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棺を叩く

『アッラーを信じよ。善行に励みし者は川流るる楽園に住まうことを許される。しかしかれの定めに背く者は地獄の門をくぐり、その身を幾度と焼く業火に永劫に閉じ込められよう』

 ベッドの上に横になり目を通しているものは、サミーラに手に入れてきてもらったコーランの英訳だった。イーサーの礼拝を見たあの日以来、俄かに興味が湧いたのだ。唯一神をたたえる内容は、幼いころ養母と通った教会の、古びた長椅子の背に挿してあった薄いバイブルをエラに思い起こさせた。

 イーサーだけではなく、灼熱の国のひとびとは皆、信心深い。サミーラに伴われて散歩をすると、ふいに礼拝をする人々に出くわす。祈りたいと思ったときが祈るべきとき。それをムスリムの人々は実践し、粛々と日々を送っていた。金曜礼拝には手順を教えてもらって参加した。ムスリムでもない自分が参加してもよいのかと戸惑ったが、アッラーを信じるかと問われたエラは信じると答え、ならば参加すればいいと快く迎え入れられた。

 カタールへやってきてから、三カ月が経過しようとしている。

 調度品美しい、空調の整った部屋で、メイドたちに傅かれながら日がな寝そべって過ごす。

 単なる『カナリア』であることに、不満を抱いたわけではない。

 ただ誰もが一度は夢見るだろう生活は、退屈を自覚してしまうと耐えきれないものになっていった。まるで水底で息を吹き返してしまったかのような苦しさを覚える。

 ――……変化したのは、エラだけではない。

「エラ」

 部屋に踏み込んできた男は今日も白いカンドーラに袖を通していた。イーサーは仕事場のあるオフィス街に出かけるときを除けば、大抵その姿だ。

「出かける。サミーラ」

「ヤー、シェイク」

「エラを着替えさせろ」

 命令だけを残し、男は出ていく。エラは、アーバラに着替えさせられる。女性用の、黒い民族衣装だ。

 イーサーは玄関で待っていて、エラの姿が見えるやいなや、先に車に乗る。そしてエラがアイマン――イーサーの秘書だ――の手を借りて席に着くと、急き立てられるように運転手に車を出すよう命じるのだ。

「今日はどこに出かけるのですか?」

 エラの問いに、イーサーは即答する。

「街だ」

 いつも通り、何の説明にもなっていない返答だった。

 エラがイーサーの礼拝を目撃したあの夜以来、彼はエラを屋敷の外に連れ出すようになった。

 初日はドライブだった。無言で書類を繰り、ラップトップのキーボードを叩くイーサーの対面の席に腰掛け、エラはリムジンの中から急速に発展しつつある都市を眺めた。次は高層建築現場。その次はリゾートビーチ。石油プラント。砂漠。

 今日は出来上がったばかりの最高級ホテルの高層ラウンジで、ティーセットを頼んでいた。どっしりとしたチーズケーキとカフェラテはカタールで暮らすようになってからは初めて口にする。イーサーはカプチーノを頼んでいた。カップに手はつけられていない。彼は英字新聞に熱心に目を通している。

 あの鳥籠で退屈を覚え始めてしまったのも、この男が余計なものを見せ始めてしまったからだと、エラはイーサーを恨みがましく見つめた。

 エラの視線が気になったらしいイーサーは、片眉を上げて首を傾げた。

「なんだ?」

「この散歩の意図はなんですか?」

「不満か?」

「質問を質問で返さないで……なぜ、と思っただけなの」

「意味はない。気まぐれだ」

「私をこの国に連れてきたのも気まぐれ?」

「俺は理由を説明しなかったか?」

「したわ。でもなぜそれが、私でなければならなかったの?」

 男の胸中は全く読めない。ただここ数日、寝室以外の場所で行動を共にして思ったのは、イーサーは決してあやふやな理由では決してアクションを起こさぬ男だということだ。

 たとえば食料品を扱う貿易商という職も、石油をはじめとした天然資源に恵まれはしても、砂漠が大半を占めるという国土の性質上、食料品を抑えておくことは非常に有益ということがうかがえる。また毎日連れまわされるにしても、ほとんど仕事を兼ねた場所だ。エラのために時間を割いている、というわけでもなさそうだった。

 ただ、エラを連れて歩く、その意味だけが見えない。

「コーランに縛られない女性は、この国にもたくさんいるでしょうに」

 カタールは中東におけるマーケットの中心地だ。生活水準は世界的レベルで見ても高く、革新的で、小さなステイツ(米国)を思わせるほど、多民族で溢れている。イーサーは美しい男だ。誘われればどんな女も喜んで脚を開くだろう。

 煩雑な手続きを踏んでまで女を一人連れてきて、囲う必要がどこにある?

「確かにこの国に来ているノン・アラビックの女たちは、コーランには縛られない。だが、インディペンデントすぎる」

 イーサーはtoo much の部分を強調し、カプチーノに口を付けた。

「私は違う?」

「そう。生ける屍だからな。……エラ」

「何?」

 カップをソーサーの上に置いて、イーサーは面を上げた。

「なぜ、婚約者はお前を置いていったんだ?」

 リーヴ・ユウ・アローンの言葉が冷たく響く。エラは血の気を失う自分の手を見つめた。屋敷の中で、メイドたちが常に香油で磨いていく手だ。ウェディングのために身体磨きに勤しんでいた時よりも、ベイビーピンクの爪には艶がある。

「……わたしは――……」

 最愛の存在と思っていた男。無二の友人だと思っていた女。彼らはエラを置いて手と手を取り、今はどこぞの空の下だ。

 なぜ、彼らはエラを捨て去ったのか。

「多分、言いたいことを言わない私に、いつもイライラしていたから……」

 エラは七つの年まで日本で育った。ニュージーランドで暮らし始めたのは、両親が亡くなり、彼らの親友だったという養母に引き取られてからだった。臆病だという父方の国の気質か、それとも英語をうまく話せなかった引け目からか、エラは己の考えを呑み込むことが多かった。いつしかかつての言語を忘れ、英語がマザータングに成り代わっても、エラは自分の思いの半分も口に出せなかった。

 婚約者と友人は、そんなエラの理解者だった。理解者である、はずだった。

 もしかしたら、エラに共通の苛立ちを抱き、それが二人を結びつけたのかもしれない。

 エラの説明を聞き終えた男は、不快そうに鼻を鳴らした。

「お前のどこをみて意見を言えない女だっていうのか、教えてほしいな」

 イーサーは新聞をばさりとテーブルの上に捨て置いて、エラの前に置かれた手のついていないチーズケーキを示唆した。

「早く食べろ。置いていくぞ」



*




 巨額の資本を投資され、繁栄の路をひた走る街並みをリムジンの窓からぼんやりと見やる。天然資源の宝庫たる国は、まるで宝石箱のようだ。碧い海を取り囲むレモンイエローの壁。新築のショッピングモール。植えられた人工のヤシの木。屹立する高層ビルと、その狭間を行き交う人々。

 何気ない日常をきちんと積み重ねる彼らから、エラは遠く隔てられている。そのことに、ひどく疎外感を覚えた。

「イーサー」

 エラは窓に張り付いて呻いた。何か意図があったわけではない。ただ今すぐこの箱の中から逃げ出したかった。

「イーサー」

 二度目の呼びかけで、男はようやっと面を上げた。けだるげに頬杖を突いて、胡乱な目でエラを見る。

「なんだ?」

 エラは外に出たい、と呻いた。

「外? 車の?」

「そう」

 そのときふと、勝手に鍵を開けて外に転がり出た自分が対向車に轢き殺されたら、この男は一体どのような反応を見せるのだろうとエラは思った。

 ガラスに額を押し付けて、エラはイーサーに懇願する。

「ここから、だして」

 イーサーが指示を出して停車した場所はオフィス街だった。その一角、ビル一階のオープンスペースにデイリーが入っている。見たことのない名の店舗な上、内装もBPに併設されているもののような、エラも慣れ親しんだデイリーのものとは異なっていたが、日用雑貨の並ぶ様が妙に懐かしい。思えばエラは、こういった買い物の場に足を踏み込むこと自体、ひどく久しぶりだった。必需品はサミーラが用意してくれていたし、何か欲しいものがあれば彼女に依頼すれば事足りたからだ。

 デイリーの店内はスーツ姿の男女が大半で、カンドーラ姿で美丈夫のイーサーは人目を引く。

「欲しいものがあるなら買え」

 そう言って、彼はエラに財布を放ろうとした。それをエラは慌てて止める。

「私、この国のお金がわからないわ。ドル?」

「リヤルだ。なら欲しいものを持ってこい」

 買い物をしたいわけではなかったが、エラは男の言葉に甘えることにした。アラビア語のものが八割を占めるが、国籍様々な人種ひしめくオフィス街のデイリーなだけあって、見覚えあるものもちらほらとある。キャドバリーのデイリーミルクと、その横に並んでいた地元品らしいナツメ菓子も何気なく手に取った。

「その二つだけでいいのか?」

 イーサーは驚いたように目を見開いた。なんなら陳列してあるものを一種類ずつ買ったって構わない。そんな意図が言外に透けている。エラは苦笑して頷き、イーサーと共に会計の列に並んだ。

 多忙な人間が多いからだろう。列はすぐに短くなっていく。次は自分たちの番、という段になって、不意にカンドーラ姿の見知らぬ男が列に割り込んだ。

「ちょっと……」

 英字新聞とミネラルウォーターのボトルを抱えた壮年の男は、決して浮浪者などではない。だが思わず批判を口に仕掛けたエラを振り向き、口の端をにやりと釣り上げる。何を怒っている。そういわんばかりだ。

 今までのエラならばそこに不服を覚えたとしても、表したりなどしなかっただろう。ただこの時ばかりは無性に、腹が立った。どうして、と相手を問い詰めたい気分に駆られた。

 それを、イーサーの手が押し留める。

「インシャー・アッラー」

 割り込んだ男が口にした決まり文句らしきものを、イーサーも繰り返す。

「インシャー・アッラー」

 壮年の男は何事もなかったかのようにエラに背を向け、イーサーも終わりだとばかりに目を閉じている。

 順番はすぐに回ってきた。エラは無造作に金を支払う男を、黙って見上げた。

 車はデイリーの前に横付けし続けるわけにもいかず、ビルの裏手に回してある。それを携帯電話で呼び出そうとする男を制して、エラは歩こうと言った。滅多に見て回ることのない街並みを、少しでも堪能したかった。

 しかしそれは誤りだったと、すぐに後悔することになる。

 カタールの日中は四十度を超える。少し歩くだけでも汗ばむどころではなかった。人々が常に空調を付けてひきこもるのも無理はない。暑さに慣れているらしいイーサーの顔色は涼しげだったが、エラは日陰を歩いているにもかかわらず、すぐにばてた。

 それ見たことかと目を細めたイーサーは、エラを風通しのよい場所に押し込んで、携帯電話を取り出す。彼が運転手に連絡を取りつけている間、エラはいつの間にか自分がオフィス街とは少し外れた場所にいることに気が付いた。

 街を歩いてみて回りたいと口にしたわけではない。それでもイーサーはその胸中を汲んでくれていたのだろう。

 もうすぐ車がやってくると述べるイーサーに向き直りかけたエラは、すぐ傍で響いた炸裂音に、微笑みに緩めかけた口元をこわばらせた。



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