利用する者、利用される者
エラの養母、スーザン・アダムソンは乳製品やマヌカハニー、その他食糧品を主に取り扱う、ニュージーランド屈指の貿易商である。フィールドを同じくするイーサーと養母に、面識がないと決めつけていたほうがおかしいのだ。
イーサーがスーザンに恨みを持つとすれば、仕事がらみだろうか。たとえば、養母やイーサーの手がける事業規模から察するに、取引の約束ひとつを急に反故にしたりすれば、ミリオンから、下手をするとビリオンの損失が出る。契約を正式な手続きに則って破棄したとしても、禍根が残るものだ。
エラはドーハー屈指の高層ビルに入ったカフェテリアでひとり、エスプレッソの入った小さなカップを見つめていた。
エラがイーサーと彼の秘書の会話を偶然耳にしてしまった数日後に、イーサーはまた屋敷を後にした。彼がステイツのナパ・バレーから戻ってきたのは一か月近く経ってからだ。彼は外出するぞ、といつも通り一方的にエラに告げ、サミーラ以下屋敷のメイドたちにエラの支度を命じた。エラは無言で従った。
アーバラを身に着け、イーサーの前に立つ。けれどあえて彼を見ようとは思わなかった。顎を掴み上げられて初めて、エラはイーサーを目に入れた。彼の紺碧の目は不快そうな光を宿していた。
「死体のようだぞ」
反論する気力は起きなかった。そうですね、と呟いたまま動かないエラの顎を、イーサーは舌打ちしてから解放した。そのままエラを置いて先に行く。サミーラに促されて後を追ったエラが追いついたとき、彼は既に車の中だった。
イーサーは苛立っていた。何に? 請われなければ反応すらしないエラに。
はい、いいえ、しか口にせず、瞬き少なく。寝台の上では浜に打ち上げられた魚の如く微動だにしない。
エラは驚くほど何も感じなくなっていた。エラ自身、どうしてここまで何の感情も湧き立たないのか不思議なほどだった。世界のすべては色褪せて見え、サミーラ含む使用人たちの言葉は街のざわめきのようにエラの耳を通り過ぎた。
突如としてここへ連れてこられたばかりの時のように――いや、もっとひどい――なったエラを、イーサーは持て余しているようにも見えた。出かけることはおろか、夜に触れてくることすら、顔を合わせることすら稀になっていた。そんな彼が久方ぶりに外に出るぞと言い放ったとき、エラは漠然と理解していた。
この、理不尽で、不可解で、しかし水底のように安らかであった日々が、終わりを迎えるのだと。
以前もふたりで来たことのあるカフェテリアの奥まった席にエラを置くと、イーサーはいずこかへ消えて行った。戻るとも戻らないとも、彼は言わなかった。しばらく待って、エラはエスプレッソを注文しに行った。幸いにして手持ちは少しあった。ここはUSドルも使えるが、リヤルで払った。イーサーが怪我をして動けなかった頃、彼からカタールの経済を学んだのだ。あの頃は――楽しかった。
ため息を吐いてエスプレッソのカップへ手を伸ばしかけたエラは、かつ、かつ、かつ、かつ、という甲高い踵の音に面を上げた。
近づいてくる。
養母――スーザン・アダムソンが。
「お母、さ、」
ヒールを高く響かせてすぐ手前で立ち止まった養母は、手にしていた真紅のケリーバッグを振り上げ、エラの頭を容赦なく殴りつけた。
「つくづく……・あんたは母親そっくりね、エラ。私の邪魔ばかりして」
とっさに顔を庇った腕をずらして養母の顔を確認する。逆光でもわかるこれ以上ないほどの憤怒に塗り染められた彼女の顔は、髪を逆立てた魔女のような形相だった。
「あの人の子どもだから引き取ってやったのに。いつもいつもいつも私の邪魔をする。あんたは……私から彼を奪った、あの女そっくりよ。あんたの母親そっくりだわ」
はっきりとものを言わず、いつも怯えたような目をして、人の足は一人前に引っ張る。
スーザンは考えられうる限りの罵詈雑言を並び立て、やがてケリーバッグから取り出したダークグリーンのパスポートをエラの頬にぴしゃりと叩きつけた。
「取り返してやったわ。でもこれ限り。あんたはもう私の娘でもなんでもないわ。さよならよ、エラ」
フェアウェル、にアクセントをおいて、スーザンが踵を返す。カフェテラスを颯爽と出て行く義母の背を、エラは引き止めるどころか、声を上げることすらできなかった。衝撃的な絶交の宣言は、あまりに唐突すぎた。
いや、突然では、なかったのかもしれない。母はいつもエラを疎ましがっていた。彼女はエラの父を心の底から愛していたが、それと同じ分だけエラの実母を憎んでいた。エラは母親に似ていた。容姿も、その気性も。
エラは足元に落ちたパスポートに金で打たれた国章を見つめた。
「……わたしが、いったい、なにをしたというの……?」
「何もしていないだろう」
足音もなく現れ、頭上に差した影の主は、エラの自問に答えながら対面のソファに腰を下ろした。
「イーサー」
「何もしない。何も話さない。何も主張しない。だからなお悪い」
イーサーは脚を組んで肘置きに頬杖を突いた。
「訊きたいことはないのか? 気づいていたんだろう?」
エラは興味本位で囲われたのではなく、目的あってのことだと。
「……私はスーザンを惹きつける囮だった? ……私の養母に何の恨みがあったというの」
「よくある話だ。あの女が契約を反故にして、別会社に乗り換えた。あまり褒められた形でない方法で。納品の――……本当に寸前で。法の隙を突いていた。いくらかは非合法だったろうが証拠が揃わなかった。多額の負債を出したよ。担当者はスーザンを殺しに行って、失敗し、自ら頭を撃った」
イーサーは右手の人差し指をこめかみに当て、銃を撃つ真似をした。
「ミズ・アダムソンは俺たちを警戒していて、なかなかテーブルに就こうとはしなかった。だがさすがに瀕死の娘が会いたがっていると聞けば、無視はできなかったようだ」
「瀕死の娘」
「間違ってはいないと思うがな。……それでもあの白人の悪徳商人を呼び出すには時間がかかった。お前はよほど養母に嫌われているらしい」
「……さっき絶交を言い渡されたわ。もう親子ではないと」
淡々と答えるエラに、イーサーが初めて不快そうに眉をひそめた。
「何故、怒らない?」
「……怒る?」
「不当に搾取され利用されたなら怒り相手を憎むべきだ」
「私を利用したあなたがそれを言うのね」
エラは卑屈に嗤った。嗤いしかこみ上げて来なかった。
「いいの。もう。疲れたの。……抗うことにも。戦うことにも」
エラの人生は、ずっと戦いの人生だった。
スーザンが身よりのない自分を引き取ってくれたことは感謝している。衣食住に困ったことはなかった。しかしスーザンはエラを厭っていた。どうにかぎこちなくも親子らしい関係を築きたいと、必死になった。どうしてここまで嫌われたのかと、自分の過失を探しながら。
母だけではない。周囲もエラにはよそよそしかった。養母の気性や立場のせいもあっただろうし、エラが日系ハーフだったこともよくなかった。母国は原住民を初めとして多くの人種を抱えているし、日本にはとても友好的だ。しかしビジネスや治安を荒す中国人には嫌悪を示すことがあった。エラはそれに巻き込まれた。学校でもどこでも、エラは外見と言葉と内気な性格が壁になって、居場所を作ることに苦労した。
夫となるはずだった男とも、親友だったはずの女とも、それまでの関係を築くまで多くの戦いがあったのだ。
けれど誰もエラのものにはならなかった。
きっと、目の前にいる男も。
「戦うことをやめれば、一生搾取され続けるぞ。この世界はそのようにできている。アッラーを知らない白人共が、そう作り変えた」
「あなたも私を搾取し続けるの? イーサー」
エラはイーサーを見つめた。イーサーはエラを見つめ返した。
やや置いてからイーサーは厚みのある封筒を、エラのエスプレッソの横に滑らせた。
「お前の役目は終わった。お前は自由だ」
それだけ言い残してイーサーが立ち上がる。その拍子に、彼が座っていた席の横に小さなトランクが置かれていたことに気が付いた。エラのトランク。ニュージーから持ち込んだ数少ない私物。
(もうあの屋敷に戻ることはないのだわ)
世話になった者たちに誰もさよならを告げていない。
そして、イーサーにも。
かの男は別離の言葉さえなく、カフェテリアの出口に向かって歩いていた。三方にガラスを張ったオーシャンビューのカフェは広く、点在するテーブル席の合間を颯爽と縫うイーサーは、ランウェイを行くモデルのようだ。その端正な顔を、自信と責任を載せた広い双肩を、客たちはそっと盗み見ている。
そんな中で動きの奇妙な者たちがいた。
多くの者たちが新聞を読みながら、タブレットの表面をスワイプしながら、あるいはカフェホワイトの入ったカップに口を付けながら、イーサーを盗み見する中で、彼の動きを注意深く観察しているような男がいた。カンドーラを見に付けた彼は畳まれたゴシップ紙をテーブルの上に置いて、目だけでイーサーの動きを追っていた。
「イーサー」
エラは立ち上がって彼を呼び止めた。
しかし、そうするべきではなかったのかもしれない。
イーサーが足を止めてエラを振り返る。同時に、カンドーラの男が立ち上がる。
エラは勢い込んで立ち上がり、テーブルの天板の縁に腰をぶつけてよろめいた。それでも何とか体勢を立て直して走り出した。エラに周囲からの視線が刺さる。イーサーが目を驚愕に見開く様が目に入る。しかし何も気にならなかった。そうなる前に、銃声を聞き、焼けつくような痛みがエラの腹部を貫いた。
「エラ!?」
「……は」
今度こそ膝に力が入らず、エラはその場に崩れ落ちた。あわや顔面が床石に叩きつけられるというところで、イーサーの身体が間に割って入る。
悲鳴と怒号が響いている。イーサーが何かを叫んでいる。けれど、何もわからない。
炎に包まれているように、身体が熱い。
エラは、笑いだしたくなった。これで死ねるし、イーサーに意趣返しができるかもしれない。見捨てる相手に助けられたとあっては多少は具合も悪いだろう――単純に愚かな女だと嘲笑されるだけかもしれないが。
でも、痛い。
最初から最後まで、痛い。
エラは涙を零した。痛くて、苦しかった。養母もいなかったし、婚約者も友人もいなかったし、歪な関係の中でも愛情を見出した相手は所詮自分を利用しているだけだった。
最初から最後まで、あがいてもあがいても自分には、涙を拭う相手はいなかった。
どうすればよかったのだ。叫べばよかったか。喚けばよかったか。苦しい人生の中で出会った光明のような人々を、信頼しなければよかったか。そうすればここまで痛くなかったか。
でももう終わりだ。よかった。もう。
ひとりを感じなくていい。