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水底から拾われる

 鳥の島とも喩えられる緑あふれる国から、イーサー曰く、天国に一番近いところをエミレーツのファーストクラスで移動する。パーテーションで区切られた個室は機内としては決して狭くはない。しかしどうしても息苦しさを感じ、エラは溜息を吐いた。何故こんなことになっているのかわからない。婚約者に捨てられた傷心を癒す間もなく必要最小限の荷物を纏め、エラはこうしてイーサーの母国、カタールへ向かっている。住み慣れたアパートの解約手続きや旅券、ビザの申請一切はイーサーの秘書である壮年の男が瞬く間に終えてしまった。養母には連絡が取れなかった。商談で既にバンクーバーへ飛び立った後だという。伝言は残したから、そのうち気付くだろう。

 与えられたガウンの前を掻き合わせ、パーテーションの傍で、エラは自分を“拾った”男の横顔を眺めていた。

 イーサーは備え付けのデスクにラップトップを置き、ネットに繋いで仕事をしている。その姿はモスクで礼拝するイスラム教徒というよりもニューヨークのメインストリートを闊歩するやり手の実業家そのものだった。恥ずかしい話だが、エラは中東に詳しくない。アラブ人といわれても、髭を生やした男が白のターバンを身に着け、モスクで礼拝しているイメージしか思い浮かばない。ターキッシュか、と尋ねたら雷が落ちた。イーサー曰く、トルコ人とアラブ人は全く別物らしい。いわれてみれば、確かにトルコ国民だからこそターキッシュなのであって、カタール人である彼にしてみれば、キウイであるエラがオージーか、と尋ねられるような感覚なのだろう。失礼を働いてしまった。

「なんだ?」

 ラップトップのディスプレイから目を離さず、イーサーがエラに問う。

「私を拾って……どうするんですか? 役に立てるとは思いませんが……」

 同じイスラム教徒でも、信仰する派閥も全く違うらしい。イーサーが何をさせたいのか知らないが、こんな前知識もない状態で役立てるとも思えなかった。

「役に立ってもらうさ」

 イーサーはラップトップをシャットダウンし、画面を伏せた。

「席につけ。もうすぐ到着する」

 窓の外に視線を移し彼は言う。

「あれが、俺の国だ」

 イーサーの示す先には、彼の瞳と同じ色に面した、砂色の大地が広がっていた。







 飛行機を降りてリムジンに乗り換え、ビーチ沿いの道路を行く。カタールの首都ドーハ―は中東第一位の貿易センターで、数々の国際会議も執り行われる大都市だ。遮るもののない広い空を屹立する幾本もの摩天楼が貫いている。往来する人種は様々で白人黒人オリエンタル。人種の明確でないミックスも。

 リムジンはやがて堅牢な門をくぐり、白い屋敷の前に横付けされた。

 タージマハルのミニチュアを連想させる、シンメトリーを意識したムスリム建築。豊かな水と緑に彩られた広大な庭はアラビアンナイトに描かれる挿絵のようだ。物言わぬ大勢の使用人たちがイーサーとエラを出迎えた。

「サミーラ」

 色鮮やかな長衣を身に着け、頭をスカーフらしきもので覆った中年の女性をイーサーは呼び寄せた。

「彼女がお前の世話をする。エラだ。万事、事前の指示通りに」

「はい」

 こちらです、と促された先は広大な屋敷の奥だった。潮風吹き抜ける回廊の向こうの一区画がすべてエラのものになるという。一体、自分の身に、何が起こっているのだろう。もう何度自問したかわからぬ問いを胸中でもう一度反芻し、エラはサミーラに問いかけた。

「あのひとは、何者なの……?」

「あのひと、とはどなたのことでございましょうか、お嬢様ハッジャ?」

 僅かに訛りのある英語でサミーラは言った。

「イーサーです」

 エラに、中年の世話役はぬばたまの黒目を細めて笑う。

「ミスナード家分家バニ・ミスナードシェイクでございますよ、ミス・エラ」





 カタールでも有数の名家の三男坊。実業家としての手腕を認められて分家のシェイクとなることを許された男。それが、イーサーだった。

 年は三十二。エラよりも四つ年上だ。多重婚の認められるムスリムでは珍しく独身で、世界中の食材を扱う商人として財を成していた。

 部屋備え付けのバスタブで身体と髪をメイド数人がかりで洗われ、ローズの精油をたっぷりと塗りこまれる。ビーズと刺繍が念入りに施された、民族衣装に着替えさせられ、へとへとでベッドに横になり、エラはイーサーの到着を待った。

 男が姿を見せたのは日も傾き始めてからだ。エラの前に現れたイーサーは、スーツを脱ぎ、ゆったりとした白い民族衣装カンドーラを身に着けていた。

 うとうととしていたエラは男の気配に慌てて立ち上がった。着替えさせられた薄緑色のレヘンガの裾がさらりと衣擦れの音を立てる。

 歩幅大きく足早に歩み寄ってきたイーサーは、初めて会ったときにもしたように、エラの顎をその手で捉え、まじまじとエラの顔を観察した。

「悪くない」

 そういって男はエラの身体をベッドの上に突き飛ばす。呆然とするエラの肩口を押さえつけ、彼は言った。

「この国の風習など覚える必要はない。今日からお前は籠の中でさえずってさえいればいい」

「娼婦になれっていうことなの?」

 イーサーは薄い唇を酷薄な笑みに曲げる。

「ひとつ、面倒なアラブの習慣を教えてやろう。俺たちは妻に処女を求める。婚前交渉をしたければ、後ろを使えとのお達しだ。この国では徹底されてはいないが、それでも名門の血筋というものは煩くてな。とはいえ、妻をめとる気にもなれん」

「なぜ?」

「女はうるさい。仕事の邪魔にもなる。かといって、俺は禁欲主義でもなければ、アッラーの教えに背く気にもなれん。国外では遊ぶ女には不自由しなかったが、これからはドーハで仕事をすることが増えるんでな」

 既に処女でもなく、ムスリムの文化風習に無知で、生の価値を見失ったエラのような女は、囲うのにうってつけということなのだろう。

「それにお前、普通のホワイトとは少し違うな。まぁあの国はポリネシアンもいるからな……」

「私の父はジャパニーズです」

 養母が唯一愛した男だ。父を愛していたがゆえに、彼女はエラを引き取った。

「なるほどな。オリエンタルか。神秘的でいいじゃないか」

 一瞬、意外そうに瞠目していたイーサーは満足げに頷いて、イーサーは目を細めて笑った。

「好みだ」

 それはエラでさえはっとするような、艶のある、実に魅力的な微笑だった。

 ペルシャ湾を思わせる深い深いネイビーブルー。その瞳には海のような懐の深さと、容赦ない無慈悲さが同居していた。

 覆いかぶさってくる男の体重を感じながら、エラは虚脱に目を閉じた。

 海のような男に囲われる。それは水泡に帰したいと崖から身を投げたエラが水底で見ている、夢の続きなのかもしれなかった。


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