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神聖な夜

 新しい生活は、まさしく美しい籠に閉じ込められたカナリアを彷彿とさせるものだった。

 エラの新しい家となったイーサーの屋敷は、伝統建築様式に則ってはいるものの、実際にはかなり近代的な造りをしている。室内には至るところに断熱材が使われ、電子機器によって室内の温度は完璧に管理されていた。ひやりとしたガラスの向こうは灼熱の土地。エラの母国と比べて平均気温が二十度は違う。

 ただ室内には中東らしい装飾が隙間なく施され、まるでアラビアンナイトの世界へ迷い込んだかのような錯覚をエラに抱かせた。色彩豊かなタイル。彫刻。歴史を感じさせるくすんだ銀の燭台。スルタンの肖像を模したタペストリー。光沢あるサテンの生地が、陽光にさらされるたびに艶めく。

 イーサーは、三日に一度ほどの頻度でやってきてエラを抱いていった。機嫌が良ければ優しく、悪ければ荒々しく。それは“もの”に対する扱いと相違なく、エラは鳥籠の小鳥さながらに啼いていればよかった。彼がいない日は、黒衣に身を包んだメイドたちがエラの身体を磨き、揉み解し、着飾っていく。

「……お前は、何も言わんな」

 エラを組み敷き、鎖骨の輪郭を指で確かめていたイーサーが、だしぬけに言った。男がこのようにエラに物を言うのは、カタールに足を踏み入れたあの日以来だった。

「……何を言ったらいいの?」

「言いたいことはないのか?」

「何も」

「つまらん女だ」

「死体や人形はつまらないものです。……刺激が欲しいのだったら、もっとちゃんと、生きている人を囲えばいいのだわ」

 ここで放り出されても構わない。そうすればまた石でもつけて海に潜ろう。醜く膨れる身体はきっと魚の餌になり、無為に過ごす今よりは何かの役に立つだろう。

 イーサーはふいにエラから離れた。裸足を鳴らして出口へ向かいながら、床に落ちていたカンドーラを拾い上げ、袖を通す。橙色の照明に浮かび上がる、なめらかな小麦色の肌と引き締まった筋肉の線が、白い布地に覆い隠されていった。

「……イーサー?」

「興が削がれた」

 エラに一瞥すらくれることなく、男は言う。

「寝ろ」

 そしてひとこと命じ、彼は扉の向こうへ姿を消した。





 時計は、もうすぐ夜明けであることを示している。

 イーサーが消え、数時間経っても、エラは上手く寝付くことができなかった。

(荷物を纏めろと言われるかしら……)

 もっとも纏めるようなものは何もない。衣服も大抵はイーサーが用意したものばかりで、元々の手持ちはシャツとジーンズ、そして花柄のワンピースが一着ずつだった。家具もすべて備え付けだ。部屋の片隅に置かれた小さなスーツケースの中には、本当に僅かなものしか入っていない。

 エラはスーツケースから扉へ視線を移した。木目と彫刻が美しいそれは、部屋と外とを隔てている。この屋敷に来てからというもの、エラはほとんどその戸を潜ったことがなかった。

 エラはベッドから降り立ち、廊下を徘徊しても構わぬ程度に軽く身を整えた。

『つまらん女だ』

 イーサーの言葉に反発したというわけではない。

 ただ、もう一眠りするためには、軽く身体を動かしたほうがいいだろうと思っただけだった。

 連れてこられたときも思ったが、イーサーの屋敷は広大だった。これだけの広さを所有できるというのは、イーサーの属する一族がよほどの名家なのか、それとも彼自身が飛びぬけて有能なのか。

 等間隔に置かれた明かりが足元を照らす廊下には無論、誰の姿もない。窓越しに見える庭は夜露に湿っていた。降水のほとんど見られない国だが、存外、夜間は湿度が高いらしい。

 ルームシューズの底に張られた皮がタイルを叩く、とつとつという音が廊下に反響する。それほど、辺りは静寂に満ちていた。

 まるで、水底のような。

 ぶるりとエラは身を震わせ、来た道を引き返した。角を曲がり、進み、再び角を――……。

「えっ……」

 辿り着いた場所は、行き止まりだった。壁とそこに掛けられた微笑む女性の写真が往く手を阻んでいる。

 道に、迷ったらしい。エラは踵を返した。まっすぐ進む。角を右へ。いや、左、だっただろうか。

 似たような彫刻。似たような装飾品。カラフルなモザイクタイルがエラに位置を見失わせる。

 どうすれば、と眉間に手を当てた瞬間、聞き覚えのある声が届いた。

「イーサー……」

 何かを朗読しているかのような、抑揚を殺した声が、壁の向こうから聞こえる。

 エラは壁面に手を付きながら、用心深く道を進んだ。声の響く方角を頼りに歩き、壁を超える扉を探る。そうしてようやっと目にした木扉に胸を撫で下ろし、エラはノックも忘れてそっと扉を開けた。

 そこは、ステンドグラスのバラ窓と、金のカリグラフィーに彩られた祭壇が美しい、白い壁に囲まれた、小さな部屋だった。

 床を覆う絨毯は鮮やかなターコイズブルー。それがカンテラの明かりに揺らめいて、水面のような陰影を作っている。明かりの傍に跪く影はエラも見知った男のもの。彼は祭壇に向かって直立し、何事かを呟くと、腰を折って屈伸した。再び直立し、膝を追って平伏する。

 明かりに照らされた男の横顔は、かつてないほど真剣そのものだった。

 敬虔な、祈り。

 引き寄せられるようにエラが足を動かした瞬間、厳しい叱責が飛んだ。

「動くな」

 絨毯の手前で、エラは立ち竦んだ。

 イーサーは、礼拝を続けている。

「アッサラーム、アライクム……」

 締めの一言を呟き終わった男は立ち上がり、エラを振り返った。

「何をしている?」

「……道に迷って」

「こんな時間にか? 夢遊病の気でも?」

 馬鹿にしたように嗤って歩み寄ってくる男に、エラは気色ばんだ。

 抗弁しようと開きかけたエラの口を、彼は手で塞ぐ。

「アッラーの御前だ。……付いてこい」







「あなたこそ、こんな時間に礼拝を?」

「礼拝はいつしても構わない。祈りをささげたいと思ったときがすべき時だ」

「敬虔なんですね」

「欧米流にいうならば、一種の精神統一だ。アッラーに向かい合えば真っさらな気分になれる」

「真っさらな気分になりたいようなことがあったのですか?」

「死体が急にしゃべるようになったな」

 イーサーの皮肉にこれ以上話す気も失せ、エラは口を閉ざした。彼の言う通りだ。拾われた死体はむやみに話すべきではないと、自嘲ぎみに思う。

「エラ」

 エラは隣を歩く男を見上げた。イーサーは眉間を僅かに寄せて、青い双眸にエラの姿を映している。透徹した瞳と冷たさすら漂う端正な顔から、彼の胸中を汲み取ることはできない。ただ、呼びかけの声が思いがけず柔らかい響きだったこともあって、エラは沈黙を責められているような気分を抱いた。

「……礼拝を、初めて見ました」

 エラの周囲にイーサーを除いて、かつてムスリムは存在しなかった。

「不思議だった。あなたのすぐ前に、神がいるような気がした」

「神はいる。すぐそこに。いつも」

 イーサーの口調は決然としていて揺るぎがなかった。

「アッラーは審判者であり執行者だ。ひとりひとりの生のすべてを見届け、死すときに天へ導くか地に堕とすかを決められる」

 エラは不思議に、そしておかしく思った。

「いつも神様が見守ってらっしゃるのに、あなたは酒も飲むし……こんな風に死体を囲っているのね」

 イスラムの戒律では、豚肉と酒が法度だったはずだ――エラの記憶が確かなら。だがイーサーはニュージーランドでワインの試飲をしていたし、飛行機の中でも蒸留酒を嗜んでいた。そして誰にも迷惑をかけてないとはいえど、女を一人連行し、娼婦扱いしている。

 決して褒められる行いではあるまい。

「俺のアッラーは時々余所を向いてくださる」

 都合がいいのね――……。

 軽口を、エラは慎んだ。

「エラ。お前に信ずる神はいないのか?」

「え?」

「イエスの徒ではないだろう」

「何故そう思うの?」

「もしイエスの徒であれば自殺はしないだろう」

 違ったか、と問われ、エラは俯いた。

「……そうですね。私は無宗教なの。神は……そう、どこにでもいる。けれど唯一絶対ではなくて……なんていったかしら。ヤオロズノカミ?」

「なんだそれは」

「日本語よ。父がそういってたの。私も詳しい意味は知りません。ただ、海や山や川や、自然ひとつひとつに、神がいるとみなす」

「スピリチュアルか」

「神聖なところに神を見るの。だから……あなたの前に、神が見えたわ」

 いや、この男が神に見えたのかもしれない。

 全てにおいて命令口調で、傲慢とすら思える彼が神などと、自分の目も耄碌したものだ。

 自嘲しかけたエラはふと、イーサーが息を呑む気配に首を傾げた。

「どうしたんですか?」

「いや……」

 顎に手を当て、黙考するそぶりを見せた彼は、ややおいて言いにくそうに呟く。

「……なんというか……心がきれいなんだな」

「…………は?」

 子供でも言わぬような拙い表現に、エラはイーサーを見つめ返した。彼もまた、自分が口走ったことに対してか、妙な顔をしている。エラはもう一度自分が言われたことを胸中で反芻し――……気恥ずかしさに、顔を赤らめた。

「……あ……ありがとうございます」

 エラの謝辞に、イーサーは応じなかった。つい、と廊下の正面に視線を戻し、彼は少し歩く速度を速める。

「卑しいものに、神は姿を見せない」

 立ち止ったイーサーがぽつりと落とした言葉は、言い訳めいて聞こえた。彼が開けた扉の先には、見慣れた部屋がある。エラの寝室だった。

 部屋の中にエラを突き飛ばし、イーサーは言う。

「今日からサミーラを付けて散歩に励むんだな。道ぐらい覚えろ」

 つい先ほどまでの会話とはうって代わり、エラを突き放すような、冷えた声音だった。


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