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理由に欠けていた

 それは固い何かを抉る音だった。事実、エラのすぐ傍の壁に黒い穴が穿たれた。その周囲の焦げ跡に、本能的に危険を悟る。ぞっと肌を粟立て、その穴の正体を確認しようとしたエラは、イーサーに強く腕を引かれてその場を飛びのいた。壁を滑る影を追うように、びしびしと音を立てて穴が空いていく。

 イーサーは脇目も振らず、エラを引いてただ走り続けた。カンドーラの白い裾が、砂礫を含んだ灼熱の風を孕んで翻る。目を焼くような白い光にさらされて浮かぶ影は、丸石敷きの通りに焦げ付かんばかりに濃く、暗く、黒い。エラは足元に絡みつくアーバラの布に閉口しながら、つまづかぬように必死で駆けた。その間も、風を鋭く切り裂いて、鉛の塊がエラのいた空間を抉っていった。

 何が起こっているの――……?

 イーサーは不意に振り返ると、エラの後頭部を掴み、地面に引き倒した。顔面から弾力ある何かにぶつかり、視界に星が飛ぶ。荒い呼吸を整えながら状況の把握に努めたエラは、自分の身体が男に抱え込まれていることを知った。

「いーさ」

 呼びかけた名前は、間近で響いた発砲音に呑み込まれた。

 イーサーは手慣れた様子で銃を構え、物陰から敵の様子を覗いながら発砲を繰り返す。クリーム色の壁面の上を、びしりと鉛玉が抉り、小石がはじけ飛んだ。そのかけらがイーサーの頬を傷つけていく。

 ぱたたと音を立てて、赤い滴が丸石に弾けた。

「イーサー!」

 思わず立ち上がったエラを、イーサーが叱責する。

「顔を出すな!」

 刹那、彼の身体が衝撃を受けて後方に傾いだ。

「きゃぁああああぁっ!!」

 ぱっと視界を赤く染めた飛沫に、エラは思わず悲鳴を上げた。イーサーは打ち抜かれた左上腕を抑えて地面に倒れ伏す。生温い血。苦悶の表情を浮かべる男を震える手で抱え、エラは身体を丸めた。

「エラ、離せ」

 イーサーがエラの身体を押しのけようと手を突っ張る。が、いつもはエラを簡単にねじ伏せるその手には、全くといっていいほど力が込められていなかった。

 ざり、と、砂利を踏みしめる靴音が徐々に近づいてくる。

「エラ!!」

 怒声にエラは顔を上げた。壁の向こうに影がある。カンドーラを身に着けたアラブ系の男。濃い髭が年齢をわからなくしている。漆黒の目が細めて腕を上げた男は、携えていた銃の口をエラたちに向けた。

 この距離では。

 避けられない。

 固く目を閉じたエラは、頭上で響いた発砲音に固く身を強張らせた。

 が、痛みも、何も、感じない。

「……イーサー?」

 腕の中の男は、エラの呼びかけに応じて身じろぎした。彼も撃たれたわけではないらしい。左上腕の傷を押さえながらも、呼吸は穏やかだった。

 その青い目が、襲撃者を映し出している。

 エラはイーサーにつられて男を見た。銃口を向けた姿勢のまま、男は瞠目している。

 左のこめかみに、黒い穴。

 そしてそのまま宙に赤い尾を引きながら真横に崩れた彼は、現れたイーサーの護衛たちに覆われ、見えなくなったのだった。





 一体どうして襲われたのかと訝るエラに、イーサーはよくあることだとそっけなく言った。分家のシェイク。それも世界でも有数の実業家であるらしい――羨望は敵も連れてくる。

 イーサーの傷は予想したほど悪くはなかった。

 派手に出血したように思ったが、急所は外れていたのだという。ただしばらくの間、不自由を強いられることには変わりない。

 散々だった外出の後、メイドたちに念入りに身体と髪を洗われたエラが部屋に戻ると、イーサーがベッドの上で身体を投げ出し窓の外を見ていた。太陽が陽炎ゆらめく水平に沈む。熟れた果実が熔けおちるかのような夕暮れ。

 傍らに腰掛けたエラの後頭部に、イーサーの手が潜り込む。まだ湿ったエラの髪を指でもてあそびながら、男は問うた。

「お前は怪我をしなかったのか?」

「膝を少し擦りむいたぐらい」

「痕にならないように気を付けておけ」

 それは気を付けておくが、わざわざ言及するようなことなのだろうか。

 黙り込むエラに、男は言う。

「俺はお前のなめらかな脚がいい。傷つけるな」

 時折イーサーは率直に、エラの美点を褒める。

 それは女の美しさへの称賛ではなく、哀願人形へその点は損なうなという注意とメンテナンスを促すものだった。

 イーサーはエラから手を引くと上半身を起こした。

「帰るの?」

「今日はこの腕で女を抱きたいと思わない」

 だらりと力なく下がる腕をイーサーは一瞥した。

「お前も休め。今日の仕切り直しに街へはまた連れて行ってやる」

 そっけなく言って立ち上がろうとする男を、エラは思わず引き止めた。

「待って」

 エラの制止に、イーサーが怪訝そうに顔をしかめた。

「奉仕ぐらい私にもできる」

「奉仕? お前が?」

「そう。あなたは動かなくていい」

 かつての婚約者にも、したことのない申し出に、エラは頬を紅潮させた。こんなことを言い出す、私は本当に『エラ』なのだろうか。

 イーサーはしばらくの間、エラの目をじっと見つめていたが、壁に背を預けて手足を弛緩させた。

「そんなことをする必要はないがな」

「されるのは嫌いなの?」

「そうじゃない。ただお前をここに置いているのは、奉仕させるためじゃないと思っただけだ」

(なら、なんのためなの)

 エラは問いを呑み込んだ。ここに置かれているのは、男の性欲のはけ口としてではないのか。それとも自発的にことを起こそうとすることはその中に含まれていないのか。

 時々、不思議に思うことがある。イーサーは相手の意思を確認せずに事を進める。それは彼の出自を思えば納得のいく強引さだ。けれど傲慢なわけではないと思う。金に飽かせて人々を退けるような真似をしない。彼は世界のルールに従っている。

 もっと言えば、彼は実に敬虔なムスリムであり、誠実な実業家だ。名家の三男坊だという男が家を分け与えられ、シェイクと呼ばれるまでになることにどれほどの努力を要するのかは知れないが、彼の神と国に対する謙虚さや、仕事に向き合う真摯さをみれば、決して常識を逸するような男ではない。

 では、異国の死にぞこないを拾い上げ、このように留め置いておく。ぞんざいに扱うかとも思えば、手間暇かけて新しい世界をエラに見せようとし、時に労わってみせる。

 その意図はどこにあるのか。

 エラはイーサーの手を取った。固い皮膚の手のひらを指先でなぞる。

「エラ?」

 不審そうに問う男にエラは微笑し、その指先に唇を押し当てた。

 神の手に触れるような畏怖を抱きながら、そっと。

 この男の真意は知れない。

 それでもいつしかこの男を愛し始めていたことを、エラは知ったのだ。







 怪我をしてからの一週間、イーサーはほとんどエラの部屋から出ずに過ごした。熱もあってベッドから動けない。あれをしろこれをしろと命令する男に閉口したが、身体の不自由からくる苛立ちをぶつける様は子供のようで、逆にかわいらしくもある。ベッドの上で地図を広げながら、イーサーは戯れに訪ねたことのある国について、エラに語ってきかせた。

 怪我をしても、イーサーは変わらず多忙な男だった。いや、怪我をし、最初の一週間を治療と休養に専念したからこそ、その忙しさは一気に増した。週の半分は国におらず、エラに顔を見せることもせいぜい一週間に一回。半月顔を見せないこともざらになった。

 それでもイーサーは帰国した折には必ずエラに顔を見せた。“仕切りなおして街へ出かける”約束も守ってみせ、夜はエラを求めて眠った。長い睫を伏せて緩やかな呼吸を繰り返す男の顔を胸の中に見るたび、ひどく穏やかな気分になる。

 水底でゆたうような日々。

 だがそれは所詮、直視するべき現実から逃げているだけなのだと、エラは後に思い知った。







 イーサーが帰宅したと聞いて、エラは彼の私室に向かった。サミーラの案内なくとも、屋敷を自由に歩き回れるようになっていた。イーサーの醜聞を慮って自由に闊歩することこそなかったが、屋敷の人間はもうエラのことをよく知っていて、エラの姿を目にすると穏やかに微笑み頭を下げてくれる。

 何人かの使用人たちと目礼を交わし、辿り着いたイーサーの部屋には、先客がいた。

「ようやっとミズ・アダムソンがテーブルに着きました」

 壁越しに漏れ響いた声に、エラは扉を叩く寸前で拳を止めた。声には聞き覚えがある。アイマンとは別のイーサーの秘書で、フランス出身の彼は雇い主と英語で話す。

「あの女も疑い深い。だがエラがこちらの手の内にあると認めたようだ」

 イーサーの声だ。

「散々してやられたからな。倍にして返してやろう」

「ミス・エラはどうします? こうなればもう……」

 一歩、後ずさる。

 それだけで声が遠くなる。

 エラは目を閉じて呼吸を整えると、踵を返した。

 胸元を握りしめて廊下を引き返す。足早に戻るエラを、使用人たちが不審げに見た。

 ずっとなぜ、と思ってきた。

 何故、自分だったのだ。

 何故、自分をこのように。

 何事にも合理的で理路整然とした男が、エラを傍に置く理由にだけ説得力に欠ける。

 いつも言葉を濁される。

 だがそれでもいいと思っていた。

 自室に戻り、ベッドの上にへたり込む。

 イーサーたちの会話の流れから、エラが何かしがの材料の取引として扱われていたのだとは察しがついた。

 ミズ・アダムソンの名前は知っていた。

 エラの養母の名前だった。


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