほぼ唯一飲めるカクテルです。

多分、これだけは好き、これだけは飲めるという下戸の方も多そう、未成年でも名前くらいは知ってるだろうと思い、第一話のカクテルにさせていただきました。

作り方は本文であったように、ただリキュールとオレンジジュースを混ぜるだけですので、興味のある成人済みの読者さんは、ぜひともお家でもお試しあれ。


それでは、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。


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