天国に一番近い場所
クリスマスに誰もが浮き足立つ十二月、夏の光に満ち溢れるネイピアの教会で、エラは誰よりも幸せな花嫁になるはずだった。
薔薇咲き乱れるクイーンズガーデンの東屋を中心に、白いリネンで飾った丸テーブルを並べ、舌に馴染んだハウスワインと上質のチーズ、フルーツとクリームのたっぷり乗ったパブローバー。ブライドメイドは親友のデライラに頼んだ。日系ハーフはいまどき珍しくなかったけれど、引っ込み思案でいじめられがちだったエラにとってデライラは、プライマリーからカレッジまでホーキーポーキーのアイスをなめながら一緒に通った無二の友人だった。
その彼女が、新郎となる男と駆け落ちしてしまうまでは。
水平線に沈む飴色の夕日を、エラはぼんやりと眺めた。新郎不在の結婚式はもちろん中止。会場は騒然となり、数少ない参列者たちから同情と憐憫の眼差しが無慈悲に突き刺さった。頼み込んで参列してもらった養母は恥をかかせるなと憤慨し、さっさとオークランドに引き返してしまった。ニュージーランドの玄関口である大都市には、彼女がヘッドを務める貿易会社の本社がある――……。
(もう、死んだ方がいい)
エラは崖から一歩踏み出した。花嫁衣装となるはずだった白いドレスの裾が、風に翻り、夏の斜光によって黄金色に染め上げられた。
*
低いエンジン音と風を切る音が、耳に着いた。
(どこ……?)
「気が付いたか」
低い声に重い瞼をこじ開ける。ゆったりとしたソファーに腰掛ける、ひとりの男の姿に目を留めた。日に焼けた肌と黒髪を持つ若い男だ。ターキッシュだろうか。彫りの深い端正な顔立ちの中で存在を主張する、深い青の目が印象的だった。
ひとりワインを楽しむ男に、エラは乾いた唇を動かして尋ねる。
「ここはどこですか?」
男はふん、と鼻を鳴らして嗤った。
「天国に一番近い場所だ」
オークランドへ向かうチャーター便の中だと知ったのは、現地に到着してからのことだ。
*
勝手にオークランドまで連れてきたことを抗議したエラに、男は傲然と言った。
「お前が捨てた命を俺が拾った。俺がどうこうしようと勝手だろう」
イーサーと名乗った彼は、カタールの貿易商らしい。最近、好事家の間で高値で取引されるようになったニュージーランド産のワインを買い付けに来ているとのことだった。ネイピアにいたのは、商談ついでに葡萄園の見学をしていた為だという。ワインの産地のひとつであるネイピアには、上質の葡萄を生み出すヴィンヤードが数多くある。
「どうして私が命を捨てたと?」
「ウエディングドレスを着た女がひとり、青い顔のまま崖上でふらふらしているんだ。そして海に向かって一歩踏み出した。どう見ても自殺しようとしていたとしか思えん」
違うか、と問われ、エラは違いません、と正直に答えた。否定する気力も何もかもが失せていた。
「免許証から住所を割り出した。アドレスはオークランドになっていたが?」
「……そうです」
ネイピアは学生時代を過ごした思い出の地だった。だから式の場に選んだのだ。
「なら連れ帰ってもらったことを喜ぶんだな」
イーサーは立ち上がった。仕立てのよいスーツの上着をさらりと着込んで部屋を出ていこうとする男に、エラは尋ねる。
「何故助けたんですか?」
「勘違いするな」
男は鋭い眼光をエラに向け、踵を返した。ぬっと、その大きな手がエラの華奢な顎を捕える。
「助けたわけではない。言っただろう? 俺はお前の命を、拾ったんだ」
イーサーは手を離し、パスポートは、と言った。
「え?」
「聞こえなかったのか。パスポートは持っているかと訊いたんだ」
「……持ってます」
「運転手を付ける。アパートに戻って取ってこい」
「え? なんのために……」
「わからないのか?」
パスポートが必要となる理由はひとつだ。
「出国するためだ」
イーサーの口調は、心底馬鹿にしたものだった。